第20話 トーナメント

 一年で一番太陽の長く照る日が、クレタ島の年に一度のトーナメントの日である。

 練兵場には、朝から大勢の市民が詰めかけ、すり鉢状の土手に、敷物を敷いて見物席を確保していた。正面には王家と貴族のための桟敷席が設けられ、色鮮やかな幕と旗と花々で飾りつけられている。

 練兵場の外では、物売りが声を枯らして、甘パンや薄荷飴、すいかやメロン、串にさしてあぶったするめなどを売っている。そして、賭け屋たち。今年はポントウス将軍が参加を宣言し、さらにアテネ人のテセウスが参加するという波乱があって、上々の人気だったのが、今朝になって、大勢の有望選手が突然病気のために出場を辞退し、せっかくの盛り上がりに水を差すことになってしまった。残念だったに違いないが、そんな様子はおくびにも出さず、熱心に顧客を募っている。

 俺は、選手控えの方に回ってみた。練兵場の外の草地に、大きな天幕を立て、選手控にあててある。入口には警備兵が立ち、物々しい雰囲気がある。昔、選手の間で勝負をめぐって争いになり、人死にが出たことがあった。それ以来、選手控の警備は厳重になったと聞く。昨夜の谷と似たような事件は、前にも起きたことがあったのだ。

既に籤引きで対戦相手が決まっていて、練兵場には対戦表が張り出されていた。この天幕にも、進行係が持ってきて、入口脇に張り出していった。クレタ人の選手たちは、その対戦表を見てあれこれ意見を言ったり、仲の良い者同士、軽く身体を馴らしたりしている。

 テセウスはクレタ人の選手から離れて、一人、床几に腰掛けていた。鞘に入った長剣を膝の上に横たえている。ミノス王が今朝、俺に命じてテセウスに届けさせたものだ。訓練用の剣ではない。鋭い刃を備えた真剣だ。それ一つとっても、ミノス王の意図は明らかだった。アテネの若者の顔は厳しく、近づきがたかった。選手の世話をするクレタ人の少年たちも、彼の傍には近づこうとしない。

 ポントウス将軍が不機嫌な顔で入ってきた時、クレタ人は全員、立ち上がって将軍に礼を取った。テセウスだけは床几にかけたまま、動かなかった。クレタ人の目にはさぞ傲慢な態度に見えただろう。ところが、将軍はすたすたとテセウスの前に歩み寄っていった。

「テセウス殿」

 テセウスは物憂げに将軍を見上げた。

「昨夜のこと、まことに申し訳ない」

 将軍は頭を下げた。

「あの者たちは、わしの子飼いの兵で、幼い頃より面倒を見、わしが自ら訓練してきた。それがああいう心得違いをしでかした。わしの不徳のいたすところで、まことに面目ない」

 将軍は再び深々と頭を下げた。

 天幕の中のクレタ人はあっけにとられていた。公式には、大量の出場辞退は急病のためということになっている。もちろん、誰もが嘘だと知っているが、気付かない振りをしている。それが政治というものだ。それを、将軍はあっさりとぶち壊してしまった。事件をなかったことにしたミノス王は苦笑いするしかないだろう。

 テセウスは、はじめ、困惑したように将軍を見ていたが、すぐに床几から立ち上がり、済んだことです、と言った。

 将軍は晴れ晴れとした顔でうなずいた。

「そう言っていただけてありがたい。では後ほど、お会いできるのを楽しみにしている」

 将軍は大股で天幕を出て行った。

 テセウスは起立したまま見送っていたが、将軍の姿が消えると、耳役殿、と呼びかけた。

 俺はぎょっとした。天幕に開けた小さな穴から聞いていた俺に、いつ気がついたのだろう。

「あの男は強敵だな」

 テセウスはぽつりとつぶやくと、また、床几に腰を下ろした。

 間もなく、練兵場の方からミノス王とその一団を迎える歓呼の声があがった。


 今年のトーナメントは、低調と言うしかなかった。優勝候補がごっそりと抜けてしまったのだから仕方がない。一つ一つの試合は短く、あっという間に勝負がついた。選手は呼び出され、出て行き、勝った者が戻ってきた。負けた者はそのまま退場し、ここには戻ってこない。天幕には医者が控えており、怪我して戻ってきた選手に応急措置を施した。皆、かすり傷程度だった。是非とも勝ちたいというほどの熱意のある選手はおらず、それほど激しい打ち合いはなかったのだろう。ただ一度だけ、腿を深く切られた選手が血を流しながら担ぎ込まれてきた。負けた選手の方はさらに重傷で、額を割られており、再起できるかどうかわからないという話が伝わると、天幕の中は粛然とした。腿を切られた選手も試合続行は無理と医者に言われ、次の試合は棄権した。

 試合は滑るように進行し、天幕の対戦表に記された名前が段々に消されていく。待機中の選手の数もどんどんと減っていった。

 テセウスは三度呼び出され、三度とも時間をかけず、怪我もなく戻ってきた。テセウスが戻ってくるたびに、俺は水を飲ませ、汗を拭き、サンダルを脱がせて足を揉んでやった。本来は、選手世話係りの少年の仕事だが、彼らはどうしてもクレタの選手の世話を優先する。俺はどうせ、見破られた耳だ。

 テセウスは俺が水を差し出すと驚いたようだった。

「王女の言いつけか?」

 俺はむっとした。

「王女様がそこまで親切だと? 俺は今、仕事をしくじって暇だからですよ」

 テセウスは片頬だけで笑い、それはすまなかった、と言うと、水を受け取った。

 ポントウス将軍は天幕にはいなかった。おそらく、将軍には個人用の控え室が用意されていたに違いない。対戦表によれば、順調に勝ち進んでいる。

 やがて、最後の試合になった。

 決勝戦。

 ポントウス将軍対アテネのテセウス。

 天幕の中には、俺とテセウスしかいなかった。世話係の少年たちは、最後のクレタの選手が敗れた時点で、天幕から消えた。医者もいなくなった。多分、彼らも決勝戦が見たかったのだろう。

 呼び出しがかかると、テセウスは立ち上がった。

「耳役殿」

と、俺の方を見ずに言った。

「もし、わたしが戻って来なかったら、王女に伝えてもらいたい」

 俺は黙って低頭し、次の言葉を待った。

「王女に……」

 テセウスはふいに、気を変えたように言葉を切った。

「いや、いい」

 試合場の方へ向き直ったテセウスに、俺はつい、言葉をかけた。

「武運を祈ってる」

「ありがとう」

 テセウスは照れくさそうな笑顔を見せて、天幕を出ていった。

 俺は試合場に向かった。練兵場を囲む土手を登り、人の波を掻き分けて、ミノス王の桟敷席に近づいた。そこにいた護衛兵には、王に呼ばれた、と嘘をつき、うまい具合に桟敷席の隅に潜り込んだ。

 練兵場全体に、観衆の歓声がうわーんと反響していた。巨大な蜂の巣でもつついたように、空気がびりびりと振動している。俺は耳をふさぎ、目だけを働かせた。

 試合は始まったばかりのようだ。

 将軍とテセウスはどちらも、長剣を構え、試合場の中央でぐるぐると回っている。

時折、剣が突き出され、火の出るような金属音を響かせて相手方の剣にはじかれる。そのたびに、観衆はおおっと叫んだ。

 見たところでは、テセウスが優勢なようだ。彼の動きの方が敏捷だ。軽快な足さばきで将軍の隙を狙って飛び込んでは、剣を振るう。だが、将軍は鈍重に見えて実にしぶとかった。守りを固め、テセウスの剣を盾で受け、時に剣で跳ね返し、決して身体に触れさせない。ひたすらに守り、自分からは一切攻撃しない。その辛抱強さは呆れるほどだった。

 若いテセウスも、血気に任せていたずらに飛び込む愚を悟ったのかもしれない。構えを立て直すと、再び将軍の隙を狙って周りこもうとした。しかし、将軍はそうさせない。じりじりと後ろに後退していく。テセウスは引き込まれるように前に進んだ。

将軍はふっと身体を沈めると、剣を顔の前に立てた。午後もかなり遅くなり、西に回った太陽の位置は低い。将軍はそれを見てとって、自身の剣が太陽光線を反射する位置に自分を置いたのだ。磨かれた剣に反射した光は、矢のようにテセウスの目を襲った。

 テセウスの構えが大きく乱れた。

 一瞬の隙だが、将軍は見逃さなかった。飛鳥のように駆けて剣を振るった。テセウスはかろうじて身をかわしたが、バランスを崩した。将軍はさらに追撃する。五十歳とは思われない身のこなしだった。

 観衆の歓声は大地を揺るがすようだった。将軍、将軍、という声が練兵場全体から沸き上がる。

 テセウスは転がって将軍の刃を逃れた。将軍は尚も追う。テセウスは転がりながら、将軍の脛めがけて盾を投げた。将軍は飛び上がったが、避け切れなかった。脛を打たれて膝をついた。その間にテセウスは起き上がり、両手で剣を構えて走りよる。将軍は盾でかわしたが、その後でテセウスの振るった剣は避けきれなかったようだ。

 その後は乱闘になった。双方とも傷を負って、血を流している。

 将軍は足を引きずり、ともすれば膝をつきそうになる。テセウスの右腕は血だらけで、汗をぬぐうと、額にべっとりと血の跡がついた。

 激しい気合を発して再びテセウスが将軍に襲い掛かった。将軍は膝をついたまま、剣を振るう。二人の剣が交差して、激しい音を立て、将軍の剣が宙に飛んだ。将軍は剣を構えてのしかかってくる相手に素手で組み付いた。猛虎の咆哮にも似た雄たけびをあげて、若い相手をぐいぐいと押す。ものすごい膂力だ。テセウスの腰が砕け、仰向けに大地に倒れた。将軍は、必死で逃れようとするテセウスをがっちりと押さえ込んた。テセウスの右手を捻って剣を奪おうとしていた。

 テセウスの左手が将軍の喉首を捕らえた。左手一本でぐいぐいと太い首を締め上げる。将軍の力が緩んだのだろう、次の瞬間、テセウスは将軍を跳ね飛ばして立ち上がった。そのまま、相手の力が回復する時間を与えず、後ろから将軍の首に左腕を巻きつけ、同時に右手の剣を突きつけた。

 将軍の両手がゆっくりと上がった。降参、の合図だ。

 テセウスは剣を引いた。

 将軍の手を掴んで、地面から引き起こしてやった。

 観衆は立ち上がって叫んでいる。今度は、将軍、将軍の声の中に、テセウス、の声も混じっていた。

 二人とも血を滴らせ、立っている地面に赤黒い染みが広がっていく。

 将軍が合図を送り、観衆は静まった。

「諸君、今年の夏至トーナメントの優勝者を紹介する」

 将軍の声が練兵場に響き渡った。

「アテネ王アイゲウスの息子、テセウス」

 歓声が練兵場を揺るがした。


 天幕に戻ってきたテセウスは、まさに身体中、傷だらけだった。特に右腕は、ぱっくりと大きく口を開き、白い骨が見えていた。医者が急いで止血している間に、ミノス王と王女が天幕にやってきた。

 ミノス王はにこやかに、テセウスの勝利を祝福した。王の望む結果ではなかったはずだが、そんなことはおくびにも出さない。

「明日、わたしと同胞はアテネに向かいます。よろしいですね?」

 テセウスは念を押すようにミノス王に言った。ミノス王は困ったように両手を広げた。

「残念だが、明日では船の準備が間にあわない。それに、その怪我が治ってから出航したらどうだね? もちろん、君らアテネ人全員、クノッソス宮殿の賓客として滞在してもらう。君らはせっかくクレタ島にいながら、何も見ておらんじゃないか。案内させるから、ゆっくりわが島を見物していってくれ。アテネとクレタの友好のために」

「船の用意はできています」

 テセウスは、オノリウスに命じてすでに、船を手配し、明日の朝潮を逃さずに出航できるようにしてある、と言った。

「それはまた、手回しのよいことよ」

「オノリウスは、谷のアテネ人にも、トーナメントの結果を知らせ、出発する用意をするように伝えています。王、お言葉はありがたいが、我々は一刻も早く、故国の家族のもとに帰りたいのです」

「クレタのような田舎を見てもつまらん、と、そういうわけかな?」

 ミノス王は皮肉たっぷりに言った。

「それほどお急ぎなら、止むを得ない。名残惜しいが、これでお別れだ。海風は傷にさわる。養生したまえ」

 ミノス王は、冷ややかに言って天幕を出ていった。

 王女は面白そうに、テセウスと王のやり取りを聞いていた。

「父上はがっかりしてるんだ。もっと別の結果を期待していたからな」

「わたしは王の道具ではない」

 テセウスは不機嫌に答えた。

「苦戦してたじゃないか。やられるかと思ったぞ」

「ポントウス将軍はすばらしい戦士だ。わたしが勝てたのは僥倖だ。もし、将軍があと十歳も若かったら、危なかった」

 テセウスの言葉は掛け値なしの賞賛に満ちていた。

「ポントウスもお前を褒めてた。さっき見てきたんだ」

「将軍の様子は?」

「すごいぞ。身体中に穴が開いて、血が出てる。お前の投げた盾で打たれたとこは、イチジクの実みたいな紫色にはれ上がってる。医者は、骨は折れてないと言ってた」

 王女は楽しげに報告した。

「回復するな」

「するだろうけど、しばらくはベッドで寝てるだろう。うるさいジジイがいなくて助かる。医者、この男の傷はどうだ?」

 医者は黙々と傷を縫い、塗り薬を伸ばして油紙で押さえ、包帯を巻いていた。

「お若いから、二十日もすれば直るでしょう。それまで、右腕はなるべく動かさないことですな。それと、今夜は少し熱が出るかもしれません。明日、お発ちになるなら、今夜はゆっくり身体を休めておくことです」

「と、言うことだそうだ。大事にしろ」

 王女は天幕から出るなり、耳、と俺を呼んだ。

 天幕の外で聞き耳をたてていた俺が前に控えると、谷の様子を見てこい、と言った。

「番兵の様子に気をつけて見ろ。わたしは、ダイダロスのところにいる」


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