43 代償と世界の記憶

 再び目覚めて朦朧と揺れる意識の中で隆行は自身が拘束されていることに気がついた。真っ白な天井、真っ白な壁、降り注ぐ光と静かに揺れるカーテン、無機質な部屋に一人きりだった。昼間で外は明るい。


 脳が水に浸かってふよふよと漂っているような覚束なさがあって、どうにも思考が鮮明でない。ただ、唯一鮮明に覚えていることがある。それは人魔の中で見た深谷村の記憶だ。夢とも形容しがたいあの幻のようでありながらリアルな夢。時間が過ぎることで夢は曖昧になっていく。その記憶を繋ぎとめようと懸命に何度も夢をなぞった。


 深谷村という村が実在したかは分からない。もしかしたら隆行の見た記憶さえ、自身の脳が勝手に作り出した虚像という可能性もある。かつて、田吾作という男がいてその男のせいで深谷村はこの世界へと運ばれた。腐敗した大地で死んだ人々の魂が土地の汚れと結びつき悪しき魂を生んだ。それが人魔の始まり。田吾作という古めかしい名、トイレがなかったこと、とても昔である気がするがそれ以上は思考が追い付かない。歴史を思い出そうとすると具体的なことがどうにもぼやける。拘束具が邪魔に思えて言葉を発する。


「誰か」


「誰か」


 自分の声が耳にくぐもって聞こえる。声が届かないのか誰もやってこない。


 両手を動かそうと懸命に力を込めたが拘束具はカチャカチャと音を立てるだけで、外れなかった。不意に下方の扉が揺れた。声がする。男の声だ。


「おい、看護師さん! 起きてるぞ」


 隆行は益々拘束具に力を込めた。外れなくてもどかしい。

 すぐに駆けつけたのは女性看護師だった。


「大丈夫ですか。ここどこか分かりますか」


 看護師の顔が魚眼レンズで見たかのごとくカエルの顔のように伸びている。目の位置がどうにもおかしい。


「タカユキさん、分かりますか」

「分かります」


 懸命に発した言葉なのにそれさえも自分で聞こえない。看護師にも伝わらなかったようで、看護師は様子を眺めまわすと拘束具を締めなおして去っていった。


「誰か、誰か」


 もしかするとこの言葉はちゃんと言葉になっていないのだろうか。口の中が腫れたようにもつれる。大きく声を出そうと振り絞るがそれがまっすぐに天井に届いていない。隆行は格闘の末諦めると目を閉じた。


 次に目覚めた時は夜だった。部屋には小さな蝋燭の灯り。今度こそと思ってあげた声もまた声にならない。天上ばかりを見続けて、飽くと木戸に小さくあいた穴を見続けて。無限と思える時間が経過していく。苦しいほどに目が冴えて眠れない。途中看護師が様子を見にやってきた。隆行の見開いた眼は見えているだろう、それでも声をかけずに拘束具を締めて去っていく。


「ああ、ああ」


 隆行は声を上げた。そこで初めて気づく。自身はまともに喋れてはいないのだ。言葉が言葉になり切らず消えていく。


 隆行が解放されたのは次の日の朝だった。

 病室にやってきた医師が診察する。隆行の目を見て、手をじっくり見て。医師はにっこり笑うと「大丈夫ですよ。ここは病院です、安心してください」といった。




 隆行はその日のうちに拘束を解かれて次の日には移動になった。同じ病棟の別の部屋だった。そこに拘束具はなく隆行は一安心する。夜にはカギがかかるが、日中は部屋の外に出られる。出られると言ってもそこも鍵で仕切られた小さなフロアだった。


 フロアのイスに座り呆然としていると「よう」と背後で声がした。振り向くと煙草をくわえる仕草をしながら男が愉快そうに笑っていた。


「オレはオーラン、あんたは?」


 答えようとして舌がもつれる隆行を気遣うようにオーランは煙草の指を口から離した。


「ああ、大丈夫、ゆっくりでいいんだ。オレも始めはそうだった」

「ああ、ああ」


 オーランは隆行の対面のイスへと座る。


「落ち着けよ、あんたヨミで何を見てきた」


 食い入るように見つめるオーランの目に小さな光が宿っている。


「あの言葉をいうなよ。いうとオレはキレるぜ」


 隆行は少し考える。


「深……深……」

 察したオーランは頷くと煙草を吸う仕草をした。


「あんたが正気になったら皆で話したいことがあるんだ」


 皆とは恐らく彼の所属するコミュニティだろう。ここは病院で彼もまた患者。自身は一体どうしてしまったんだろう。オーランの顔は相変わらず魚眼に映ったように見える。近づくと湾曲が大きくなり、離れると元に戻る。


「ああ、ああ」

「ああ、分かってるよ、分かってる。そうだよな。病院の連中こんなところに俺達を閉じ込めやがって」


 隆行がいいたいのはそんなことではなかった。彼らの記憶に触れて分かったことを伝えたかった。


――人魔はこの地を目指している。生きている者の命を根絶やしにしようとしていると。

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