第2話

「それはそれは、大変でございましたねぇ」


 たどり着いた先、灯りのその場所にあった小さな山小屋の中で、小平治を迎えてくれたのは三十を少し出たくらいの女だった。


「う、うむ、まぁ。助かり申した」


 そう答えた小平治は、その女を前にして先程から震えが止まらないでいる。


 目の前にいる女は、こんな山中にいるには似つかわしくない、小太りでつきたての餅のような肌は艶めかしく、後ろで一つに束ねた髪は夜の闇をそのまま切り出したかのように深い色をして、かつ、絹の如くに滑らかな、いい女であった。


 白くやわらかな指で湯を出してくれたその所作の一つ一つも、妙に、堂にいっている。


 それよりも、何よりも……。


 出された温かな湯を啜りながら、小平治はその顔をまじまじと見つめた。


 と、女が口を開く。


「どなたかに似ておりますでしょうか」


 その声に心の臓を一突きにされたような心持ちになって、小平治は慌てて首を横に振った。


 似ている、どころではない。


 囲炉裏の火に照らされて、茜色に揺らめくその女の人相は、女房おさきと瓜二つ。いや、むしろ割らずそのまんまといった具合に、そっくりであった。


「申し訳ない、死を覚悟していたもので、その、放心してしまってな」


 情けない事だ。と、小さく付け加えて、小平治はその場を取り繕った。


「無理もない事でございます、慣れぬ者には、山の中というのは自分の居場所もはっきりしないものでございましょうから」


 と、女は相槌を打って立ち上がると、狭い小屋の水場から鍋を一つと徳利を一つ下げてきた。


「お湯で胃の腑が温まったなら、何か食べた方がよいでしょう」


 そう言って女は鍋を囲炉裏の自在に掛ける。


「かたじけない、それより、ご亭主は何処でござろうか」


 ふと我に帰った小平治は、今現在、自分が亭主不在の家に上がり込んでその妻と二人きりであることに気付いた。


 もちろん、それは、あまり行儀の良いことではない。


 下手をしたら、疑われてしまう。


「ああ、うちの人はししを撃ちに出かけております。たぶん、今日の獲物は手ごわいのか、それともまだ一匹も手に入らないのか、いづれにせよじきに戻りましょう」


 女は優しげに「まぁおひとつ」とそう言うと、湯を飲んで空になった湯呑に酒を注いだ。


 その場に、ふうわりと酒の香が漂う。


「い、いや、亭主の御留守に酒など頂くわけにはゆかぬ」


「何をおっしゃいますか、山で迷ったお武家様に酒の一つも出さないでは、逆に叱られてしまいます」


 女はそう言うと薄く微笑み「これも御祖師様の御引き合わせでしょうし」と囁き「とはいえ、我が家の宗旨は真宗なんでございますけど」と童女の様にいたずらっぽい笑みを浮かべた。


 その笑みが、また、おさきとよく似ている。


 若いころは今小町とさえ言われた小平治の妻おさきもまた、時折見せる童女のごとき微笑みが美しく何ともかわいい女だった。


 不思議なことも、あるものだ。


 小平治は観念して湯呑の酒をあおった。


「うまい……な」


「ええ、亭主も私もいける口でございますので、お酒だけはいいものをわざわざあつらえに行きますので」


 と、小平治は先程から気になっていたことを尋ねた。


「そなた、江戸に居たことはないか」


 これまで交わした言葉のうちに、江戸のなまりを感じていた小平治は、そう尋ねる。


「ええ、よくおわかりで」


「江戸のどのあたりだ」


「……千住の辺りでございます」


 なるほど、な。


 小平治は合点が行って酒をあおった。


 千住と言えば岡場所。それも吉原の向こうを張ると言えば大げさではあるが、品川と比べて遜色ないほどの場所だ。


 なればこの女、そう言った類の。 


「お察しの通り、私はコツで客をとっていたような女でございます」


 コツとは刑場で有名な小塚原の事で、千住の岡場所の通称。


 つまり、女は小平治の心中を正確に察したことになる。


 「いや、まぁ、人の世は色々であるからな」


 下卑た推測を正確に射抜かれた小平治は、ばつの悪そうな顔で一息に酒をあおる。と、すかさず女は湯呑に酒を注ぎ足した。


 なるほど、手慣れている。


「ええ、そうでございますね。私は今の亭主に見初められ、年季が空けてすぐこの家の女房になれましたから」


 と、女は意味ありげに目を伏せた。


「幸せだ、と、言わなければならないのでしょうね」


 そんな意味ありげなしぐさと言葉に、小平治の心が揺れる。


「それはどういう事だ」


 小平治の問いに、女は静かに答えた。


「江戸が……懐かしゅうございます」


「よい思い出のあるところではなかろう」


「ええ、でも、このような一人で出歩くこともままならない山家に閉じ込められていては、楼に繋がれていたあの頃と大して変わりはございません」


 なるほど、そうかもしれんな。


 小平治は小さく頷いた。


 女の姿を見るに、どう考えても山歩きになれた風情ではない。きっと亭主と共にでなければ、すぐその先までもひとりでは行けぬに違いない。


「客の数が減った、ただそれだけの事でございますよ」


「亭主を客とは」


「元々そうでございますから」


 女はそう言うと、鍋のふたを開けた。


 途端に湯気と共に何とも言えない香気が小屋の中に満ちる。


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