第8話 白い少女
結界越しに沈みはじめた夕日が見える。俺は急ぎ足で市場の横を歩いていた。寮の門限はいい加減なものだが、こちら側からの帰りとなれば気を付けないといけない。ただでさえ秘密のプロジェクトなのだ。
「まあでも、何とか演習には間に合った」
俺の懐には厳重に布で巻いた二つの小ビンがある。中には赤と青の透明感のある粒が入っている。上級魔獣の髄液を錬金術で精製したもの、つまり超級色媒だ。小さなビンに詰まった中身を思うと頬が緩んだ。
工房の設備と道具で工程を工夫したことで、収量を十分の一から五分の一に上げることができた。品質も安定してきたし、道具などの工夫次第でさらに量を増やせるかもしれない。
しかも、さらに嬉しいことがあったのだ。俺は脇に抱えた袋からひしゃげた形の茶色の食べ物を取り出した。レイラ姉の工房に届けられた干し果物だ。
採取労役に出ていた職人が、今回の注文で森に行かずとも人頭税が払えるようになる、といって届けてくれたらしい。採取労役の自分の取り分の果物を干したものだという。
かぶりつくと、疲れた頭に口から広がる濃い甘さが染み上がってくる。騎士の社会では新鮮な果実や蜜に漬けの瑞々しさが好まれるが、干し果物の素朴で強い甘みの方が俺の舌には合う。
(順調、順調。ただ、せっかくの品質も俺が付いていないとぶれるのが問題だよな……)
染料に使うには全く差が出ない薬品のわずかな違いが収量や品質に大きく影響を及ぼす。使う前の薬品の品質を等級の低い色媒でチェックする必要がある。超級触媒は原材料が貴重極まりないので、精製した後で十分な品質がないと解ったら大損害なのだ。
(せめて魔力を感知できる人間が工房にいれば…………って、そんな人間はそもそも騎士になるか……)
「きゃっ」
「えっ?」
軽い衝撃とともに小さな悲鳴が聞こえた。あわてて前を見ると小柄な女の子が地面に膝をついていた。どうやら目の前の角を曲がってきたようだ。悪い癖だ、考え込んでいると目の前が留守になる。
「ごめ……」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
俺が謝るより先に、少女は必死に頭を下げている。見ると茶色のフードがはだけて、灰色の髪が見えた。いや、ところどころ白いところを見ると、汚れているだけで元は白いのか。
「ごめんさない。前をちゃんと見てなくて。ごめんなさい」
俺の視線に気が付くと、少女は両手で頭を押さえながら怯えた声でまた何度も謝る。
「いや。俺の方こそ考え事をしていたから。ごめんなさい。ええと、掴まって」
少女に手を差し伸べた。おずおずと伸ばされた腕を取り、彼女を立たせた。ぼろぼろのローブから覗く膝を見る。どうやら血は出ていないようだ。だが、立ち上がった少女はさっきよりも怯えてしまった。「騎士様、お許しください」といっている。
「僕はまだ騎士じゃないから、気にしないでいい。もともとこっちの出でね。里帰りなんだ」
「ありがとうございます。あ、あの。もう行ってもいいでしょうか」
彼女は市場の端をみた。
「あ、うん。…………いや、ちょっと待って」
「は、はい。あの本当にごめん――」
「はいこれ。ぶつかったお詫び」
袋から残った干し果実を全部取り出して少女に渡した。少女は一瞬びくっとしたが、目の前に出されたものが何かわかるとその瞳が大きく開いた。
「ありがとうございます」
少女が再び何度も頭を下げてから市場の方に歩いていく。だが、それを見送る俺は暗い気持ちをぬぐえなかった。彼女が向かう先は採取労役の受付だ。白い髪か……もしかしてレイラ姉が言っていた……。
夕暮れの下、こちらに延びる影を止めたくなる。だが、今の俺にできることは体力を使う労役の前にせめてしっかり食べてもらうことくらいだ。
森の恵みは豊かだ。採取労役に出れば最低限自分の食べ物は確保できる。ただしそれは無事に戻ってこられれば……。
工房の役に立てたという気持ちが夕日のように沈んでいく。橋の向こうの白い街が逆光で暗く見える。
今はとにかくこの色媒の精製をうまく進めることが重要だ。次の演習でこれが王女様達の役に立つようにしっかり実地テストをする。そうすれば彼女みたいな人間を減らすことができると信じるしかない。
俺は彼女の後姿から目をそらし、橋に向かう。
そういえば、彼女はどうして俺が騎士見習だってわかったんだ?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます