第4話 登校

時刻は7時55分。

いつもより10分ほど遅く家を出た。


シャワーに時間を掛けすぎたせいだ。

朝食後のニュース・チェックを割愛したおかげで

なんとか許容範囲の遅れで済んでいる。

後はバスが時間通りに来てくれる事を願うだけである。


バス停に向かいながらテーブルに乗っていたメモのことを考えた。

実はあのメモは二日前の物なのだ。


母は仕事が忙しくて、ここ二日ほど帰宅していない。

メールが1日2回来ているから心配はしていないが。



私の家族。

両親と私の3人である。


父は総合商社に勤めている。

現在は海外の1支店を任されているそうだ。

当然、現地へ単身赴任。

既に赴任して8年が経過しているが帰国の予定は立っていない。


なんでも前任者が失敗したプロジェクトを再生して

本社の予想よりもかなり大きな利益を出したらしい。


その過程で構築した現地政府官僚や財界人との繋がりは

会社の財産として失うには余りにも惜しい。


そんな訳で父本人としては帰国を願い出ているのだが

本社からは「あと1年頼む」と3年ほど引き延ばされているそうだ。


毎年、2回か3回の一時帰国。

大体は3日の自宅滞在であるけど、

その間も本社での会議やら

現地法人と取引がある会社のお偉いさんとの会合やらで

家には寝に帰ってくるだけになっている。


そんな父とどんな形で関係を維持するか?


私と母は悩んでいるのが現状だ。


母は都心にオフィスを構えるITベンチャー企業の開発部に勤めている。

私の進学先が決まった時に

「このまま、何もしないで暮らすのはゴメンよ!」と言い放ち

社会復帰とばかりに再就職を決意した。


母は、結婚前はそこそこの実力をもったプログラマーだったそうだ。

昔取った杵柄で苦労はしないだろうと母は考えていたようだが

現場から離れていた15年の間にハードもソフトも格段の進化を遂げていて

プログラムスキル的には、まるっきり新入社員と変わらないという現実に

愕然としてしまったとか。


しかし、努力家の母はおよそ半年で

現在使用されているプログラム言語を使いこなせるようになり

開発チームのリーダーとして仕事に取り組む日々を送っている。


母と私の関係は良好………とは言い難い。


母が就職してから私は「放置」されているに等しいからだ。


母は私より早く家を出て、私の就寝後に帰宅する生活になっている。

一応、土日は休業日のはずだが

「納期が迫っている」とか「不具合の対応がある」とかで

会社へ出かけてしまう。


しばらく前には、まる1ヶ月の間、母の顔を見る事がなかった。


いくらなんでも、それはないんじゃないかと

金曜の夜に母の帰宅を待つことにして起きていたのだが

結局、翌朝になっても帰って来なかった。


空振りの徹夜をした私は土日の二日間、体調を崩して

グダグダな状態で過ごすはめになったのだ。


母は日曜の夕方に帰宅した。


久しぶりに顔を合わせた母は開口一番、

「どうしたの?顔色が悪いわよ。」


さすがの私もキレた。

「母さん!あんたのせいだよ!!」


そこからはもう止まらなかった。

「仕事が忙しいのはわかる!チームリーダーとしての責任も重いんだろうし!

でも!私の事が気にならないのかい?

食事の事とか、学校の事とかは大丈夫なのか気にならないの?

私はまだ高校生なんだ!あんたの息子なんだよ!

なにかあった時、どうなっても良い存在なのかよ!?

せめてメールの1本くらい寄越してくれてもいいんじゃないのかい!」


今までにない私の剣幕に母はたじろいだようだった。


すこし言い過ぎたかと思ったが、

今まで溜まっていた思いを吐き出して

私は落ち着きを取り戻した。


母はそんな私を見ながら口を開いた。

「そうね。確かに配慮が足りなかったわ、ごめんなさい。

仕事は忙しいけど楽しくて、ついつい、のめり込んでしまうのよ。

そうなると周りの事が見えなくなってしまうのね。

あなたも母さんの事、よく分かっているでしょ?」


確かに母は趣味でも家事でもとことんやらないと気が済まないタイプだった。

年末の大掃除で風呂場の黒カビを歯ブラシでこすり取っていたら

その日1日が終わってしまったとか…。


「それにあなたはもう高校生なのよ?いつも母さんが側にいなくても

寂しくないでしょ?食事にしても自分で作れるし…私よりも美味しく。」


そうなのだ。

母が就職して以来、自分で食事を作る機会が増えた。

それまでは休日に母と一緒にホットケーキを作るくらいしか

してこなかったのだが

母の帰りが遅いため自然と自分で夕食を作る事になった。


ほぼ毎日、料理をすることになって

「どうせ作るなら美味いものを食べよう!」と言う気持ちになった。

料理関連の動画を見たり、母が新婚時代に買ったレシピ本を読んだりして知識を蓄え

実際に料理を作ってみる。

自分で言うのもなんだが料理スキルはそれなりに上がったと思う。


以前、タイミング良く母が帰宅した時に夕食を出した。

スーパーで売られているシーズニングスパイスを使って作ったチキンの香草焼き。


母は一口食べると黙ってしまい、なんとも複雑な表情をしていた。

「息子の作る料理の方が美味しいなんて…。」


母は料理だけはあまり得意ではない。

突き詰める性格が災いしてレシピ本の「適量」がどの位の量なのか

分からなくなってしまって

夕食の野菜炒めを作るのに1時間以上かかってしまったとか。

その時、父は母にこう言ったそうだ。

「飯は食べられればそれでいい。君が作ってくれた物なら僕は喜んで食べるとも。」


この一言で母は料理に対する情熱を失ってしまったそうだ。


母は言葉を続ける。

「何も無いのは良い便りとも言うじゃない。

それに母さんはあなたはちゃんとできるって信じてるし。

そうそう、何かあればメールでも電話でもしてくれて構わないから。

仕事中でメールに気づかなかったり、電話に出られない事もあると思うけどね。」


その一言は衝撃的だった。


結局、私の優先順位は仕事よりも随分と下にあるのだと宣言されたのだから。


「分かった。私からは緊急時以外の連絡はしないよ。

そのかわり、1日に2回以上メールを寄越して。

現状報告とか帰宅予定とか、朝夕の挨拶でも構わないから。

それと、銀行口座を作るからそこに食費を振り込んでよね。

そうすれば顔を合わせられない時もお金に困らないようになるからさ。」


そう言い置いて自分の部屋へ戻る。


机の前の椅子に腰を下ろすと大きなため息をついた。

声は出さなかったが涙が流れ落ちるのを止めることは出来なかった。



「なるほどの。

そなたの父母への思いが、からまっておるのはそういう事情がある故か…。」


あっ。

エミリーには私の思いは筒抜けだったな。


私は自身の悲しい過去を覗き見られた恥ずかしさに

すこし顔をあからめながらバス停に到着した。


定刻通りならバスが来るまであと2分。













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