二章 誰かの終わりの先のはじまり。

たのしい いせかい せいかつ③

 意識の深いところから、押し上げられるようにして目を開ける。

 視界良好、問題なし。消毒液のにおいがする。

 取り戻した感覚は鋭敏だった。

 混じりけのないリネンのシーツ、固いマットレスのベッド、うっすら青みがかった照明、クリーム色の壁紙、窓のない部屋。着ているのは、水色のペラいズボンとシャツ。枕もとからすぐ見える位置に、白いドアがある。

 半袖から見える範囲の腕を注視したが、おかしな注射のあとなどがないことに安堵する。

 入院着のような服は、新品の固い感触がした。 


(……ここはどこだ? )


 瞬間、無音の室内に音が聞こえた。

 誰かがやってくる足音だ。

 焦りの中で、記憶を探る。

 おれが最後に憶えているのは、縛られて放り込まれた車内。ほどかれた縄。シートの感触。寝そべって、下からみた車窓の向こうにある極彩の渦――――。


 扉が内側へ開く。


「起きたね」


 『起きたか? 』ではなく『起きたね』と。何もかも分かっているような言葉だ。

 痩せた白髪の男だった。声はまだ若いように思う。

 おれは生まれつき人の顔が分からないが、それにしても男は特徴的だった。

 男は、体の重心を横に傾け、両手をおれに向けてさらしながらベッド脇に立つ。顔でひときわ目立つ、特徴的な黒塗りのゴーグルを持ち上げて、隙間からこちらを見下ろしたようだった。


「経過良好。健康体だね」

「……あんたは? 」

「きみの担当になりました。生活のサポートをさせてもらう、スティール・ケイリスクっていいます。よろしくね。小嶋こじま りんさん。まずは二日ぶりの食事をしよう」


 茶色い粥のようなものと、白菜みたいなものが浮いた、中華っぽい酸味のあるスープが出た。

「毒は入ってないからね」

 そう言う男の声色は軽い。

「毒入れててもそう言うんだろ」

「そうかもね? じゃ、ごゆっくりどうぞ」


 食事を置いて男は退席し、ちょうど食べ終わったころになると、見ていたかのようにまたやってきた。じっさい、どこかにカメラでもあるのだろう。


「素直に食べたんだ。意外だなぁ」

「餓死すンのは嫌だからな。味はよかった」

 ぺろりと唇を舐める。「痩せてみすぼらしくなるのは、おれにとって損しかない」


「ははは! まあ、きみはそうだろう。報告書読んだから知ってるよ。ずいぶんその顔と『ちから』で儲けたもんだよね。でもまあ、ここじゃああまり役に立たないかもしれないけど」

「肉体労働でもさせられんのか? 」

「適性があるならね。きみには無さそうだけど。そのあたりも、あとで見せてあげるよ。二日間できみの検査はおおかた終わっててね。外出の許可は出てるんだ。はいこれ」


 渡されたのは、紙袋に入った衣類だった。

 目の前で広げてみれば、黒い綿の長袖のTシャツと、ポリ素材の黒いズボン、同じような素材のジャンバー、白いスニーカーが出てくる。袋にパッケージされたままの下着も三枚あった。


 予想外に、なかなか洒落ているデザインだ。というか、店で自分が選ぶ好みと合致していた。靴の裏を見ると『size62』という表記があるが、履いていたものと大きさは変わらないように思う。たぶん、ぴったりなんだろう。


「寝てるあいだに測ったのか? 足のサイズまで? 」

「気付いた? まあ、いろんな『検査』のついでにね。二日くらい寝てたんだよ、きみ」

 ゴーグル男は、にっこりとする。


「……そんなこったろうと思った」

「勘違いしないでね。これはきみのためなんだ。もちろん、こちらのためでもあるけどね。おれたちの目的は、きみとの『共存』なんだ」


 ゴーグル男は、わざわざベッドの脇の床に膝を付けてこちらと目線をあわせると、扉を手で示して言った。


「明日、これを着たきみに外を……この世界を、見せてあげるよ」

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