第19話 婚約披露の夜

 王女の婚約披露宴は、夏至の前夜、クノッソス宮殿の大広間で盛大に行われた。クレタ島の貴族、主だった市民、外国からの大使がこぞって若いカップルを祝福するために集まった。

 葡萄酒の樽がいくつも運び込まれ、テーブルには山海の珍味が並んだ。一つの皿が空になる前に、宮殿の台所から二皿、三皿と新しい料理が運び込まれてくる。ミノス王は、ポントウス将軍と腕を組んで乾杯の音頭を取り、楽団が賑やかな曲を次から次へと演奏する。誰もが葡萄酒に酔っ払い、幸福そうな赤い顔をしていた。

 主役のカップルを除いて。

 コンモドスは線の細い、女のように優美な顔立ちの貴公子だ。純白の礼服に身を固め、母親の将軍夫人の隣に寄り添うように立って、礼儀正しく来賓の挨拶を受けている。宴が始まった時、たった一度、王女の手を取ってキスしたが、その後は会話をかわすどころか、目を合わすことさえなかった。

 俺にはコンモドスの気持ちが理解できなかった。なぜって、彼の婚約者は美しかったからだ。

 王女は、夢のように美しかった。すんなりと細い身体に海のように青い長衣をまとい、大きく開いた白い胸は、内側から輝くようだ。ほっそりした腕には細い金の腕輪がいくつもはめられ、動くたびに触れ合って、さらさらと優しい音をたてた。黒いたっぷりとした髪は高く結い上げられ、真珠と宝石で飾られていた。王女の瞳は星のように輝き、朱色の唇はさくらんぼうのように愛らしかった。

 王女が大広間に姿を見せた時、その場にいた誰もが、おお、と嘆声を洩らし、目を見張った。父王は臆面もなく、これは驚いた! と叫び、ポントウス将軍はお世辞でなく、このように美しい義理の娘を持てるのは光栄だ、と王女の手を取って言った。ただ、肝心の婚約者殿は、必要最小限の敬意を表したあと、王女の傍には寄り付かなかった。二人の姉と、友人らしいクレタ貴族の若者たちが、まるで城壁のようにコンモドスを囲んで守っていたからだ。

 テセウスが現れたのは、宴が始まって大分たってからである。宮殿の衛兵二人に左右を守られて大広間に入ってくると、一瞬、広間の喧騒が止んだ。そこここで、彼の名が囁かれ、素早い視線が矢のように若いアテネ人に集中した。

 テセウスはミノス王とポントウス将軍の前にまっすぐに進み、招待の感謝を述べた。そして、王女に向き直った時、テセウスの目にはっきりと驚きの色が浮かんだ。王女は澄ました顔で、彼の祝辞を受けている。

 テセウスが現れたことで、会話の流れは自然に明日のトーナメントに移っていった。ポントウス将軍は夏至の日のトーナメントの歴史について語り、有名な戦士とその戦いぶりについて一つ一つ、講釈を加えた。

「アテネの戦士がトーナメントに加わるのは初めてだ。きっと歴史に残る試合になる。明日、練兵場で会い見えることを楽しみにしておりますぞ」

 ポントウス将軍は上機嫌で言った。

「テセウス、こっちに葡萄酒があるぞ」

 王女は隙を見てテセウスの腕を引っ張り、将軍から引き離した。

「よく来たな。腹ごしらえはすんだか?」

「夕食は済ませてきました。改めて、ご婚約、おめでとう存じます」

 王女はふふん、と笑った。

「何がめでたいものか。わたしの夫になるへなちょこを見たろう」

「ご立派な方だそうで」

「へなちょこだ」

 テセウスは笑いをこらえるのに苦労しているようだった。

「しかし、幸運な方だ。王女、今夜は本当にお美しい」

「お前がくれた服だぞ、これ」

 テセウスは心底、驚いたようだった。

「まことに?」

「自分でくれておいて、知らないのか?」

「わたしは谷から出られません。オノリウスに命じておいたのですが…。これはやつに褒美をやらねばなりませんな。実にお似合いです。まるで、海の女神のようだ」

「お前の驚いた顔を見たいから、今夜は呼んだんだ」

「ご満足なされたか?」

「大体な」

 王女はにんまりと笑った。

「こっちに来い。矢投げをやってる。やったことあるだろう?」

 矢投げは、その頃流行っているゲームだった。一定の距離から壷の中に矢を投げ入れる。十本のうち、何本入れられるかを競うゲームだ。王女とテセウスが、クレタの若い将校たちに混じって、矢投げに興じている間、コンモドスはクレタ貴族の令嬢に取り巻かれて微笑しながら会話を楽しんでいた。

 夜は更けていったが、宴は一向に衰えない。この分だと夜明かしか、と俺が思い始めた頃、兵が一人入ってきて、ポントウス将軍に何事か耳打ちをした。

 とたんに将軍の顔色が変わった。変事が起きたのだ。兵は宮殿の衛兵ではなく、普段は迷い谷の屯所に詰めている番兵だった。

 将軍はあわただしく王に向かい、二人は大広間を出ていった。俺はあとをつけ、二人が誰もいない別室に入っていくと、ドアの外で耳を澄ませた。

「谷が襲撃を受けました」

 ポントウス将軍が言った。

「誰に?」

「わかりません。覆面の男数人、としか」

「アテネ人が貢物を奪還しに来たか?」

「いや。クレタ人のようです」

 将軍の声は苦い薬でも飲まされたようだった。

「貢物に怪我はないようです。ただ、番兵が二人、重傷を負いました。わしはこれからすぐ、谷に向かいます。客には、わしは明日のトーナメントに備えて先に帰ったと、そう言って頂きたい」

 将軍は宮殿を出て行った。ドアの外にうずくまっていた俺に気がついたはずだが、一顧だにしなかった。すぐに、室内から王の声が、耳、と呼んだ。

「すぐに谷に向かえ」

 俺は将軍の後を追って走った。

 

 迷い谷は松明の火で赤々と照らされていた。

 番兵屯所の外には、普段の倍の人数の兵が詰めていたし、結界の外側をひっきりなしに数人がパトロールしている。変事があったのは明らかだ。

 俺は、番兵に断わって結界の内側に入った。松の木の間を抜けていく間にも、数人の兵士とすれ違った。アテネ人は一人も見あたらない。

 蔵の前にポントウス将軍が立っていた。将軍の前には、クレタ人の若者が数人、うなだれてひざまずいている。俺は、彼らに見覚えがあった。将軍の忠実な部下、練兵場で毎日訓練を受けていた若者たち、明日のトーナメントの出場者たちだった。

 松明の火に照らされて、ポントウス将軍の顔は真っ赤に見えた。いや、火がなくても真っ赤だったかもしれない。将軍は激怒していた。

「なんのためにこんな馬鹿なことをした?」

 将軍の声は震えていた。

 若者たちはますます頭を低くして、うなだれている。

 俺にはわかる。彼らはテセウスをトーナメントから除こうとしたのだろうが、今夜、彼らの標的は谷にいなかった。襲撃は全く無意味で、逆に同胞の番兵を二人まで傷つけてしまった。彼らが無言で頭を垂れているのも無理はない。

 将軍の怒りの言葉は続いていた。彼らを卑怯者、反逆者、愚か者、と、ありとあらゆる言葉で罵倒した。将軍は単純に、彼らがトーナメントでテセウスに当たることを恐れたのだと思っている。そうではないのだが、若者たちは、死んでも本当の理由は言うまい。言えば将軍のプライドを傷つける。そして、彼らは、愛するオヤジを傷つけるくらいなら、死を選ぶ。

 俺は少しばかり将軍がうらやましかった。ミノス王も同じ思いかもしれない、とふと思った。

 将軍は散々若者たちを罵倒した後、明日のトーナメントの出場禁止を申し渡した。衛兵に彼らを兵営まで連行するように言った。

「こんなに松明を燃やしてどうするつもりだ? ここで皆で仲良くおはじきでもして遊ぶのか? さっさと消せ」

 谷の番兵にまで八つ当たりの言葉を残して、将軍は宮殿へ帰っていった。

 谷は再び闇と静けさに包まれた。

 アテネ人たちは、外の騒ぎにも姿を見せない。おそらく、蔵から出ないように言われているのだろう。

 俺も、宮殿に帰ってもよかろう。

と、森から誰かが近づいてくる気配がした。身をかくすと、すぐに、松の木の間からテセウスが姿を現した。テセウスは一人ではなかった。豪奢な青い長衣をまとったままの王女が一緒にいる。

「言った通りだろ。アテネ人は一人も傷ついてない」

 テセウスはうなずいた。

「送ってもらって感謝している」

「これのお礼だ」

 王女は青い長衣をつまみあげて見せた。

「王女、貴方は、彼らの計画を知っていたのじゃないか? それで、今夜、わたしを招待した。谷から遠ざけるために」

「だったら、どうする?」

 王女の目が星のようにきらきらと光った。手を上げて、テセウスの頬を撫でた。

「お前に死なれると困る」

「王女、貴方は……」

「わたしの弟が困る」

 テセウスは雷に撃たれたように硬直した。

 王女はクスクスと笑うと、明日、練兵場で会おう、と言って森の奥へ消えていった。

 テセウスは低い声で呪いの言葉を吐き捨てた。


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