2話

 学校から帰ってきたハンナは自室で学校指定のジャージに着替えてくつろいでいた。動きやすくて楽だという理由で家ではよくジャージを着ている。クッションにのしかかって読みかけていた小説を読んでいたとき、突然文字が読めなくなった。視界が突然光に包まれてまぶしくてなにも見えなくなってしまったのだ。カメラのフラッシュか雷のようにキツい光に思わず目を閉じてしまい、次に開けたときには部屋が薄暗くなっていた。


「あれ? 停電?」


 周りを見渡すと既に彼女は見知らぬ部屋のなかにいた。だがそれよりも先に驚いたのはそこに男性が一人立っていたことだった。


「よしよし、成功したようだ」


 男が嬉しそうに笑っていたが、ハンナには彼の言葉が分からない。


「キャァァ!」


 そんなことよりも気を緩めていた状態で自室には居るはずのない人間を見てしまったことに悲鳴をあげた。思わず持っていた本を投げると、男はひょいと避けてその本を拾って中身を見る。


「見たことのない文字。やはり成功です」


 本を閉じて後ろに放り投げると、目を細めてハンナを見定める。


「少し年は若いけど、これぐらいのほうが制御しやすそうです」


 目が合ったハンナは彼がなんと言っているかは分からないが、恐怖と混乱にかられて後ずさりをした。


「な、なに? だ、だれなの?」


 怯えきった震えた声で聞くも、男は伝わらない言葉で独り言を呟くだけだった。


「ふむ。言葉も聞いたことがない。話をするには言語魔法が必要ですが。それは楽しんだあとでもいいでしょう」


 なにを言っているのか分からないが、ハンナは不吉な予感を背筋の寒気で感じ取り、ここにいてはいけないということを本能で察した。逃げようとするも、部屋の出口は男の後ろにある。窓は一つもない。他には小さい机と椅子しかない殺風景な狭い部屋。もし男を避けて扉に辿り着いたとしても、鍵がかかっていたらどうしようもない。密室状態の可能性が高い。そんな状況でまさに今男がゆっくりとハンナに近づいていく。


「ひぃ・・・・・・来ないで!」


 もはや考えている余裕もない。このままではなにをされるか分からない。ハンナは一か八かで男を押しのけて扉に向かおうと覚悟を決めた。


「可愛い子です。顔をもっと良く見せてください」


 男がうずくまっている彼女の顔をのぞき込もうと頭を下げるのと同時に、ハンナが立ち上がる。この偶然のタイミングでハンナの頭が勢いよく男の顔面に直撃する。


「うがっ!」


 思わぬ頭突きに男だけでなくハンナも衝撃を受けたが、ダメージは明らかに男のほうが大きい。鼻を押さえながら後ろにふらふらと後ずさるとさきほど彼が放り捨てた本に足を滑らせてしまう。さらに運の悪いことは続く、後ろ向きに倒れた彼の頭の先には机があった。鈍い嫌な音が鳴り、声も出せぬまま男は意識を失った。


「いたた・・・・・・あれ?」


 頭を押さえていたハンナが音のする方向を見ると、自分以上に後頭部が痛そうな男が気絶している。


「い、今のうちに」


 倒れた男を確認するのが怖いので出来るだけ視線を扉に向けたまま、息をのんでドアノブに手をかけて回すと、すんなりと扉は開いた。


「良かった。とりあえず逃げ・・・・・・」


 言葉が詰まる。部屋の外に出ると、洞窟のなかだったからだ。


「これは夢・・・・・・でなきゃおかしいよ」


 かといってここに留まっているわけにもいかず、彼女は洞窟のなかを進む。今まで部屋のなかにいたので靴も履かずに石の上を歩く羽目になり尖った痛みが一歩ごとに伝わってくる。


「イタッ! もう、夢なのに痛いなんて、反則じゃない」


 痛みを我慢しながら足早に一本道を進んでいくと、ほどなくして光が見えてきた。出口が見えた安心感に駆られて痛みも忘れる。が、外に出た瞬間その安心は絶望にへと変化する。道がない、足場がほとんどない。出口は崖の断面に通じていた。飛び降りることなど不可能な高さ。上は這い上れないほどの壁。危うく足を踏み出しそうになったハンナは冷や汗をかきながら洞窟内に戻る。


「なにこれ・・・・・・出られないよ! っていうかあの人はどうやって入ってきたの?」


 頭を抱えて座り込むと、自分の隣にすでに先客がいることに気がついた。人ではない、箒が立てかけられていたのだ。脈絡のない箒の存在にやはり夢だと思い込む要素が強くなっていく。


「こんなとこ掃除する必要なんてないと思うけど」


 おもむろに箒を持つと、立ち上がって来た道を振り返る。こうしている間にも男が意識を取り戻して襲ってこないとも限らない。頼りないがこんなもので武器になるかと箒を持ったのだが、瞬間、手を引っ張られる。それも洞窟の出口側から。


「えっ?」


 人などいなかったはずなのに、しかも外は落ちれば助かることのない崖だ。ハンナは確認するためにまた振り返ると、やはり人はいないが、自分の手を引っ張っていたのはさきほど自分で持った箒だった。箒が勝手に浮いて外に出ようとしている。


「えっ?」


 信じられない光景を目の当たりにして踏ん張ることを怠ってしまったハンナは手を引かれて足がふらつき崖から落ちそうになる。


「わっ! 待って!」


 手を離せばその勢いで落ちてしまいそうで思いっきり両手で箒を握りしめて踏ん張ろうとするが、力を入れて握った瞬間に足が既に宙に浮いていることに気付いてしまった。落ちる。ハンナは全身の血の気が引いていく。目を開けていられない。まぶたを力強く閉じて目の前が真っ暗になる。風で早さを感じる。今までに経験したことのない感覚と恐怖、そして目を閉じていたせいで気付くのが遅れたが、違和感。下に落ちている気がしない。横、いや、どちらかというと上に向かっているような気がする。

 おそるおそるまぶたの力を抜くと、うっすらと空が見え、目の前には自分の手と箒が見える。下を見る勇気はなかったが、ハンナは夢のなかにいると完全に確信する。


「と、飛んでるの!?」


 不思議と腕だけで箒を支えているのに、まるで磁石でくっついているかのように疲れも力も必要としない。だがその状態だと下半身が不安定なので必死に全身で箒にしがみつく。

 雲が近づいてくるほどに箒の高度はあがり、一定の高さになると箒は横を向き勝手に進路を決めて飛んでいく。ハンナは降りることなどできずなすがままに連れられていくしかなかった。

 広く蒼く海のように広がる空。太陽が雲の合間で見え隠れしながら気持ちよい飛行を見守っているが、ハンナには楽しむ余裕などない。


「こわいよぉ。誰か助けてぇ」


 彼女はいつしか気を失ってしまった。



 ハンナは自分が思い出したことを全て語り終えた。ルチカはそれを唖然としながら聞いていた。


「じゃ、じゃあなにかい。あんたは突然、変質者の部屋に呼び出されて、そこが全然知らない洞窟であったうえに、外は崖。んでたまたま置いていた箒に乗って飛んでたら気絶したってのか?」


 ルチカに要約されても、ハンナ自身夢だったと信じ込んでいたので、あまりにも荒唐無稽な話だったことを再確認されて恥ずかしくなってきた。


「いきなり変質者の部屋に転移するなんて話、聞いたことないけど」

「でも、でも。さっきルチカさんもスプーンを浮かせてたじゃないですか」


 さきほどハンナが突然泣き出したのは、ルチカの不思議な術によってあの体験が夢でないということに気がついてしまったからなのだ。


「ん? そりゃそういう魔法は普通だろ。でも一瞬にして誰かを転移する魔法なんて聞いたことないぜ」


 魔法、あっさりとルチカは認める、というより当たり前の如く話を流してしまう。


「魔法? 魔法なんて現実にあるわけが・・・・・・」

「ちょっと待ってくれ。なんかおかしいぞ」


 話が妙にすれ違っていることに気付くルチカ。


「魔法なんて誰でも使えるじゃないか」


 ハンナは薄々とあることを思いついていた。あの変質者の部屋へ召喚されたこと、箒で空を飛んだこと、ルチカが使った魔法。そして今の彼女の言葉。信じたくはなかったが、否定するのも難しくなってきていた。


「ルチカさん・・・・・・お願いがあるんです」

「なんだい?」

「世界地図とかって、ありますか?」

「世界地図? そんなもんここにあったかな。あっ、そういや二階の書斎に」


 ルチカが二階へ行くと、地球儀を抱えて戻ってきた。


「ほらよ。これでもいいかい?」

「ありがとうございます。大丈夫です」


 確認したいことがあったハンナはむしろ紙の世界地図よりありがたかった。


「こんなもんどうするんだい?」

「・・・・・・やっぱり」


 ルチカには彼女がなにを確かめたのか分からなかったが、ハンナは地球儀を一回り見るとまた泣きそうな顔になった。今度こそ確信してしまったのだ。


「全然違う・・・・・・」


 世界の大陸の形が彼女の世界のものとは全く違っていた。表記されている文字も見たことがない。もちろん、日本も存在していなかった。


「ここは、わたしのいた世界じゃ・・・・・・ない」


 容易にそんなことを信じられなかった。でも地球儀をいちいち偽造することも考えにくい。なによりこの世界には魔法が存在していた。


「なに言ってんだ? どうしたんだって」


 勝手に一人で納得した様子で呟くハンナを見てルチカが声をかけると、すぐさまハンナが大声を出す。


「ルチカさん!」

「あっ、はい!」


 思わず姿勢を正し勢いよく返事をしてしまうルチカ。そしてハンナはもう一つの可能性を確かめるべく質問する。


「今は何年ですか?」

「何年って、そりゃ今年は一五九〇年だろ」


 ハンナがいた時代からはかなりの過去になるが、そんな時代に魔法が使えていたとしても、大陸がそうそうに変化することはない。


「ルチカさん・・・・・・わたし、多分、多分ですけど・・・・・・」


 認めたくないような物言いだった。未来であるならもしかしたら、とも考えたが、どうやらそうではなさそうだ。だとすれば彼女が出す結論は一つに絞られた。


「異世界にきちゃったみたいです!」

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