『殺人鬼アン・エイビー』

 完全な奇襲だった。


 広場のど真ん中にあらわれた伝説の殺人鬼なんてもの、誰もが、耳を、目を、頭を疑わずにいられない。

 しかし、地上でうねりはじめたそんな混乱は、まだ地下にまでは届いていなかった。


「兄さん」

「おっと」

 戸の前にたたずんだまま、スティールは両手を上げる。

 その後頭部に銃口を突き付けたまま、ビスはスティールを室内に押し込むようにして中に入った。

ひざまずいて」

 ビスはベッドの脇に膝をつかせ、ファンに視線を送る。彼女が廊下まで自分の足で出たことを確認すると、ビスはひとつ頷いた。

「ファンさん、壁を向いて目を閉じて、耳を塞いでいてください」

 ファンの視線が泳ぐ。顔はあまり似ていないが、同じ色の髪と肌の色をした兄弟だ。これから行われることを察したファンに、震えがはしった。


「あ……」

「この人は、セイズに感染しています」

「……わかりました」


 扉が閉じられる。壁を向いて目を閉じ、耳に指を押し付ける。

 遠くで銃声が聞こえた。




 ●




「そんな……なぜあの女を組織は派遣した……! 」

 第二部隊長トム・ライアンは、うろたえてデスクにもたれかかった。

 画面に映るのは六年前の悪夢の象徴、殺人鬼アン・エイビーである。

 アン・エイビーは無秩序な殺戮しかできない女だ。

 トムとセイズは、たしかにここ何回かの状況説明を『組織』に求めた。その答えがこれだとしたら……トムには意味が分からなかった。

 オフィスがけたたましくノックされる。

「! セイズか!? 」

 ロックを外した瞬間、扉を蹴破ってやってきたのは、第三部隊長ミゲルだった。


「お友達じゃなくて悪かったなァ、トム」

「ミゲル……! 今はお前の相手をしている暇はない! 」

「おお、おお、そうだろうともさ」

 ミゲルの三白眼がオフィスを見渡す。落ち窪んだトムの目を見て、ミゲルは唾を吐いた。

「冷や汗ビッチリかきやがって……アンタも知らなかったな? 」

「し、知るすべなど無いだろう……! 」

「ハンッ! 情報収集が仕事だろ? じゃあ協力しろよ。セイズの感染者リストを渡せ」

「な、なんだって……」

「第一部隊所属の職員リストだっつーの! あるはずだ。無かったらおれは、第二部隊の解体を進言する」

「……わかった」

 トムは広い肩を落とした。必要なデータを取り出して渡す。

 そのとき背筋を伸ばしてまっすぐミゲルを見つめたのは、最後の矜持だった。




 ●




「ワンダー・ハンダー!本当にアン・エイビーなのね!? 」

『99.402%一致! 一卵性の双子より数値が高い! 今は正面の広場で交戦中! 』

「近くに本当に晴光がいるの!? 」

『屋台での購入履歴が、襲撃の五分前だよー! 』

「チッ! 生きてりゃいいけど! 」

「エリカ!下へ! 」


 局内の廊下じゅうに、『室内で待機するように』というアナウンスが響いていた。

 二人がいた中央棟は、玄関ホールから奥へ向かって伸びる長方形だ。二人がいたのは、玄関ホールからは逆側、山側の八階にある特別病棟だった。

 エレベーターは事故防止のために止められている。

 二人は飛び降りるように無人の階段を降りて、ようやく一階に辿り着いた。

 ガラス張りの壁からは、陽光が降り注いでいる。玄関ホールには誰もいない。

 ……いや。


「あなた達、ここで何を! 」

 エリカの声に肩を跳ね上げて、互いを支え合うようにロビーを歩いていた男女は顔を上げた。怯えた青い顔を見合わせて、男のほうがエリカたちに口を開く。

「地下から、出るように言われて……でも、外に出たらあかんと思って」

「そう。地下へ戻る道は分かりますか」

 二人は首を左右に振った。

「……分かりました。まずは安全なところへ」

「待って、エリカ」


 腕を伸ばして制されて、エリカはニルの顔をけげんに見つめた。険しい顔をしている相棒の視線の先は、目の前の男女である。


「こんな時に都合よくここにいるなんておかしい。もしあなた達が召喚被害者の二人なら、地下のあの部屋からここまでは三十分以上かかるはずだ。出ろと言われたのはいつ? 」

「い、一時間以上は前やと……」

「あなたは召喚被害者だよね? 」

「そ、そうケイリスクさんに説明されました」

「……なるほど。あなたたちのどちらかが『感染者』ってわけね」

 エリカはゆっくりと二歩、後ろへと下がった。ニルが『本』を手渡す。


「もしくは……どちらもなのかしら」

「い、言っとる意味が分からへん」

「タカナシさん、シムラさん、よね? どっちがどっちか分からないけれど。距離を保って。近づかないようについてきなさい。死にたくないならね」

「な、なんでそんな、脅されるみたいについていかなあかんねん」

 明が怯えた声で首を振る。

「し、忍、逃げなあかん」

「明、でも」

「……せやったら、お前だけでも死ね」

 明は忍の腕を振りほどくと、身をひるがえしてガラス張りの出口へと走り出した。


「――――明! 」


 その時である。

 ガラスの壁が砕け散る。飛び込んできたのは、青い肌の巨漢と紫のロリータドレスの女。

 降り注ぐガラスの雨の中、アン・エイビーは空中で身をよじると、膝蹴りをハック・ダックの側頭部に叩き込んだ。撃ち落されるように巨体がロビーの床を砕く。


「教官……! 」

「明! 」

 志村 明の上には、ガラスは降り注がなかったようだった。

 小鳥遊 忍も、外へ飛び出した相棒を追いかけて駆けていく。エリカは舌打ちして、その背中を追った。ニルも続こうと駆け出したときだった。


「――――ニルくん! 」

 止まっているはずのエレベーターの扉から声がする。わずかにこじ開けたドアから、少女の上半身が這い上がってきていた。


「――――晴光くんのところに連れて行って! 」


「エリカ! そっちは任せた!僕はファンちゃんを! 」

「わかった! 」

 少女の腕をつかむ。ファンはけして活発な女の子ではないのに、驚くほど俊敏に立ち上がると、すぐに彼女はニルとともに走り出した。

 同じ空間の15m先で、アン・エイビーとハック・ダックが戦っているというのに、その目には一人の少年の安否しか映っていない。


 外へと飛び出すと、崩れた屋台群が目についた。

 悲哀の声が聞こえる。布製の屋台屋根が幸いし、人が崩れた屋台の下敷きになって命を落とすことは無かったが、アン・エイビーの糸は、あたりを容赦なく切り裂いていた。


「エリカ――――! 」

「ニル! こっちよ! 」

 生垣の中に埋もれるようにして、晴光が倒れていた。意識がもうろうとしているようで、眉間にしわを寄せてうつろな目が重そうに瞬いている。

「晴光くん! 」

 ファンがその手を取った。目を閉じて傷を探しながら、頭に解剖図を展開し、細胞の修復を開始する。


「エリカ、あの二人は」

「だめ。倒れてる晴光に気を取られちゃって。見失ったわ」

「仕方ないよ。じきに第四部隊が来る。僕らもここを離れよう」

「そうね。晴光に手を貸してくる」

「ああ、お願い」


 ニルは頷いて、ロビーのほうを注視した。

 ハック・ダックとアン・エイビーの戦闘で禿げたガラス壁から、中の様子が少しだけ見えた。


「……静かになった」

 冷たい汗が流れる。

 自動ドアが開いた。

 ――――青い。

 青い血を浴びたアン・エイビーは、右手にぶら下げたものを、ボールのように放り投げた。

 曲線を描いて飛ぶ。

 鋼色の短髪が陽の光に光った。


「……うそ」

 エリカが言葉を漏らした。


「エリカ、どうする」

 ニルは、じっとエリカを見た。周囲にはまだ人がいる。

「第四部隊はまだなのよね」

「まだだ。たぶん、何かが起こって遅れてる」

「……いいわ。やる」

「おれも行く」


 ぶるぶると頭を振って、晴光は起き上がった。しかし不安に濡れたファンの目が、その手を握って離さない。

「おれも行くよ」

「行くなら、連れてって……」

「だめだ」

「晴光くん……わたしも連れてって」

「だめだ……! 」

 晴光は優しく手を振り払った。


 歩き出した晴光の背中に、ファンはゆっくりと息を吸う。

「……このまま置いていかれてあなたに死なれたら、わたしは、役立たずのままよ」

 ファンは立ち上がって、一度離れた手を取る。


「あなたを少しだけなら守る力が、ちゃんとあるの。無視しないで、見ないふりはしないで。わたしを役立たずにしたまま、死んだりしないで。わたし、もっと早く、そう言いたかった」

「ダメだって……」

「死ぬつもりなら一人でいって。生きるつもりなら、連れて行って」


 ニルもエリカも何も言わない。

 晴光の頭の中は嵐のようだった。

 言葉が嵐のように回っていて、正しい言葉が見つからない。

 どれが正しいのかがわからないまま、握られた手を握り返す。


「……いいのか? 」

「いいよって、ずっと言ってるのに」

 ファンは、泣き笑いの顔で、晴光の右手を握りしめた。

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