3話

 もうルチカはなにがなんだかわけが分からない。


「異世界? 異世界ってなに?」


「別の世界ってことです。この世界は、わたしがいた世界じゃないみたいなんです!」

「ハハハ! そんなバカな」


 腹を抱えてルチカが笑い出す。彼女にとっても異世界からきた人間などという話はおとぎ話にしか過ぎないのだ。 一方でハンナは真剣な顔つきだ。冗談や酔狂で言っている様子はない。そんな彼女を見ているとルチカの笑いも乾いて次第に止まっていき、気まずそうに頬をかく。


「・・・・・・本気で言ってるみたいだね」

「わたしも半信半疑です。でも地図は全然違いますし、年代もわたしの時代とは違うみたいですし。なによりも魔法が存在しています」


 決定的なのは魔法の存在。箒に乗って空を飛んだり物を浮かせたりすることができる世界なら、異世界の人間を召喚することもできるのではないかとハンナは考えたのだ。


「けど別の世界の人間を召喚する魔法なんて聞いたことないさね。単純な転移魔法だってまだ研究段階のはずだぜ。だから人は空を飛んで移動しているんだぜ、箒に乗ってな」

「そんな! じゃあわたしはどうやって帰ったらいいんですか?」


 事情を聞いたルチカは手助けしたい気持ちはあったが、自分にはどうすることもできないという諦めもあった。

 アタシにはどうすることもできない、そう伝えようとしたが、ハンナの目は失望の涙で潤み、それを見せないように必死に下唇を噛みながら希望にすがるようだった。

 ああ、今のこの子にはアタシだけが希望なのかもしれない。ルチカはぐっと言葉を飲み込み。肩の力を抜いて背もたれに体を許しながら別の言葉を伝えた。


「やれやれ・・・・・・とにかくアタシにできるだけのことはしてやるよ」

「ほっ、本当ですか?」


 ハンナの緊張が解けて笑みと同時に涙が零れる。


「あんまり期待はするなよ」


 初めて見る彼女の笑顔に罪悪感にも似た自分の無責任さを感じてしまうルチカ。同情で人を助けられるほど自分は偉くないし、なにも知らない。だがついつい女の涙に誘われて約束をしてしまった。男が女の頼みを断れないのはこういうことなのかもしれないな、ルチカは漠然と頭のなかでそんなことを考えていた。


「とにかく、今日はもう遅いし、泊まっていきなよ。明日にまた詳しく話そう。まだここがその異世界ってやらかどうかも怪しいんだからね」

「ありがとう・・・・・・ありがとうございます!」


 深々と頭を下げるハンナに、また少しだけ胸が痛むルチカは立ち上がって言った。


「じゃあ今から風呂の準備をするさね」

「あ、わたしも手伝います」

「ありがたいけど、もう水は張ってあるんだ。あとは湯に変えるだけだからアタシ一人で大丈夫さね」

「で、でも」

「気にしなさんなって。それにアンタじゃお湯は沸かせなさそうだしね」


 ハンナは首をかしげた。お湯を沸かすことができないとはどういうことなのか。風呂場に向かうルチカの後を付いていき、その答えを知ろうとした。

 小さなお風呂に水が張ってあった。蛇口のようなものは見当たらない。どうやらハンナが寝ている間にルチカが井戸からすでにくみ上げていたようだ。そして風呂桶は昔のもので薪を使って火を起こして湯を沸かすタイプのものだった。ハンナは水に触ってみると、気温が低くなっているせいか井戸水のせいかは分からないが、ものすごく冷たかった。


「今から火を起こすなんて、大変じゃないですか?」


 時間がかかりそうなので、やはり手伝おうとするが、ルチカはまじまじとハンナの顔を不思議そうに見つめた。


「ふぅん。やっぱりアンタ。なんにも知らないんだね」


 ルチカは目を閉じて水に手をかざす。そしてぶつぶつとなにかを詠唱しはじめたかと思えば、水から湯気が出始める。魔法で水を温めはじめたのだ。


「あっ、あっ」


 魔法だと気付いたハンナは手品を見たような様子で驚く。そして同時に感心しはじめる。数分経ち、ルチカが手を元の位置に戻すと、水は白い湯気を立ちこめるお湯と変化しきっていた。またハンナがおそるおそる指を突っ込むと、少し熱いぐらいのお湯だということが分かった。


「凄い! どうやったんですか?」

「どうって、魔法さね」

「どんな魔法なんですか?」


 幼い子どもみたいな反応を見せるハンナにルチカは少し得意げになりはじめる。まるで先生にでもなった気分だった。


「簡単な魔法さね。火を使う魔法の要領で水の温度をあげたんだよ。水のなかに火を起こすイメージをしてね」

「わぁ・・・・・・いいなぁ。凄いなぁ」


 目を輝かせてルチカを尊敬の眼差しで眺める。ルチカはなぜかその目を直視せずに視線をそらす。


「こんなことができるなんて、やっぱりルチカさんって魔女なんですね」

「ん? いや、正確に言えば魔女じゃないぜ。まだ魔女の見習いってところさね」

「こんなことができるのに、見習いだなんて」


 ルチカは得意げに笑っているが、実はこの魔法、確かに魔法自体は誰でも使えるものなのだが、調整が難しいのだ。事実ルチカも本当はもう少しぬるいお湯にするつもりだった。だがすこしやりすぎてしまい熱いお湯になってしまっていることにハンナは気がついていない。そしてルチカもわざわざそれを言おうとはしなかった。


「さあお湯が沸いたんだから、アンタから先に入りなよ」

「いいんですか?」

「もちろん。お客様が先に入るべきさね」


 優しくもてなしているようだが、これにも理由がある。ルチカは熱いお風呂が苦手なのだ。


「じゃあすみません。お先にお風呂いただきますね」

「どうぞどうぞ。着替えはアタシのを使いな、更衣室に置いとくからね」

「なにからなにまですみません」

「いいってことさ」


 褒められて気分が良いのと、なんだか騙したような気がするのでルチカは複雑な気持ちだった。

 ハンナが風呂に入っているあいだにルチカが着替えを用意していると、ハンナがブラジャーをしていなかったことを思い出す。まだ着けていないだけなのか、それとも本当に異世界の人間ならば、そういう文化なのかもと知れない、なんて推測をしたが、どっちにしろ下着も用意しといてやろう、とお節介で新品の下着も一緒に置いてあげた。

 一息ついたルチカはベッドに腰掛けてハンナが風呂から出るまでのあいだ思考した。


 どうするべきか、異世界の人間なんて話は誰も信じないだろう。そもそもルチカ自身もまだ疑っている。頭を打って記憶がおかしくなったのかもしれない。ならば病院に連れて行くという手もあるが、それをしたら完全に疑っていることがバレるしなんだかかわいそうだ。


 もう一つの手として魔導パトロールに連れていくというのがある。あそこならなんとかしてくれるかもしれない。

 どっちにしろ、ルチカができるのはハンナをどこかに引き渡すということだけだ。彼女自身の手でハンナを助けることなど、到底考えが思いつかなかった。まず助けるといってもなにをすればいいのか分からないのだ。異世界なんてまだ信じられないし、頭を打って記憶がおかしくなっていても治癒魔法などできない。精神がおかしくなって妄想にとりつかれていたとしても、それはもう魔法ではどうしようもない。


「ってなると、魔導パトロールしかない」


 あとひとつだけ、ルチカには思いついたことがあったが、それは特に意味がないかもしれないという理由で却下した。


「まあ、無難に魔導パトロールに連れていくのが一番いいかな。やっぱり」


 こうして結論は出た後、ハンナが風呂から出てくる音が聞こえた。ルチカの替えの服を着たハンナがなぜか頬を染めて更衣室から顔を覗かせてなにか言いたげだった。


「あがったかい?」


 特に気にも留めずにルチカが聞くと、ハンナはええ、とだけ言ってやはりなにか遠慮をしている様子だ。


「お湯が熱かったのかい?」

「いえ、そうじゃなくて」


 もじもじと顔だけを出して恥ずかしそうにしているハンナに、ルチカはため息をつきながら諭した。


「なんだい、なにか気を遣ってるなら遠慮することないさ。言いたいことがあるなら言いなよ。アタシたちは女同士なんだからさ」


 優しい言葉を受けてさらに口ごもるハンナは、申し訳なさそうにやっと伝えはじめた。


「あの・・・・・・着替えを用意してもらったりしてるのに、こんなこと言いにくいんですけど・・・・・・」

「ハハハ。アタシはよく怒りっぽいって勘違いされやすいけど、滅多なことじゃ怒ったりもしないさね。言いたいことは言い合う。当然のことだぜ」


 良い笑顔でルチカが返す。


「じゃ、じゃあ・・・・・・言っちゃいますけど・・・・・・」


 小さく赤く恥ずかしがる声で、申し訳なさそうにハンナが言った。


「ブラって・・・・・・もう少し大きいサイズのって・・・・・・ない・・・・・・ですよね?」


 笑顔のままルチカの動きが止まる。半目になり口角をひくつかせてひきつった表情になっていく。ルチカはハンナの見え隠れしている胸と自分の胸を見比べる。ルチカの顔も紅潮していく。

 自分とは違い、恥ずかしさだけではないというのを察するハンナ。取り繕うとするもうまく言葉が出てこない。なにを言っても逆効果な気がして。はわわ、とうろたえているとルチカが遂には顔を真っ赤にさせて怒鳴る。


「絆創膏でも貼ってろ!」


 彼女の大声は外まで届き、静寂に包まれた夜の森の木の枝でくつろいでいた鳥たちも驚いて逃げ出してしまう。そして夜はまた静寂に戻り、月の灯りを残して更けていく。

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