紫苑の召還子

奥久慈 しゃも

目覚め

 雪が降り積もる冬の頃、外の雑音の一切が聞こえない。不気味な程に静寂な夜に部屋の中で燃える暖炉のぱちぱちと薪の爆ぜる音が不気味な律動を刻む。

 三歳の誕生日を迎えたトチと祖母。二人きりの部屋で、彼女の祖母はペンダントをそっとトチの首元にかけた。極めて質素な首紐の先には赤い液体の入った小瓶。トチは不思議に小瓶を両手の人差し指と親指で摘まむように持ち上げると、それを暖炉の灯へと向けた。

 それは一切の光を通さない不思議な液体。それに気味の悪さを感じたトチは不安気に祖母の顔を見上げた。

 

「これはあなたへの誕生日プレゼント。これを肌身離さず持っていなさい。いつかきっとあなたを必ず守ってくれるはずよ」


 そう言って、トチの祖母は彼女の頭を優しく撫でた。

 けれども、どことなく寂しさを漂わせた祖母の微笑みにトチはかける言葉を見つけられないまま、彼女はそっと祖母の膝元へと抱きつくことしか出来なかった。

 そして三年後、トチの祖母は他界した。

 祖母以外に身寄りのいなかったトチは故郷を離れ、全寮制であるバージス街学舎へと入学する。

 これは、トチの祖母からの最後の計らいだった。流行り病で先に他界した父と母の遺産、そして、祖母の残りの財産を学費として事前に学校側に支払っていたのだ。

 たった一人、右も左も分からない土地での新たな生活に、現実はさらにトチへと辛酸を垂らした。入学して間もなく、魔力検査において彼女の魔力量は限りなく無いに等しかった。

 魔法産業に文明の中核を支えられたこの世界にとって、魔力の優劣はいずれ訪れる階級社会においての格付けに直結する。

 周囲の大人たちの同情など、当時の彼女は知る由もなかった。いずれにしても、月日がいずれ垂らされた辛酸の味を少しずつ彼女は嫌でも知ることとなる。

 それから、九年後。色づいた葉が舞い始めた秋の頃。トチは一五歳を迎え、幼い面影をわずかに残すだけとなった。


 学生寮三階。自室の窓辺にて、トチは亡き祖母から送られたペンダントの小瓶を夕陽に照らしていた。夕陽が室内を一番強く照らす時間にも関わらず、幼少の頃から相も変わらずこの謎の液体はどんな光でさえ通さなかった。

 ただ、そんな謎の液体も変化はあった。日を追うごとに液体は徐々に結晶化し、初めてトチが暖炉の灯にかざしたあの日から、十二年が経った今では完全な結晶となった。

 しかし、それ以外に変化は起こらず、依然、この小瓶の中身の正体も分かっていない。

 トチが知識と見識を蓄えていく程、不思議な小瓶の中身への疑問は膨らんでいくばかりだった。


「まーたやってんだ。あきないねぇ、全く」


 部屋の扉が開いた直後、トチの背後から冷やかすように少女の声が聞こえてきた。


「癖なのよ。こうしてないと落ち着かないの」


 トチは特に振り向くことはせず、ノックもせずに部屋へと入ってくる人物を咎めることはなかった。


「おばあちゃんからの贈り物だっけ、それ?」

「まあね……。で、今日はどんな宿題を押し付ける気なの、トリー?」


 トチからトリーと呼ばれた同い年の少女トリアネ。入学当時からの付き合いで、トチの隣の部屋に住んでいる。彼女は学校の宿題を頻繁にトチに頼んでくるが、魔法が使えないことに偏見を抱かない彼女へのトチの信頼は厚い。


「よくお分かりで。二限の魔生物学のレポートだよ」

「ああ、それなら提出しない予定のやつが何枚かあるから一枚持っていきなよ」

「さすが優等生。宿題ですら十二分とは余念がない」


 そう言いながら、トリアネは部屋のベッドに弾みをつけて座った。

 結局、入学してから中等部卒業が目前に控えた九年間。トチは一切の魔法を会得することは叶わなかった。

 いや、正確には彼女は魔法を諦めた。使える見込みがない魔法を捨てて座学に専念することにしたのだ。そのおかげか座学での成績は教師も一目置く程である。

 しかしながら、それを面白く思わない他の生徒からの風当たりは強く、魔法を使えないことを卑下する者は少なくない。それでも、彼女は生きる場所を守るために逆風に抗い続けるしかなかった。

 トチはペンダントを上着の中に忍ばせると窓の外に目を向ける。先ほどまで遮られていた夕陽は鋭く、彼女は反射的に瞼を下げた。

 そして、トチは後ろで座っているトリアネへと背中越しに弱い抑揚を付けて話し始める。


「私はすでに誰より圧倒的に劣っているんだから、誰かより圧倒的に優れたものがないと私はこの場所にはいられないもの」


 強がりなのか、あるいは弱音なのか。どちらにしても、鼻に付く言い方からは劣等感を感じさせた。


「また始まった。優等生の憂鬱」


 呆れた様に振る舞うトリアネもまた、素直に弱音を吐けない不器用な友人の扱いには慣れたものだった。


「全部が中途半端なんかよりもトチみたいに優れたものを一つ持っているほうが私は凄いと思うよ。周りはあなたを馬鹿にしている訳じゃない、ひがんでいるだけ。一生懸命あなたより優れた部分を探して安心感に浸りたいだけの小心者よ」

「トリーは優しいね……」


 嘲笑を交えながら話すトリアネを尻目に、トチの独りごとにトリアネは「まあね」と言って八重歯を見せて笑ってみせる。すると、トチも自然と彼女の表情に笑顔が釣られた。


「さてと、じゃあレポート一枚貰っていくわよ。励ましてあげた報酬である」

「全く、調子いいんだから。二段目よ」


 トリアネはよっと勢いをつけてベッドから立ち上がると、トチから指定された机の引き出しを開けた。


「ああ、そうだ。明日の夜は明けといてよね」


 トリアネは引き出しを物色中、彼女はトチに言った。彼女がトチを誘ったのは、魔豊祭と呼ばれる祭典。祭典とは名ばかりで、今となっては民俗的な名前だけを残した屋台や売店で賑わう庶民的な催しである。


「分かってるけど……。でも私、お金あんまりもってないよ?」


 遠慮気味なトチの言い方に、トリアネは野暮だと言いたげに表情を苦くした。


「いいのよ。そんなの気にしなくて。宿題を無料でくすねるほど、私も図々しい女じゃないんだから」


 そう言いながら自分の握った右手でトンと胸を叩くトリアネ。借りっぱなしが性に合わない所も、トチが彼女に好意に思う理由の一つでもある。


「じゃあ、宿題のお礼。お願いします」

「任せなさい。じゃあまた明日ね」

「またね」


 軽く手を振り合った後、トリアネは部屋を出て行った。扉が閉まり、再び一人となった部屋の中。

 やがて、日は完全に落ち切って、月明かりが淡く影を作り始めるまでトチはずっと空を見続けていた。


「私はこのまま此処に居続けていいんだろうか?」


 小さな声でトチは呟いた。それが独りごとなのか、あるいは誰かに投げかけたのだろうか。いずれにしても、月は彼女に語りかけてくることはなかった。


 次の日の夜。二人は夜の街へと繰り出した。

 街頭や店の明かり、通りを歩く人々で普段から賑わう街並みは、比較にならない程に多くの露店や様々な人々の喧噪で活気に溢れている。


「流石にお祭りとなると、昼だか夜だが分かんないや」


 トリアネはすれ違う人々を避けながら面白そうに周囲を見渡している。


「やっぱり人が多いよ。ちょっと息苦しい……」


 慣れない人込みでの人酔いで息苦しいのか、トチは踵を浮かせて少しでも熱気のない空気を吸おうと試みる。けれども、未だ少女である彼女の身長では、少し高さが変わっただけでは気休めにもならなかった。


「私もこの人込みは応えるわ。一回、路地裏に逃げる?」


 トチは賛成と言ってトリアネに誘導されるまま、路地裏へと逃げ込んだ。一回曲がっただけの仄暗い路地裏から聞こえる喧噪と人々の熱気は、不思議なくらい遠くに感じた。

 思わず手に息を吐きたくなる冷たい空気は、火照った身体を冷ますのに都合が良かった。そして、路地裏に入ってすぐにトチは大きな一息をついた。


「これは散策どころじゃないや。ちょっと待ってて、なんか適当に買ってくるからさ」


 トチにそう言い残し、トリアネは再び雑多な通りの人々に紛れていった。

 すると、一人になった途端に慣れない人込みでの疲れが出たのだろう。壁を背にして、トチはその場にしゃがみ、一等星が辛うじて光る夜空を見上げた。


「一人だとやっぱり退屈だな……」


 トチは服の中からネックレスを引っ張り出して悪戯に小瓶の中身を無造作に揺らすと、結晶はガラスの中を跳ねては、その都度、乾いた音を立てる。


「……綺麗な石を持っているんだな」


 気を切らしていたトチは急に聞こえた声で我に返った。

 トチは小瓶から周囲へと意識を向けると、賑やかな通りとは反対の方向に一人の若い白髪の男が立っていた。男はトチが持つ小瓶の中身に興味があるのか、静に佇む彼の眼差しの奥には好奇心が垣間見えていた。


「誰かからの贈り物かい?」


 自分が話し掛けられていると察したトチは、男からの問いに数拍の間を置いて答えた。


「……亡くなった祖母からの贈り物です」


 男は「そうか」と言って、謝罪の意を示すように目をやや伏せた。


「それは悪いことを聞いてしまったな」


 態度と合わせ、言葉での謝罪を重ねる男の誠意がトチに伝わったのか、彼女が咄嗟に身構えて上がった肩も自然と撫で下がった。


「気にしないでください」


 トチは気には触れていないと、男に向けて小さい笑みを自らの表情に添えた。


「ありがとう。君にとってその石が素敵な贈り物のままであることを心から祈っている。急に声をかけて済まなかった。僕はこれで失礼するよ」


 男が去り際に言った言葉の尾ひれに、トチの身体が一瞬強張った。


「それってどういう……」


 トチは独り言のように聞き返すも男からの返答は無い。

 トチは慌てて周囲を見渡すと、今にも賑わう人込みへと消えようとしている男を捉えた。そこで、彼を引き留める為に彼女は咄嗟に声色を上げた。


「待ってください。貴方はこれが何か知って……」


 しかし、男は背中越しでトチの言葉を遮った。


「今日はもう帰った方が良い。この場所は間もなく危険になる」

「それって、どう……」


 今度は視界が揺れるほどの激しい地鳴りによって、トチの言葉は再び遮られてしまった。

 突然の揺れに視界を歪ませ、その際に男の姿がトチの視界から外れる。揺れが収まってから彼女の焦点が元の位置に戻るまでの僅かな間に、トチは男の姿を見失っていた。


「あの人、一体何だっだんろう……」


 けれども、トチが考えに耽る時間は無かった。現状を掴めず、困惑する人々によって先ほどまで賑わっていた通りの空気が淀み、不安や混乱、恐怖によって空気の色は少しずつ濁りを見せ始めていた。


「……とりあえずトリーと合流しないと」


 トチは急ぎ、路地裏を飛び出した。

 男を追うか、別れた友人を探すかの二択。トチは迷うことなく後者を選ぶも、人込みの所為で思ったように前に進むことが出来ない。男からの忠告が現実味を帯びてきたことで、彼女の人をかき分けていく力がどんどん強さを増していく。


「早く……早くトリーを見つけないと」


 まるで、漂っている大衆の不安が、トチを飲み込もうとしているかのように、彼女の額からは汗が滲む。


「どこなの。何処にいるの?」


 トチが踵を返そうとした時だった。彼女は幸運にも、雑多な顔の中に紛れたトリアネを見つけた。今度は見失うものかと、彼女に焦点を合わせたトチは強引に身体を僅かな人の隙間にねじ込み、トチの伸ばした右手は彼女の左手を掴んだ。


「トリー……良かった。見つかって」

「どうしたの、そんなに慌てちゃってさ。もしかしてさっきの地震で心細くなった?」


 トリアネの軽口が耳に届いていないのか、トチは彼女の元へ辿り着いた途端、掴んでいたトリアネの手を引いた。


「もう学校に帰ろう……なんだか嫌な予感がするの」


 トチはトリアネに一緒に学校へと戻ることを提案するも、何も知らないトリアネに未だ危機感や不安の色は見えなかった。


「大丈夫だって。多分誰かが魔法を使って馬鹿やっただけだよ。ほら、警備の人たちだって巡回していることだしさ。すぐに元通りになるって」


 根拠のないトチの不安を、トリアネは杞憂と言って落ち着かせようとする。

 そこで、トチは先の出来事をトリアネに説明しようと口を開きかけた時だった。大きな爆発音がした方向から、悲鳴と怒号が遠くから伝ってきた。

 そして間もなく、最初はさざなみのように打ち寄せていた遠い声は、すぐさま混乱した人々を引き連れて津波のように二人へ押し寄せた。

 状況も分からず、怒号と悲鳴が飛び交う群衆。そんな状況の中、トチは怒号と共に聞こえてくる悲鳴は二人が居る場所よりもさらに先の方から聞こえてくることに気が付いた。

 それから、トチが最後尾から届く悲鳴の元凶を測りかねている間に、二人は街の中央広場まで流され、そこで人々はようやく疎らに散り始めた。


「何……あれ?」


 すると、何かに気づいたトリアネが足を止めて呆然と呟いた。トチは彼女の視線を追いかけると、激しく上げる黒煙の麓。横たわる人々の先に得体の知れない何かを見た。

 それは、四肢は加減なく乱暴に地を踏み、長い首の先に鋭く突き出した対の角を携えた頭部。そして、長い尾を大蛇のように這わせ、巨大な皮膜を左右に広げ携えた姿にトチは自身の眼を疑った。

 これらすべての特徴に当てはまる生き物は、トチが知る限りにはただ一種だけだった。


「ドラゴン……」


 魔物や魔獣、様々な魔生物が人類への脅威を基準に族称される中、ドラゴンを含む幻獣種がその頂点に位置する。しかしながら、幻獣種の存在のほとんどが伝えられているものがほとんどで、現在に現存する種がどれほどいるのかは定かではない。


「ちょっと待って。ドラゴンって幻獣のはずでしょ?それがなんで街の中に突然出てくるのよ!」


 取り乱すトリアネに、少しでも竜から離れようと走り出しながらトチは彼女の右腕を引いた。


「私も分かんないよ。私たちも早くここから逃げなくちゃ!」


 慌てふためく二人を余所に、竜は大きく咆哮を上げた。竜の両翼が地面を強く蹴り上げると、その巨体は空中へ軽々と飛び上がり、逃げようとする二人に引き寄せられるかのように竜は迷うことなく、自ら鼻先を広間へと定めていた。


「……危ない!」


 瞬く間に二人の頭上を竜が低空で通過しようとする直前、トリアネは掴んでいた手を強引に振りほどくと、彼女はトチを突き飛ばした。

 直後、突き飛ばされたことをトチが理解した時には、彼女の目の前でわずかに垂れ下がった竜の尾の先端がトリアネを弾いた。

 突き飛ばされたことをトチが理解した瞬間、突然と襲った凄まじい風圧。そして、彼女を庇ったトリアネ。その一連の出来事が一瞬の内に駆け抜け、それを目の当たりにしたトチは絶句した。

 そして、トリアネが宙へと投げ出され、そのまま石畳へと落下した途端。トチの両足は意識を外れたかのように落下点から動かない彼女の元へ駆け出した。


「トリー。しっかりして!」


 トチは必死に声を上げてトリアネに呼びかけるも、傷だらけの彼女から反応は無い。それでも、トリアネの胸が静かに上下していることを確認した彼女は束の間に安堵した。


「良かった……」


 いち早くこの場から立ち去るべく、トチは気を失った彼女の身体を支えようとした時。彼女の背中の上を静かに低いうなり声が這う。

 そこで、大勢の逃げ行く人々の中でトチが振り返った先に見た竜の眼と彼女の視線が重なった。

 それは、突如として舞い降りた竜から散りゆく人々と交錯する視線の一介に過ぎないと最初は誰もが思う。

 しかし、針の孔ですら通すほどの鋭さを宿した獣の眼光。視線はおろか、トチに向けた竜の鼻先が揺らぐことはなかった。


「……私を見ているの?」


 無意識に口から漏れた言葉に、トチは自らの言葉を否定するように瞳を強く閉じて顔を左右に振った。その勢いから顔の輪郭をなぞるように一滴の汗が流れると、その汗が地面へと落ちるまでの間、トチと周辺に流れる時間の経過に大きな歪を感じさせた。

 トチが竜の様子を窺うように、また彼女も竜の標的となり得る可能性を否定は出来ない。

 いずれにしろ竜の関心がトチの方向へと向いていると悟った彼女は竜の視界から外れるべく、彼女は急いでトリアネの右手を肩に回して立ち上がる。

 そして、トチは一足一足といきみながら横へ横へと進み始めるも、少女の力では文字通り荷が重すぎた。急ぐあまりに呼吸が乱れ、余剰に踏み出した一歩に自らの膝が耐えきれず、彼女は体制を崩した。

 二人はそのまま前方へと倒れ、四つん這いの状態から上半身を起こしたトチはすぐさま竜の様子を伺った。


「そんな……」


 トチは再び絶句した。彼女が自分の眼を疑うように自分たちの足取りを辿ると、少なくとも竜と向かい合わせとは呼べない程度には前進することは出来た。

 けれども、トチと竜の位置関係に全くの変化が無かったのだ。そこで、トチは自らが標的となったことを確信する。 

 途端、トチは咄嗟に唾を飲み込むと、迫りくる危機と恐怖が彼女の身体を強張らせた。

 そして、トチが縋るように胸元に手を添えた時、彼女は触れ慣れた物の感触が指に伝わってこないことに気が付いた。


「無い……ペンダントが無い!」


 トチは慌てて周囲を探った。おそらく倒れた瞬間、彼女の首元から離れたのだろう。紐から外れた小瓶は割れ、中身の結晶はトチの手が届く場所に転がっていた。


「おばあちゃん……!」


 トチは亡き祖母の言葉と結晶を拾い上げ、祈るばかりに両の掌で握りしめた。

 すると、結晶は徐々に熱を帯び、やがてトチが握りしめた両手の指の隙間から光が差した。


「これって?」

「君が握っているその石に魔力が満ちた証拠さ」


 トチ自身、一体何が起きたのか分からなかった。この結晶に起きた変化が吉兆なのか凶兆なのか困惑する中で、彼女の前に先ほどの白髪の男が再び現れた。


「貴方はさっきの……」

「やあ、また会ったな。やはりはお前に惹かれていたか……」

「どういう事?」

「正確には君が持つその石ことさ。それは、紫音石と言って、すでに息絶えた魔獣の血液が魔力を用いて結晶化したもの。その石が放つ魔力に竜も反応したんだ。ところで、お前はまだ学生か?」


 男からの問いかけにトチは小さく頷いた。


「そうか、ならその年まで魔法が使えなかったのは、さぞもどかしかっただろう?」

「どうして分かるの?」

「血を結晶化させるには相当の魔力が必要になる。もちろん子供のお前には無論、無理な話さ。だが、その石が入っていた小瓶には徐々に魔力を送り込むように細工が施されていた。徐々にとは言っても、日常的に魔法は使えないだろう」


 トチが抱いていた積年の疑問が、いとも簡単に紐解けていく。

 けれども、トチの祖母は何故、幼かったトチにそれを託したのか。行動の意図を理解できまま彼女は男に尋ねた。


「それで、この石に一体何の意味が?」


 その問いに男の瞳が少しの陰りを見せるも、トチはそれに気付くことはなかった。

 そして、男は少しの沈黙を置いて口を開いた。


「……召還術。君も名前ぐらいは知っているだろ?」


 それは歴史の授業で何時か習った教師の言葉。


「使ってはならない禁じられた魔法」


 トチは静かに復唱してみせるも、彼女は召還術についてはそれ以上の知識は無い。


「そうだ。血液に残った魂の欠片を結晶化することで再びこの世に呼び覚ます、それが召還術。今では禁忌としか伝わっていない魔法。……これも時代の流れだな」


 そして、男はトチに竜へと顎で視線を促した。


「因みに、あれも召還獣だ。でも、不完全な状態で術を使ったんだろう。本来の半分も力を出せていない」


 トチは半分と聞いて驚愕した。驚きのあまり彼女は口を開閉するも言葉に詰まった。


「半分以下と言っても、並の魔法使いが束になったところで烏合の衆に過ぎないがな」


 男との会話の中、竜は沈黙を破った。閉じた口の隙間から炎が燃え揺らぎ、竜の開口と共に灼熱を吐き出した。

 絶命の危機に眼を閉じ、顔を伏せて身構えるトチ。一方、男の眼差しは迫りくる火炎を正面から受け止めていた。


 籠城の砦 背を向けぬ堅き意志は 最硬の盾と成す


 虚勢ではなかった。詠唱を終えた瞬間に視認できない何かが壁となり、放たれた炎が男の目の前で二股に分かれた。


「さて、君はこれからどうする?」


 男は身動ぎすらせず、涼しい表情で竜の攻撃を防ぐ。そして、彼はそのまま話を続けた


「断っておくが、私も所詮は人間だ。力は劣るとも、私にあれを圧倒する力は無い。たちまち、私が反撃に転じれば間違いなくお前たちは直ちに害を被る」


 男は庇護することは不可能だと、念を押すようにトチに伝えた。

 けれども、彼女は躊躇うことなく男に言い返した。


「それなら、私自身を守る為ではなく、私にとって大切なものを守り抜く為にはこの石に頼るしかないのでしょう?」

 

 トチは自らの両手に包み込んだ紫音石に目を向けた。


「……召還術を使うつもりか?」


 トチの決意は固かった。彼女の瞳は男を真っすぐに捉え、首を縦に振るのに一切の躊躇は無かった。


「馬鹿だな。お前は好奇心や悪戯で事を運ぶほど愚かではないだろう?」

「いいえ、私は大馬鹿です。感情で彼女を助ける為に、祖母の言葉を盲目に信じようとしていますから」


 トチは嘲笑うようにおどけて小さく笑うと、夜風が彼女の前髪を二、三回静かに揺らした頃にはトチの表情は消えていた。 


「……お願いします。私に召還術を教えてください」


 一度はトチを制したものの、男に二度目は無かった。そして、彼女に対して落胆や失望、期待を思わせる表情を浮かべることなく、彼は竜へと振り返った。


「これから唱える私の言葉を復唱しろ」


 トチが短く返事をすると、一拍の間を置いてから男は詠唱を唱え始めた。それに後れて、トチも詠唱を追いかける。


綻びの記憶 追憶を縫い 我 汝の眠りを解く


 放たれていた光の筋がトチの両手の中へと戻っていく。そして、完全に彼女の手中に収まった光は粉雪程の光の粒へと形を変え、再び放射状に舞い散り詠唱は続く。


再誕の産声を以て うろの瞳に光を与えん 


 詠唱が完了したことを告げるように、紫音石が共鳴を促すように周囲に舞う光の粒たちは出せる限りの輝きを放った。


「さあ、これで最後だ。綺麗な建前なんて要らない、お前が望むままに力を求めろ」


 男に言われるまま、トチは眼を閉じて強く祈った。

「私は彼女を……トリアネを助けたい!」


 突如、空気が揺らいで輪郭をかたどっていく。そして、首元の僅かなたてがみが揺れるのが分かるぐらいに輪郭が鮮明になった頃、透明だった身体は闇夜を照らす白銀へと染まる。


 それは、トチが持つ語彙では言い表せないほどに美しい一匹の巨大な獣だった。

竜に劣らない体躯を持ち、四肢の先は力の無駄なく大地を捉える。しなやかな毛並みに膨らむややふくよかな尾を優雅に揺らし、ぴんと立った三角の耳と長い鼻筋の下に潜ませた牙からは静かな余裕と力強さが伝わってくる。


「綺麗……」


 獣の姿に見惚れたトチに獣は頭を下げ、獣は自らの鼻先を摺り寄せた。彼女もそれに応えるようにやさしく獣の鼻筋を撫でると獣は静かに喉を鳴らした。


「お願い……私たちを助けて」


 トチの言葉に獣の眼差しが竜へと向いた。

 身を翻した獣の足取りは軽く、前へと進んで行く姿には余裕を感じさせた。未だ燃え盛る火炎の先端に獣が足を踏み入れた直後、獣へと襲い掛かる炎がたちまち凍り付いて粉塵となって流されていく。

 一歩、また一歩と獲物への距離が縮まり、竜の鼻先に獣の吐息が触れる寸前まで近づくまで竜は炎を吐き続けた。

 そして、獣は十分に距離を詰めたところで自身の右前足を振り上げると、途端に竜は獣に牙を向けた。しかし、獣の前脚はすでに竜の脳天へ振り下ろされ、凄まじい轟音と共に土煙が上がった。

 やがて、土煙が収まると舗装された地面は深く陥没し、その威力を物語っていた。

その頃には竜の身体は完全に凍結し、彫刻のように寸も動かなくなっていた。そこに獣はもう一撃と言わんばかりに踏みつけた前脚により勢いを乗せ、力のまま竜の頭を粉々に踏み砕いたのだった。


「これが幻獣の力さ」


 隣で囁いた男の言葉に、トチの表情は素直に安堵出来ないもどかしさが滲んでいた。

 それでも、友を救えた事実に一瞬の安らぎを求めようとした時。トチは周囲から向けられた鋭い視線によって現実へと戻された。

 一部始終を見ていた人々から注がれる敵意は、まるで肌に氷が触れるような感覚に近かった。

 それは、恐怖の根源を超える力を見せつけられた人々にとって、恐怖の対象がただ彼女にすり替わっただけに過ぎなかったのだ。


「少しは、私の言葉の意味を理解出来たか?」


 男からの問いに、トチは何も答えなかった。

 ただ、持たざる者に対する冷ややかな視線にトチの心に悪寒が走った。

 かつて、トチに向けられていた同じ感情を、一瞬でも抱いた自分に対する嫌悪感からか、彼女の表情は苦い。静寂に返った広場の中で、トチは自身が普通ではなくなってしまったことを、彼女は少しずつ飲み込んでいくしかなかった。

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