心動かす作品、について語ってみる

 この「驚くべき住人たち」──。評論・創作論とカテゴリーしていますが、全然評論になっていないじゃん、そっちの方が驚き! ということに気づき、急になにかそれっぽいものを語っておいた方がいい気がして筆を取りました(ああ、付け焼き刃)。


 テーマは、「心動かす作品」って、結局なんなのだろう、ということです。創作論になりますかねぇ? なればいいですけれど。自分に過度な期待はせず進めて参りたいと思います。



 「笑いのヒトキワ荘」の企画をやらせていただき、自分では、住人様に選ばせてもらった作者様の作品は、おそらく、他の人が読んでもおもしろいに違いない、とは思っています。経験でいけば、過去に読んだ小説やなんやかや、それらを世間の人たちと読みながら、それに対しどのような声や意見があがっていたか……という記憶が若干の客観性。それでも実際、強く物を言うのは個人的な「好み」ですからね。


 やはり皆が皆、同じものに同じように心動かされたり、すごいと思ったりしているわけではないでしょう。また、私はどちらかと言えばゲテモノ好きですし、庶民の感覚なので、作品のレベルがあんまり一般を逸脱し、高級+美麗すぎたり、人智を超えすぎたり(!)しているようなものは受け止めきれないかもしれません。


 とにかく、いつも思っていることは、好きとか、心動かされた──というものは、やはり理屈ではないと思う、ということです。後々考えて、分析すれば、「ここがすごい」と説明できる気がしますが、感動に打たれた瞬間、即座に理由まですっかり感得しているでしょうか。私はしていないと思います。そんな頭の出来もよくないので。



 作品のことから少し離れますが、人を好きになるのもそうだと思っています。


 拙作で申し訳ない、「愛を込めてから愛を込めて」(エピソードタイトル・20年後のチャーリー・ブラウン)でも少しご紹介した話で、PEANUTSの人気キャラクター、チャーリー・ブラウンが、彼に密かに恋するペパーミント・パティから、「愛って何なのか教えて?」と言われ、パパが話してくれたエピソードを例にあげて説明するシーンがあります。


 このお話をアニメで見たとき、えらく感動し、感心しました。チャーリーのパパがかつてデートした女の子が、パパに車のドアを開けてもらい先に乗り込んで、パパが運転席に乗ろうとするとドアをロックしてパパが乗れないようにしてしまう。そして鼻にしわを寄せて中で笑っている姿が、その微笑ましいお話が、「それが愛なんだと思う」とチャーリーに言わせているのです。


 こんなささやかな日常の、茶目っ気ある女の子のお話で愛を感じられるチャーリーのキャラクター感が私は大好きでしたし、すごくいいお話だな、と、たしかに愛を感じる、と思いました。


 また、これもマンガにはなりますが、吉田秋生さんの作品『櫻の園』にも考えさせられたエピソードがあり、アツコという女子高校生がシンちゃんという男の子と付き合っていて、彼との初デートで映画館に行くんですけど、人気の映画で朝一番に行くので、彼が先に並んで待ってると言ってくれ、アツコも早起きして到着します。そのときにはすでに長蛇の列で、一番前で壁にもたれて立ったまま寝ているシンちゃんを見て、「あの時シンちゃんのことがマジで好きになった」と振り返るシーンがありました。


 この二つは、「人を好きになる(愛を感じる)理由は理屈じゃない」ということを表している気がします。アツコの場合、自分を喜ばせようとそこまでしてくれるんだ、という彼の一生懸命さに心を打たれた、とも説明できますが、こういうふうに言葉にすると、なんだか途端に堅くなり、なんとも妙味がなくなってしまいませんか? なんか、説明できない──気持ち、愛を、「いたずらして鼻にしわを寄せ笑ってる女の子」「朝早く行列に並び立ったまま寝てる男の子」という、なんの変哲もない、他の誰かだったら取りあげさえしないような「その人だけのドラマ」をぽっと出されて、「ああ、でもわかる、そういうの」と逆に胸に深く埋め込まれてしまったことに、驚き、感動したのです。


 私がある作品を読んで好きだ! 良い! と思う気持ちも、本当の意味では説明できないと思います。

 なぜ素敵なんだろう、は何度も考え、いろいろ探ってみますし、レビューを書くにあたっては説明しようと試みます。


 これだけ言葉があり、様々な表現方法が存在していても、できない……というのがなんとももどかしく、おもしろいです。


 思えば、私がユーモア小説に入れ込んだのも、「わからない」が大きなきっかけでした。あるアメリカのユーモア短編小説ばかりを集めた本を読んだときに、まったく笑えず、意味もわからず、「なにがおもしろいのかさっぱり……」という体験をしてしまったのです。


 笑いは「文化」が鍵を握っているので、その文化を知らなければ、触れた経験がなければ理解できず、笑うことができません。なので、アメリカ文化になじみのない日本人向けに、解説がつけてあったのです。その解説を読んで、「なるほど、こういうことが笑いになっているわけね?」と理解できました。そして、これはある意味「未知の世界や」と気づき、のめり込んでいきました。自分でも「こういうものを書いてみたい」と思ったのは、もちろん、「誰にも意味が通じないものを書きたい」ではなく、「意味がわかれば道が開けるという新しい世界」がすごく魅力的に思えたからです。まだ自分が踏み込んでいない分野、未知の領域、と思ったわけですね。それからずっと、もう二十年は経ちましたが、好きなジャンルはユーモア小説、これ一筋です。


 それで、もし、人の心を動かせるようなすごい作品が書きたい! と思ったら、どうしたらいいか……。私も、日々すごく思っています。私もそういう作品を読んで楽しかったし、誰かにもそういうふうに思ってもらえたらいいな、と思っています。


 やはり、理屈ですべて解明できないのであれば、「感じ入る」世界であるならば、作為するのは難しい──。自分がおもしろい、楽しい、と感じるものを信じるしかないとは思います。



 そういう意味で参考となりそうな、ここで実は一番語りたかった、今まで触れ、味わった創作物の中で、説明困難な感動と忘れ難い記憶を残してくれたある作品について、語ってみます。



 実は小説ではなく、演劇です。しかも高校演劇。十数年前、私がまだ二十代の頃に、NHKのBSで放送されていた『青春舞台20××』(注:××のところにはその年の数字が入る)という、高校演劇全国大会で優秀校に選ばれた学校の作品を放送する番組がありました。何年間見続けたか忘れましたけれど、一度見てから虜になり、毎年秋には楽しみにして、しばらく追いかけていました。なお、現在までずっと行われていたらしいのですが、BS放送を解約したこともあり、もう何年も見ていません(コロナとか、なにも問題なく行われるのならば、またぜひ見たいです)。


 今回、ご紹介したい作品について、私の記憶だけでは頼りないので、もっとしっかりした情報が得られないかとインターネットで検索していたら、ありました! 佐藤さんとおっしゃる、高校演劇好きの方のブログに、その作品が放送された年の、私が「青春舞台」で見た他の作品についても、細かな感想が載せられていました。大変助かりました! 改めて高校生たちの熱き戦いと素敵だった舞台を思い出し、懐かしかったです。


 作品名は『三月記 〜サンゲツキ〜』。中国地方代表の学校だったようです。ブログに載っていた校名を調べると島根県の学校。2006年の青春舞台の審査員特別賞、受賞作でした。十五年前ですか! ええ、最優秀賞でも優秀賞でもありませんでした。これがすごいところなのですが。


 

 私は自分が見た青春舞台の最優秀賞の作品はほとんど覚えています。やはり、さすがはグランプリ、というだけあって、決して学生──プロの俳優じゃない、子どもの演技──だからこんなもんか……のような物足りない感じは全然ない、むしろ「これならお金を出して観に行ってもいい」と思えるくらいのもので、ある意味「プロの演劇よりおもしろいかも」とすら──あくまで私の好みとしてですが──思っていました。若いエネルギーといいましょうか、商業的に、芸術的に、複雑に作り込まれていないストレートで純な味、というのが魅力でした。


 ただ、最優秀賞以外の作品で、ここまでしっかり憶えている、ある意味一番印象に残った作品となったのは「三月記」だけです。



 最優秀賞作品は番組の一番最後に放送されます。なので、「三月記」は比較的最初の方で放送され、私はその日なにか用事があったのか、開始時間に家にいることができず、舞台放送前に必ず用意されているコーナー、学生さんらしい楽しいノリの学校紹介の部分を見逃し、劇の方も最初の部分が少し欠けました。なので、この学校がどういう学校だったかとか、部員さんたちの情報を一つも掴めないままいきなり観はじめることになったのです。


 この作品の一番の見所(?)とも言うべき、「フリップ芸」ならぬ「板書芸」のような黒板を使った笑いの部分があったのですが、これは運よくバッチリ見ることができました。


 物語の舞台は学校。なんだかおかしなノリでおかしな動きをしている学校の先生が主人公(?)で、男子部員さんが演じておられました。


 先生は国語の中島敦作品「山月記」を「三月記」と間違えるドジを披露。生徒の鈴木さんの名前も何度も間違え、あげく黒板に「スズ記」と書く始末。これには会場が大いに沸き、爆笑に包まれました。


 ただ、私は数分観てすぐに、「この人たち、これで本当に賞獲っちゃったの?」と叫んでしまいました。


 あの男子部員さんは高校一年生だったのでしょうか。16歳だったとして、現在31歳ですかね? あのとき、自分の舞台がテレビで放送され、もういろいろな人からいろいろなことを言われたでしょうし、応援していたご家族もあったでしょうから、今さら私みたいなど素人があれこれ言うのも失礼千万だとは思います。私のこの文章をあの高校の関係者が読むことなんてないだろうから、なにを言っても大丈夫──なこともない。なので、慎重に、きちんと考えて書かなければと思う……もう、ここまで言えば、なにを言いたいか伝わっていると思いますが、とにかく、ちょっと観たらすぐに「?」というところがあり、なぜこの作品が特別賞に選ばれたのだろう?──その疑問に心かき乱されて、そこからは一分一秒見逃すまいと、彼らの舞台に集中しました。


 物語の方は実は非常によくできていました。あのお話が今も引き継がれ、別の部員さんたちに演じられていたとしたら、すみません、ここからは大いなるネタバレになってしまいます。

 

 前半のコミカルさが一変、「先生が名前を覚えられなかったのは、精神的な問題を抱えていたから」という理由が判明。先生が生徒に渡した短歌。卒業式の日、女子生徒が背にしている紅白幕が、一気に黒と白の鯨幕に変わる。短歌を詠みあげる女子生徒。実は短歌には「折句」が含まれていて、女子生徒の後ろ(舞台上部)に、屋上で柵を乗り越える先生の姿が現れ、その頭文字を拾うと浮かび上がるメッセージ 「ア・リ・ガ・ト・ウ」を声に出す先生。二人の声が重なり合う中、黒と白の幕が表す悲劇の結末を強く印象づけて、物語は終わります。


 終了後、スタジオに戻って、ゲストに来ていた女優さん(おそらく審査員)が作品の批評を述べました。最初に先生役の男子部員さんの演技を観たとき、「思わず顔を伏せた」と。たしか「古くさい演技」と言っておられた気がします。そう、演技をよく知らない人が「演じるってこんな感じ?」と頭の中にあるイメージでやってみたら随分わざとらしくなっちゃった、というような振る舞いだったのです。私のような素人でも「えぇ……?」となったくらいですから。


 にも関わらず賞に選んだ理由として、休憩時間にトイレに行ったら、そこに集まっていた観客の学生さんらが「あんな先生いないよね? あんな先生いないよね?」と口々に「三月記」のことを話して大興奮だったと。「あんな先生」とは、黒板に「スズ記」と書いて、少し不安まで起こさせるような独特の演技で会場を沸かせた男子部員さんが演じた先生のことでしょう。

 

 私が読ませていただいた佐藤さんのブログにも、「自殺以外の終わらせ方はなかったのか(略)死に対する軽薄感が感じられる」、「アイデアは素晴らしいが雑な感の否めない舞台装置」、「お世辞にもうまいと言えない入部したて」と酷評気味。しかし最後には「演技もむしろあれはあれでよかったんじゃないかとだんだん思えてくる、かみしめるほどに味わい深くなるという演劇にしては珍しい作品」と締めくくられていました。


  ──goo blog「ぜったい勝つ!高校演劇コンクール必勝法」より引用


URL

https://blog.goo.ne.jp/so_young_m/e/605b20b0f3404b880480ca21e9c09bf2



 まさに同感! もちろん、先生役をもっと舞台慣れした演者さんがやったとしても、あの脚本なら賞はやはり獲っていたかもしれません。しかし、私の記憶にはここまで残らなかったでしょう。あの演技であの物語という、ギャップ萌えならぬ「アンバランス萌え」。前半の笑いと後半の悲劇。欠点が残していった衝撃と感動の渦。


 これこそ、理屈を超えて人々が味わった作品への「大好き」という称賛なのではないかと思いました。あのときテレビの前で受けとった気持ちは言葉にならない不思議な感覚でした。あれから何度、この「三月記」のことを思い出したかわかりません。頭の中で何度味わったことか。こんなことって、あるんですね……。私にとって、間違いなく「一生モノ」の思い出、作品となりました。本当に「いいものを観せてくれて、稀有な体験をさせてくれて、ありがとう」という言葉をあの学校の演劇部の方々に贈りたいです。今はもう、みんな社会人ですね!



 「うまければ感動させられるとは限らない」は、素人作家としては救いのような言葉です。また今後、文章や創作が段々上手になっていったとしても、だからといって良いものが書けるとも限らない、ということも含んでいるでしょう。


 人の感動は作為では得られないならば、偶然出来あがったものに頼るしかないのでしょうか? 運なの? 勘なの?


 私は、「勘」に対しては結構あるかも、と思っています。私は細かい計算が苦手な少々かわいそうな頭をしているので、普段は勘が命綱です(大層、危険!)。


 ただこれだけは言えるのではないでしょうか。感動という心の動き、疼きを知るには、そういう作品にいっぱい出会えばいいのだと。自分が経験したことが、他人も経験しているものかもしれないと思えば、「その心」についてはなにかわかるはず。自分も自分の書いたものに「心動かされ」れば、その作品はなにかを持っているということかもしれない。それか、あの舞台の上の高校生たちみたいに、そんなふうに省みる余裕もないくらいに没頭して発熱して、「俺の全部をくれてやる」(by 鮫島鯉太郎)みたいな境地に立つのもいいかも…………いや、健康は大事、無茶はダメですよ。



 いつか『三月記 〜サンゲツキ〜』を超える、理屈抜きに人を圧倒する作品、というものに出会える日が来たらいいと、思って止みません。このカクヨムで出会えたら、最高でしょうね。ヒトキワ荘で、出会えないかなぁ……夢ですね。この大きな夢を抱いて、皆様の作品、これからも読ませていただこうかと思っております。

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