第9話 自然の無条件の受容
一方ツバキは黒の石の国を二日かけて出た後、山に登り始めていた。
目的地もなく飛び出したツバキだったが、なぜか原爆が落ちるカソリに行かなければならない気がして、北西に向かって進んでいた。
『この山を越えなければ、隣国へは行けない。』
その山は緑の木々が生い茂る、豊かな森を抱えた山だった。
しかしツバキは言い様のない疲れに、体も心も震え始めたのを感じていた。
女王に背いたことも、一人で飛び出したことも、予言のことも、考えるだけで頭が痺れるような苦痛を感じた。
何より、今まで心の中だけで孤独だったのが今は現実的にも完全に孤独だった。
しかしツバキは心が孤独で人といるよりも、心も現実も孤独の方がどこか落ち着く自分がいることにも気づいていた。
ツバキの孤独は今に始まったことではなかった。
精神が深く感受性も豊かなツバキは、現実的な側面ばかり重視される黒の石の国では生きづらかった。
そして誰もそこに寄り添う人はいなかった。
『誰か、心よりも深く、闇の向こうの私に気づいて。』
ツバキはそう思いながら夜一人で泣いた。
子供の頃から、何度も。
ツバキの孤独の向こうに、今も泣いている小さな子供がいた。
ツバキの頬を涙がつたった。
しかし足を止めることはなかった。
数時間後もツバキはほとんど無意識に山を登っていた。
しかしそれは他の考えに没頭していたからだった。
ツバキの思考は、皆がなぜ自分の中の闇に気づかないのかというところで堂々巡りしていた。
『なぜ皆気づかないの?自分の中の孤独や闇に…なぜ皆逃げる?』
そう考えると、ツバキの中で怒りが首をもたげた。
『絶対にどこかで知っているはずなのに、なんで皆目を背けられるの?』
その怒りは静かにふつふつと沸き始めた。
『それぞれが自分の闇に気づき責任を持たない限り、必ずどこかにしわ寄せがくるとなぜ気づかない?なぜ気づかないでいられるんだろう?わからない…』
『こんな闇を…私自身の闇と、一族の闇を私一人で背負うことなんてできない。なんで皆気づかないの?闇が…重い…』
ツバキはだんだん怒りが収集がつかない程溢れてくるのを感じて怖くなっていたが、止めることができなかった。
『皆無責任すぎる。都合の良いところしか見ずに闇は全部私に押し付けて、それなのに勝手なことばかり。』
ツバキは自分がどうしようもない怒りをずっと抱えていたことに気づいた。
一人で全てを背負わされたような気がしていた。
ツバキの怒りは果てしなく、自分自身へも牙を剥いていた。
イライラで心がぐしゃぐしゃになっていたツバキは、自分がとても綺麗なところに辿りついていたことに気づくまで少し時間がかかった。
そこは澄んだ小さな湖と、大きな樹が悠然と立つ美しい場所だった。
「山の中にこんな綺麗なところがあったなんて知らなかった。」
ツバキは怒りを一瞬忘れた。
体が限界だったのか、よろよろと樹の根元に倒れこんだ。
一息つくと、また感情の波が襲ってきた。
過去の出来事、感情がぐるぐると巡っては過ぎ、またやってきては心を踏みつけていった。
もう感情に収集がつかず、何の涙かわからないのに涙が溢れ続けた。
体が鉛のように重く硬くなっていた。
大きなため息をついた。
心も疲れ果てたツバキは、目を閉じて、樹の呼吸を感じた。
樹の葉っぱがさらさらと音を立てていたことに、今になって気づいた。
目を半分開けたが、何も考えないようにした。
しかし突然、女王の最後の目が脳裏に浮かんでハッと目を開いた。
『そう、あの目…』
突然昔の記憶が蘇った。
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ツバキはずっと城の中にいたので友達が全くいなかった。
親族に歳の近い人もいないし、兄弟もいない、世話役も女王の娘のツバキには一線を引いていたのでいつも一人だった。
そんな環境で育ったことと、生まれながらの内向的な性格と強い感受性が影響して、ツバキは人ではなく自然に強く惹かれる子供になっていた。
十歳の頃のある日。
ツバキはいつものように窓から空を眺めて長い間じっとしていた。
その様子を見ていた世話役の女性が、少し心配になってツバキに話しかけた。
「ツバキ様、ずっとそうして何をなさっているのですか?」
ツバキは目を空から離さずに、さも当然というように答えた。
「空とおしゃべりしてるの。」
その言葉に世話役の女性は小さく驚き少し怯えたが、空に集中しているツバキはその時は気づかなかった。
ツバキはおしゃべりという表現をしたが、当然実際にしゃべっているわけではない。
しかし意識を集中させて空の波長に合わせることで、ツバキは空との一体感を感じ、会話しているような繋がりを得ていた。
空意外にも風、花、土、雲、あらゆる自然と繋がり戯れそして愛していた。
しかしそれは一種独特で、この現実世界では異様なものと扱われるとはツバキは幼さゆえにまだわかっていなかった。
数日経ったある日、ツバキが部屋で本を読んでいるとノックをする音がした。
硬い表情の女王と知らない白衣を着たおじさんが入ってきた。
そしてその後にうつむきながら世話役の女性も入ってきた。
ツバキがキョトンとしていると、白衣を着たおじさんがこれが優しい笑顔だ、という顔を見事に作り上げて話しかけてきた。
「はじめまして、ツバキ様。私は町の外れで医者をしております。」
ツバキは「はじめまして」と挨拶をしたが、何のためにここに医者がいるのかわからなかった。
城には専属の医者が数名いるのに、なぜわざわざ外から医者を呼んでくるのか。
視線を感じてツバキは女王を見たが、女王は目が合う前に視線をそらした。
ツバキは皆の様子がおかしいことに気づいた。
世話役の女性も一向に顔を上げない。
その時、女王がまったく別の方向を向いてツバキに話しかけた。
「この者が、最近お前の言動がどうもおかしいというのでな、城の医者に精神の病が専門の医者がいないのでこの者に来てもらったのだ。」
『え?…精神の病?』
ツバキは女王が何を言っているのかわからなかった。
『…』
ツバキは目を合わせようとしない女王、笑顔を作り上げている医者、そしてまだ顔を上げない世話役の女性を見た。
その時、突然全てが繋がった。
『…そういうこと?』
だいたいの事の経緯は把握できたが、女王が目を合わせようとしないことが何よりツバキを不安にさせた。
「おそらく、注目して欲しいがための虚言ではないかと…」
さっきの医者が女王にそう説明していた。
完全にインチキと思えた医者の診察が終わった後、医者と女王が二人で話しをしている部屋の外でツバキは聞き耳を立てていた。
『注目して欲しいがための虚言?』
ツバキは心の中で憤慨した。
『なにそれ!』
しかし…
女王の反応はツバキが想像していたものとは全く違っていた。
「そうか、確かにあの子は昔から甘やかされて育ってきたからな…自分に注目が集まらないのが嫌なのかもしれない。」
そう言って頭を抱えるようなしぐさをした。
『甘やかされて?』
ツバキは愕然とした。
あまりにもツバキが体感している現実と違う周りの自分への認識に、驚くと同時に今まで信じてきた何かが崩れ去っていくのを感じた。
ツバキは後づさった。
足が勝手に後ろに動いたが、それよりもツバキの心の方がずっと後ろへと引いていった。
「ツバキ様?」
突然後ろから呼ばれてツバキは飛び上がった。
女王と医者もその声を聞いてハッとして扉の方を見て立ち上がった。
「こんな所で何をなさっているのですか?女王様にご用ですか?」
世話役の優しい声とは裏腹に、ツバキはこの世の終わりのような気分になって、愕然と世話役を見た。
その時、バンッと部屋の扉が開いて女王が出てきた。
ツバキが振り向いたその瞬間…
ツバキはハッとして言葉を失った。
はたと目が合った女王の表情に、はっきりと怯えが見て取れたからだった。
今まで見たこともない表情。
怯え、戸惑い、怒り、恥…それらを含んだ女王の目は、一瞬でツバキの心をえぐった。
『…ごめんなさい…』
うつむいたツバキの心を、罪悪感と恥ずかしさが支配した。
「…」
長い沈黙が流れた。
ツバキにとって、その沈黙は永遠だった。
そして十歳のツバキは悟った。
『普通は空と会話しないんだ。それに、普通じゃなきゃ私は受け入れてもらえない…普通じゃなきゃ、お母さんも周りの人も困らせる…』
ツバキはその日から、普通に沿って生きることを徹底した。
しかし、内的傾向と感受性を外の目に隠すことはできても、自分の中で止めることはどうしても出来なかった。
感受性が自分の中で動き出す度に、ツバキは自分を責め、戒めた。
『普通にならなきゃ。』
ツバキの内的世界と現実の溝は広がるばかりだった。
そして自然という外の世界に意識を向けることを自分に禁じたツバキは、ますます自分の内へと入っていくしかなかった。
しかしそこは、人間独特の底のない闇が広がる苦しい世界だった。
それでもツバキは自分の内へ入っていく他、道が無かった。
・
・
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ツバキは女王の怯えた目をありありと思い出していた。
そして最後に窓越しに見た目も。
ツバキは突然叫びながら泣き出した。
樹の根につっぷして、悔しさが喉を潰すような泣き方だった。
手で無意識に根を叩いていた。
手が折れたかと思う程じんじんしても、もうどうでもよかった。
胸を掻き毟られるような悔しさに、左手で心を握り潰すかのように胸に爪を立てた。
「…うっ…あぁー!」
ツバキは今この激しい痛みをもって、強烈に認識した。
自分を孤独へ突き落としたのは、女王のあの目だった。
自分を闇に閉じ込めたのは、他でもない愛する母だった。
ツバキはほとんど呼吸困難に陥りながら仰向けになり、樹に寄りかかった。
現れるいくつもの想いを、ただじっと見ていることしかできなかった。
女王の怯えた目の奥に、さらに見えたツバキさえも触れられない孤独。
その女王の孤独を自分では絶対に救えないと悟ったわずか十歳の絶望。
しかしそれに本人が気づかないという切なさ。
それでも、母本人さえ気づかなくても、母をその寂しさから救いたいと願ったこと。
いくつもの母への葛藤を抱え、苦しみを感じ続けたとしても、母を愛することから逃げないと静かに覚悟したこと。
それら全てを、ツバキは今一度に思い出して感じていた。
そしていかに、自分が自分の内的世界で必死に生きてきたかも痛烈に感じていた。
ツバキを更なる疲労がどっと襲った。
今まで生きてくる中で抑え込んで耐えてきた全ての怒り、孤独、悔しさ、悲しみが噴出してくるような感覚だった。
もうその細い体では耐え切れない程の苦痛だった。
そして、その耐え切れない苦痛は今のツバキの心を急速に蝕んでいった。
『怖い…ただ、生きていくだけのことが、こんなにも怖く感じるなんて…』
全身の震えが止まらなかった。
疲れ果て、心が無防備になったツバキにこの現実はあまりにも酷だった。
恐怖と全身を刺すようなあらゆる痛みに、ツバキは生きる気力を奪われていった。
『あんなにも人に訴えておきながら、自分はここで諦めるのか。』
『死にたいと思ったことなんて何度もあったけど、死にたいと思っているうちはまだ私に選択する自由があったんだ。今は、死がそこにある。死が私を迎えにくるのかな…』
『ちょうどいい…もう生きていくことに、疲れた…』
放心状態で樹に寄りかかっていたツバキの顔に、最後の一滴の涙が流れた。
ツバキの意識はただ静かに、この世界から奪われていった。
風が吹いて、ツバキが寄りかかっていた樹が大きく揺れた。
「…」
・・・
疲れ果てた、優しい子
一度ここへ帰っておいで
涙をこらえて耐えた日々も
笑顔で闇を隠したあなたの優しさも
私達は全て知っている
疲れ果てた、愛しい子
泣きたいだけここで泣けばいい
もう自分を偽る必要はないのだから
私達を愛してくれていたことも
ずっとずっと知っていた
疲れ果てた、健気な子よ
世界はそのままのあなたを…
・・・
ツバキはハッと飛び起きた。
「…誰?」
しばらく自分がなぜ外で樹に寄りかかっているのかわからなかった。
徐々に全てを思い出していくと同時に、体がバキバキに固まっていることに気づいた。
なんとか立ち上がり、来る途中に見つけた湧き水が出るところまで行こうとした。
顔を上げたツバキは、太陽が真上より少し傾いているのを確認したが、今がいつの午前なのか午後なのかまったくわからなかった。
湧き水で顔を洗い、口に含ませながらさっき聞こえた声のことを思い出していた。
『夢?でもなんだかすごく懐かしくてあったかい声だった。』
ツバキはその声を思い出すと、ふっと力が抜けて優しい気持ちになれた。
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