第40話 均衡と世界
泣き崩れた彼女はそれまでとは違い小さく見えた。
彼女を支えていたガクは傷が痛むのか、小さく唸る。
「そうだ。私が間違っていた。まっていろ……」
そう言うと彼女は優しい光を発し、ガクの傷を癒す。
あの人もあんなに美しい魔法が使えるんだ……。
「ありがとう。他のみんなの傷も癒さなきゃね」
そう言って祈るようにペンダントを握りしめた彼に協力するように、彼女は手をかざした。
遺跡の中に優しい光が広がり、皆の傷を癒す。
不思議と、遺跡の中の壊れた柱や壁も、みるみるうちに元に戻って行ったのだった。 気を失っていた彼らもどうやら事が落ち着いたことを理解したようだった。 と、つかの間の平穏を破るように突然地を割るような轟音が響いた。
地震だろうか、激しく揺れた地面に振られて体勢を崩し、倒れそうになったあたしを、チッタが支えた。
「ユイナ、これは俺でもわかるよ。世界が壊れちゃう……」
焦るように声を続けたのはクラリスだった。
「世界のバランスを取り戻す儀式を。急がないと、この世界は消滅してしまう」
その場にいた全員が、頷いた。
「これはどこに置くのー?」
儀式の準備をしている中、そう突拍子もなく言ったのはチッタで、明るい声が不穏な雰囲気の中不釣り合いに響く。
それに優しく応えたのはクラリスで、あんなに恐ろしかった彼と普通に会話ができることがどこか不思議で、しかしそれに心地よい違和感を覚えていた。
きっと生来穏やかな性格なのだろう、彼がエリスさんの双子の弟だということに今は容易に納得できるのだった。
エリスさんは手際よく祭壇に並べる物を仕分けしており、その瞳はどこか遠くを見つめているように見えた。
使命を果たすために生まれた。そう言った彼女が大切にしていた弟との再会。
今彼女は何を思っているのだろうか。
弟の無事を喜んでいるのだろうか、それともこれから為さねばならない使命のことで頭が埋められているのだろうか。
ふと彼女が、隣で作業をしていたミアーに微笑みを見せる。
あれほどのひどいことをされても尚、ミアーのことを許すことができる彼女は、やはり強いのだろう。
たとえ許していなくとも、そのように振る舞うことは今のあたしにはできないな、と思った。
そのミアーは彼女の横で何やら儀式に使う道具を結っているようだった。 手元を見つめるその瞳の琥珀色が美しく、ガクのそれと同じ輝きを放つそれは彼らの血縁関係を確固たるものとしていた。
エリスの微笑みに対して戦っている時とは違う表情を見せたその端正な顔立ちに、あたしはふとこの人もこんな顔をするんだと当たり前のことに驚いていた。
今まで見てきた恐ろしい彼女のイメージがあたしの中に先入観として根付いてしまっていることを、少し恥ずべきことの様に感じる。
「結衣菜、身体は大丈夫か、痛むところはないか」
そう心配の声をかけた父は何か魔法陣のようなものを刻んでおり、それは祭壇を囲むように広がっていた。
「もうすぐ準備ができる。心の方も準備をしておくんだぞ」
うんお父さん、と何となしに返事をしたが、あたしはやっと気づいた。
この儀式が終わったら、元の世界に戻れるかもしれないんだ。
これまで、一体どれほど経っただろうか。
ジェダンの平原に降り立ってチッタと出会って、ディクライットの盗賊団事件をチッタの活躍で解決したと思ったら今度はティリスが仲間になって。
ディクライットを出て初めに訪れた村でガクに出会って。その時初めてクラリスにも会ったんだっけ。 あの時は怖い人っていう印象しかなくて、村の人たちのガクへの態度には唖然としたなぁ。
……恐ろしい体験もたくさんした。
深影の森のスピィンネ、ニクセリーヌで戦ったワァルフィク。他にも沢山いた魔物たち。
レミアさんの歌はとっても綺麗だったなぁ。ジェフロワはどんな声なんだろう? まるでおとぎ話のような美しい海底都市の景色が思い出される。
活動を停止していた精霊の森ではシュラッグラッテンに遭遇して、ガクの不思議な力で退けたんだ。 よく考えたら、深影の森に火が燃え広がった時突然雨が降ってきたのもきっとガクの力のおかげだったんだろうな。
テーラではクラリスが王様に成り代わっていたんだっけ。唆された大臣が王になろうと、王子の命を狙っていた。あの時のティリスとロイドさんの機転とアレン王子の、いや、今のアズルフ王の頑張りは凄かったなぁ。 何の根拠もないけれど、アズルフはきっとテーラをいい国にしてくれる気がする。
竜翼の丘では、初めて竜も見た。アシッドの鍾乳洞で出会ったグリフォンもそうだったけれど、この世界には不思議な生き物が沢山いて、魔法のような不思議な力も沢山ある。
そして、狼に変身出来る少年や半人半魚の種族、使命を担うために生まれてきたという御子達、そんな人たちが絡み合って生きている。
――ツーランデレンヴェルト。
そう呼ばれているこの世界にはあたしがまだ見ていないものがきっと沢山、見きれないほどあるのだろう。
もう少しだけ、見ていたい気がする。
不意に、ミアーが声を上げた。
「用意が整ったぞ」
「では、今からこの世界のバランスを取り戻し、世界の扉を開く儀式を始めます。クラリス、ガク、準備はいい?」
エリスさんの声が、遺跡に響いた。
頷いた二人が移動する。
遺跡の祭壇を中心として描かれた魔法陣の中、双子の間、そのすぐ後方にガクが立った。
双子が唱和し出すと、ガクが祈るようにペンダントを握りしめ、祭壇に向かって跪いた。
「その涙より命を生み出せし始まりの精霊よ。全ての母よ。汝、我らの願いを聞き給え。我らは均衡を司りし者、この世界の要となる者。対となる魂と、汝の血を継ぎし者の時を礎とし、均衡を取り戻し給え。そして、汝の力をもって世界の錠を解する者を揺り起こし、伝えし者達の道を開き給え。我らは均衡を司りし者。扉をくぐりし時、その礎は為される」
まるで示し合わせたかのようにぴったり言い終えた二人の間を、ガクが立ち上がりゆっくりと歩いていく。
そして双子の間を通り過ぎ祭壇の眼の前までたどり着くと、再び跪く。
「伝えし者達を導きし扉を、我ら礎を為す者達を受け入れし扉を、どうかお開けください。我らの前にその姿をお示しください」
再び祈ったガクに、双子も跪いた。
暫しの沈黙。
と、突然轟音が鳴り響いた。
祭壇の上に大きな扉が現れ、その前には浮いているのか、不思議な階段が出現した。
その扉は神秘的な美しさを纏っていた。
その瞬間扉から真っ白い光が立ち上った。
オアシスで見た光と同じもの……。
光がだんだんと収縮していき、そして、消えた。
「これで、世界のバランスは取り戻された。もう大丈夫だ」
そう言って、ガクが笑った。
一時の静寂の後、先ほど現れた扉が轟音を立てて開いた。
扉の中には宇宙みたいに星屑が舞っているようにも見えた。
そこから漏れる光が遺跡の水晶に反射する。
まるで、誰かがそこを通るのを待っているみたいだ。
「みんなに言ってないことがある」
ガクが目にかかった髪を避けながら言った。
その瞳は赤く染まっていた。
「言ってないことってなーにー?」
覗き込んだチッタに、ガクが困ったように微笑み、その問いにはエリスが答えた。
「儀式に必要なもののことよ。私達は世界のバランスを取り戻すために儀式をした、そしてその代償として私たち双子の魂……命のことね。それとガクの時を捧げると約束をしたの。だから私たち三人とあなたたちとは、ここでお別れ」
当たり前のようにそういった彼女の綺麗な緑色の瞳の中に、なにか模様のようなものが刻まれていることにその時初めて気づいた。
「それじゃああなたたち双子は……その……」
死んでしまうのか、ティリスはそう聞きたかったのだろうか、辛辣そうな顔で少し目を伏せ口をつぐんでしまった。
「あ、あたし……!」
気がつくと、声を上げていた。
「あたし、知ってたの。……聞いちゃったの。あの夜、ガクとエリスさんが見張りをしていた夜。たまたま眠れなくて……。でも、でも、怖くて聞けなかった。どうしたら良いのかわからなくて……あたしとお父さんのせいでエリスさんとクラリスが……ガクも……あたし……」
そのあとは、ごめんなさいと、零れ落ちる涙だけが、あたしの言葉を語ってくれた。
――ユイナは優しい子だから、きっと知ってしまえば別の方法を探すと言い張るからね。
そう言っていたガクの優しさに甘えてしまった自分がいたのを、とても後悔していた。
「ユイナちゃん……だっけ。気にすることはないよ。僕らは元々、この世界と運命を共にする宿命。扉を開けなくとも、僕とミアーが崩した世界の均衡を取り戻すだけで、おそらく僕ら双子は相当の代償を払わなければならなかった。ガクも同じくね。それに、自分の意思でなくともこれまでした沢山の悪事、僕は詫びたいと思っている。その償いに少しでもなれば、ね」
あたしの肩に手を置いてそう言ったのはクラリスで、彼の瞳の中にも、エリスさんに似た模様が入っていた。
次に言葉を発したのはミアーだった。
「ガク、私は……私も、クワィアンチャーだ。髪の色は違うが、力も使えるし、精霊たちの声も聞こえる。私も、その代償に加わることはできないだろうか、お前たちの犠牲を軽くすることはできないだろうか」
彼女がそのようなことを言ったのはとても意外で、皆一様に顔を見合わせた。
「姉さん。俺は使命を果たします。姉さんの罪は決して許されるものではありません。あなたの振る舞いで、大きな国の様相が変わってしまった、沢山の人が傷ついてしまった。もしかしたら世界にも影響があるかもしれない。だから……だから姉さんはこの世界で生きて、罪を償ってください。俺たちの分まで生きて、そして、どうかこの世界を見守っていてください」
クワィアンチャー族がこの世界からいなくなっちゃったら困るしね、と付け加えて笑ったガクに、彼女は承諾したように頷いた。
「さぁ、時が迫っている。僕らは行くよ。僕らにガクが続いて、最後にユイナちゃん達が扉をくぐれば、それは閉まるだろう。それぞれの行く先は扉が決めてくれる。少しの間だったけど、君たちと僕自身の言葉で話しができて嬉しかった。ありがとう」
クラリスの言葉にエリスが続く。
「私からもお礼を言うわ。私達の使命にここまで付き合ってくれたこと、沢山の笑顔をくれたこと。ガクには謝らなきゃいけないわね、初対面が最悪だったもの」
「あの話はもうやめようって言ったじゃないか」
ガクが冗談でも受け取るように微笑んだ。
「ふふ、そうだったかしら。とにかく、あなた達との旅、楽しかったわ。あ、それと……別の話なのだけれど、もしこの中の誰かが私達の妹に会ったら、このことを、私たち双子のことを、伝えておいて欲しいの。お別れも言えずにこんなことになってしまったから」
「妹の名前はディアナ。ディナって呼んでいたんだ。柔らかいプラチナブロンドの髪に水色の瞳の子。もし会ったら、よろしくね」
エリスとクラリスのその願いにティリスが頷き、チッタがわかった!と返事をした。
微笑んだ双子が手を取り、お互いに頷き合うと、彼らはゆっくりと扉の向こうに吸い込まれていった。
まるで、元からなかったかのように彼らの姿は消えてしまった。
どこかで、赤ん坊の産声が聞こえた気がした。
「……ふぅ。次は俺だな」
そう言ったガクに、チッタが心配そうに声をかける。
「もう会えないの?」
「どうだろう。俺が失うのは双子とは違って俺自身の時だから、すぐ戻ってこれるかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「やったー! じゃあまた会えるんだ!」
喜んだ彼に、ガクが微笑む。
「次会うときは爺さんかもしれないけど」
「よぼよぼー?」
冗談を言い合って笑う二人に、あたしも自然と頬が緩む。
「ティリスも、騎士団……だっけ。戻ったら頑張ってな。次会った時はディクライットの城下町を案内して欲しいな。俺、あの国のお城って一回も見たことないんだ」
「ふふ、もちろん。でもそれならおじいさんになる前に戻ってこないとね。ディクライットは坂が多い街だから」
そう言って笑ったティリスに、なんだよそれ、とガクも微笑んだ。 彼と出会った時にはなかった二人の間の信頼と絆が、見えた気がした。
「ユイナも……元の世界に戻ったら元気でな。まだちっちゃいのに、とっても助けてもらったよ。ありがとう」
そう言って彼はあたしの頭をくしゃくしゃと撫で、その手の温かさが自分の少し乱れた髪に残った。
彼があたしを子供扱いする姿勢は出会ったときから変わっていない。
「もう! そんなにちっちゃくないもん」
少しいじけている様にあたしが頬を膨らませてみせると彼はその優しい目を細めて、ごめんごめんと笑った。
と、彼が少しかがんでみんなに聞こえない様な小さな声で、囁いた。
「チッタにちゃんと、お別れいうんだぞ。あいつ、相当寂しがってたから」
「チッタが……? あたし……」
お別れなんて、嫌だ。
そう言おうとした口は、扉への階段を登ろうとしているガクの姿に塞がれてしまった。
扉の一段手前で立ち止まった彼がこちらを振り返った姿は今まで見たそれの中で、最も美しく見えたのだ。
星屑色の柔らかい髪の毛が、揺れた。
「俺は皆と出会って、短い間だったけど時間を共にして、なんだか救われた気がする。何か少しだけ、変われた気がする」
あたしはまた、自分の目頭が熱くなるのを感じた。
「ありがとう」
笑えよユイナ。とチッタが、震えるあたしの肩に手を置き、ニコッと笑った。 いつの間に入ってきたのか、ヴィティアがガクの肩に飛び乗る。
「ヴィティア……ごめんな、連れていけないんだ。お前も姉さんと一緒に、待っていてね」
そう言って彼がその獣を撫でると、それは了承の意でも返す様にがぅっと小さな炎を吐いてチッタの頭に飛び移った。
「みんなとの旅、本当に楽しかった。俺にとってこの記憶は、宝物だよ。願わくは、また、どこかで」
そう言い終えた彼が、本当に曇りのない笑顔を見せる。
あたしも、つられて微笑んだ。
後ろを向いた彼が別れをいうように片手を上げて、扉に吸い込まれていく。
そして彼の姿が、消えた。
「次は私達だな、結衣菜」
お父さんの声だった。
「お父さん……」
振り向いたあたしの肩に、彼の大きな手が置かれた。
「私は先に行こう。結衣菜も早く来るんだぞ。君たちには大変世話になった。結衣菜を助けてくれてありがとう。それでは」
簡単な別れの挨拶と共に父は扉の階段へと足をかけた。
父の体が、扉に吸い込まれそして例に漏れず、後にはなにも残らなかった。
「ユイナ、ついに行ってしまうのね」
ティリスの声だった。
「ティリス……あたし……」
あたしの口から溢れた言葉に、ティリスが眉をひそめて笑った。
何か悲しいことがあったり困ったりした時に彼女がこんな表情をするのを、あたしは長い旅を通して知っていた。
彼女と出会ったのはディクライットに向かう草原。
初めて出会った魔物から助けてくれたいつも冷静で勇敢な彼女が、本当はそんなに強いわけではなくて普通の女の子なんだと思ったのは、二人で見張りをしていた時に恋人のディランさんの話を聞いた時だった。
居なくなった彼がどんなに素敵で大切な人かを語ってくれた彼女の瞳が、涙で濡れていたのを印象深く覚えている。
彼女の紫がかった蒼く綺麗な髪の束が、揺れた。
「……ユイナ?」
不思議そうに首をかしげるティリスにぼうっとしちゃった、と返すと彼女はしょうがないわねと言って笑った。
「ユイナいっつもぼーっとしてる!」
そう言ったのはチッタで、燃えるように赤い髪が彼の変身する狼の毛並みを思わせるように彼の動きに合わせて揺れていた。
ここツーランデレンヴェルトに来て初めて出会ったのはチッタだった。
ジェダンの国防軍に囲まれたあたしの手をとって……。
ふふ、あのあとメリルさんに怒られてたっけ。
チッタには何度も何度も助けられて、そしてその底なしの元気さにとっても救われた。
「ちょっと、ユイナだって色々考えてるのよチッタ」
彼が失礼なことを言ったようにたしなめるティリスに、あたしはクスッと笑った。
「あーっ笑ったー! 今バカにしただろユイナー!」
「馬鹿になんかしてないよっふふ……」
この会話もこれで最後だ、と思うと急に悲しくなってきた。
もっといっぱい、ガクとチッタとティリスと四人で、ふざけあいたかった。
ヴィティアのあのフサフサな毛並みに埋もれて、チッタとガクが冗談を言い合ってティリスが突っ込むのを見てるんだ。
たまにはスイフトの背中を撫でてみたりして、ガクに精霊さんはなんて言っている? って聞いてみたりして。
もしかしたらミアーさんにも聞こえているかもしれないな。それなら二人でその話をしたりもするのかな。
普通に戻ったクラリスともお話がしてみたい。
エリスさんが言っていたような優しい人だといいなぁ。
「ユイナ、早くしないと扉、閉まっちゃうぜ?」
またぼうっとしていたあたしに声をかけた彼の瞳はとても澄んでいて、とても美しく見えた。
「そうだね。もう行くよ」
階段を二つのぼると、あたしは皆の方を振り返った。
残っているのはティリスとチッタとミアー、そしてヴィティア。
目があったミアーが軽く会釈をした。
そしてあたしはなるべく明るい声でこう言った。
「いままでありがとう! みんな、元気でね!」
精一杯の別れの言葉。
「おう! 俺はいつでも元気だぜ!」
「ユイナもね! 気をつけて!」
努めて明るく返すに二人を見て目に溜まった涙が溢れる前に、あたしは扉に振り向いた。
どうか、これが夢じゃありませんように。
あたしが見てきたものが、全て現実でありますように。
そう願いながら、扉に一歩、足を踏み入れた。
浮くような感覚。
──あたしの背後で、扉が閉まる音がした。
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