老人と猫

宇佐美真里

老人と猫

連れと街を歩いていた。週末の昼下がり。愛犬の散歩だ。

私は、左手に持つリードの先で歩道を右に左に…と落ち着きなく歩く仔犬に、注意しながら歩いていた。連れは其の少し後を、鼻歌と共について来る。


肌寒いと感じる季節は疾うに過ぎ、街を歩く人々は厚い上着に身を隠し寒さを凌いでいる。とは云え、まだ幼い愛犬を連れて陽の当たる表通りばかりを選んで三十分も歩いていると、薄っすらと背中に汗を感じた。


愛犬の散歩で行く路には、最近続けて何軒か新しくカフェがオープンしていた。平日は閑散としている路も、週末ともなると紙のカップを片手に歩く姿を、散歩中彼方此方で見掛ける様になった。

今もまた女性二人組とすれ違った。其れに気を取られる仔犬のリードを、僅かに私が引っ張ると、愛犬はまた次に好奇心を満たしてくれる物を求め、私の前を小走りして、リードがピンと張った。


「俺等も休憩して、お茶でも飲もうか?」


其の言葉に立ち止まり、私は後ろを歩く連れへと振り向くと、連れは着ていた上着を脱いで腕に抱えていた。

「うん…。でも何処も混んでるんじゃない?此の時間…」私は答えた。

「そっか…。じゃあ、公園の売店で何か買おう…」

抑々、連れは珈琲党ではなく紅茶党だ。私も焙煎された珈琲よりもインスタントコーヒーの方が好きだったりする。二人共に、近所に於けるカフェ乱立の"ブーム"とは縁遠い処に居る訳だ。

歩道の脇にある植え込みに気を取られている愛犬を促し、私達は近所の大きな公園へと足を進める。再び後ろからは、連れの鼻歌が聞えてきた。


公園へと向かう為、脇路に針路を変える。通りは細く其の幅を狭め、両脇に立つビルに阻まれて陽も届かずにひんやりとしていた。汗ばんでいた身体も一気に冷める。

「寒っ…」と呟くと連れは、手にしていた上着にそそくさと袖を通した。


路脇に公衆トイレを設置した小さな公園の前を通り掛かる。其の公衆トイレの脇に置かれているベンチに、独り年老いたホームレスが項垂れて座って居た。

差し詰め、昼間から酒でも呑んで"うたた寝"でもしているのだろうと、私は然して注意も向けずに通り過ぎようとした。が、一瞬…其のホームレスの額に伝う赤い物が目に入る。流血?怪我?いや、酔っぱらったまま躓き額を擦り剥いただけだろう…眠っているくらいなのだから大丈夫だ…と、其のまま私は遣り過ごそうとした。ホームレスに好奇心を刺激されたのか?愛犬が近寄ろうとするのを、私はリードを引いて制した。老ホームレスの足元には汚い雑巾の様な塊が置かれているのが見えた。


「もしもし?」


背中越しに聞こえた其の声に、私は立ち止まり振り返る。

視界に入ったのは、老ホームレスの前に立ち、声を掛ける連れの姿だった。


「何かお手伝い出来ることはありますか?」


連れは老ホームレスの肩に手を遣り、ゆっくりともう一度声を掛けた。

「風邪引きますよ…。此んな処で寝ちゃったら…」

老ホームレスの顔を覗き込む様に連れは屈み込むと、足元に捨てられていた"ぼろ雑巾"が動きを見せた。"ぼろ雑巾"に見えた其の正体は猫だった。老ホームレスの足元から動かぬまま、其の小さな頭だけを連れに向け、「ふうぅぅぅぅ」と声を喚げ威嚇する。此の老ホームレスの飼い猫なのだろうか?私の足元では愛犬が、其の"ぼろ雑巾"の威嚇にたじろいで、私の足を盾にして隠れた。元来、臆病な性格であるので、私は愛犬を抱き上げて安心させてやった。


「其んなに警戒するなよ…。お前のご主人を心配してやってんだぜ?」


連れは笑いながら"ぼろ雑巾"に言う。

猫の威嚇声に、眠っていた老ホームレスが目を覚ました。崩れかけていた姿勢を立て直しベンチに浅く座り直す。

「血が出てますよ?何かお手伝い出来ることはありますか?」

もう一度繰り返す連れの言葉に、老ホームレスは目をパチクリとさせた。

「あ…あぁ。だ、大丈夫…。よ、よろけて転んだだけ…さ…」

被っていた薄汚れた帽子を手に取り、もう片方の手で額を拭うと、此れまた汚い歯を見せて、ニカッと連れに笑って見せた。血は半ば乾き掛けていて、拭うと少しだけ其の赤い面積を広げはしたが、傷自体は大したことがない様だった。

連れも乾き掛けた血の流れの"元凶"を覗き込む。

「うん、大したことはなさそうだ。よかったです…。でも、此んな処で寝ていたら具合悪くなりますよ…」

「あぁ、ありがとう…。もう行くさ…」

行くって何処に行くつもりなのだろう…其う私は思ったが、黙っていた。

老ホームレスは無造作に足元のぼろ雑巾…いや、汚い猫に手を遣り、其の頭を何度も乱暴に撫でた。先ほどまで、あんなに警戒して威嚇声を出していた猫が、気持ち好さそうに目を細める。

「何だよ…さっきまであんなに威嚇して来てたのに…。ご主人様にはこんなにデレデレしちゃってさ…。まぁ、よかったな…」

連れも、其んな至福な表情の猫に声を掛けて立ち上がった。すると立ち上がる彼にツン…と冷ややかな視線を猫は送った…。

「では、行きますね?お手伝い出来ることありませんね?」

三度同じことを言う連れに、老ホームレスはもう一度礼を言った。

「ありがとう…。此んな俺を気に掛けてくれて…」


連れは「ハハハ…」と笑って頭を掻きながら、見返ることもなく小脇に猫を抱えて去って行く老ホームレスの背中を暫く眺めていたが、やがて私の元に小走りで戻って来て言った。

「いやぁ…、血が見えたんでびっくりしたよ…」

「よかったね…」

彼の言葉に私は、其のまま背を向けて腕の中の愛犬をぎゅっと抱きしめた。


彼は昔からそうだった…。迷いなくスッと手を指し出すことの出来る彼…。大したことないだろうと通り過ぎてしまった私…。少し離れた処から見ていただけの私…。


「さぁ、俺等も早くお茶しよう!?寒くなってきちゃったよ…」

「うん…」

私は些か早足で歩きながら頷いた。

其して、彼に聞こえない様に小声で呟く。


「よかったよ…。貴方と一緒で…」


其の呟きに、腕の中の愛犬が顔を上げた…。



-了-

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