第4話 罰当たりの恋

 季節が変わり、本格的な夏が近付いてきた頃、やっと私の中の異常者は鳴りを潜めた。

 毎日死にたくなる時間に深酒をして、前後不覚になって眠ることも少なくなったし、同僚から、顔が紙より白い、と揶揄されることもなくなった。

 また、老後の孤独死のことでも考えながら生きられる、と思い始めていた時だった。


「ぴょーんぴょん!」

「ッ!」


 会社の帰りによく寄るスーパーに、都兎がいた。私が社会人になってからずっと乗っている小型車の横に立ち、大きめの花柄のワンピースを着て、子供のように大きく左手を振っている。

 半年前に再会した時と変わらない、満面の笑顔で。

 あり得ない、と思った。

 都兎ととと会うのを止めたのは、高校の時と同様、私の勝手で一方的な嫉妬のせいだ。突然連絡を取るのを止め、SNSも全部ブロックして、一切の接触を断ったのに。


「なんで……何でいるの!?」


 私の通勤経路に、しかもそんな花が咲くような笑顔で。まるで待ち合わせでもしていたかのように普通過ぎて、鳥肌が立った。


「何でって……そこはまぁ、スマホでちらっと、ね?」


 エコバッグを持ったまま硬直する私に、都兎は親指と人差し指で少しの隙間を作って、「えへっ」と笑う。

 けれど私は、すぐには理解できなかった。

 スマホで?

 確かに、都兎が私のスマホを触ったことは何度もあったけど。

 GPSとかってこと?

 その単語で連想したのは、ストーカーなどのニュースでたまに話題になる、パッと見には気付けない監視アプリとかいうもの。でもまさか、都兎がそんなものを入れる理由が分からない。

 という諸々の疑問はけれど、口にする前に都兎が走り出したものだから、あっさり吹き飛んだ。


「ちょっ、走っちゃダメでしょっ?」


 ワンピースで分かりにくいが、都兎のお腹は明らかに大きくなっていた。妊婦に必要な安静がどの程度か全然分からなかったけれど、走らせるのは良くないはずだ。


「このくらいは大丈夫だって。出産日までに、少しは歩いたほうがいいんだって」

「いやいや、今のは明らかに走ってたから」


 あっけらかんと言う都兎に、私だけが焦って言い募る。取りあえず駐車場の真ん中でやり合ってても危ないからと、自分の車のすぐ側まで誘導すると、都兎は笑顔のまま「そっかな?」と小首を傾げた。


「でも大丈夫。もう安定期に入ったから」

「安定期……」


 そう言えば、最後に会った時にそんなことを言っていた気もする。そう考えて、また都兎が現れた不自然さに思考が戻る。

 手を伸ばせば触れられるこの距離のおかしさに、再び緊張と罪悪感が私の体を固くさせた。


「……何で、会いに来たの。私、一方的に無視、したのに」

「何でって、それは勿論、安定期に入ったからに決まってるでしょ?」

「また遊べるからってこと? 私はもう、」

「違う違う。もう終わりってこと」

「…………終わり?」


 全く意味が分からなかった。

 それはつまり、何度も最悪な逃げ方をした私についに愛想が尽きて、最後通牒を言い渡しに来たということだろうか。

 それはそうだろう。私だったら、そんな友達とはすぐに縁を切る。

 けれどいざ突き付けられると、自分の意思でしたことだというのに、目の前が真っ暗になるような恐怖が足元から這い上がってきて、震えが止まらなかった。

 何も映さない空虚な鏡。

 真っ暗な裏側。

 そこに、私はまた独り。

 それを肯定するように、都兎が明るい声で「そう」と頷いた。


「やっと念願の子供が出来て、安定期に入ったから、もうあの男とも終わり。これからは毎日でも璃桜りおと一緒にいられるよ」


 にこっと無邪気に笑って、都兎が私の体に抱きつく。そのあまりの自然さに、言葉の理解が追いつかなかった。


「あの男って……まさか婚約者のこと?」

「そう、それ。婚約するなんて一度も言ってないけどね」

「終わりって……別れたってこと? だって、彼との子供なんじゃないの? それを……」

「やだぁ。『彼との』じゃなくて『私の』子供よ」

「それは、だから……」


 分かっていると言おうと思ったけれど、どうしても会話が噛み合っていないような気がして、私は口を噤んだ。

 子供が安定期に入ったから別れるなんて、そんな理由があるだろうか。男が怖気づいて捨てられたというのなら、ありそうな気もするけれど。

 まさか、世にいうマリッジブルーというやつ? でも都兎に限って、そんなことで幸せな未来を棒に振る真似はしないような気がする。

 ああでもないこうでもないと思考が空転する中、彷徨う視線は私の腰に回った左手を探していた。相変わらず綺麗なほっそりとした薬指には、何も無い。


「心配しなくても、貰ったものは全部これからの新生活の支度金にしたから、安心して?」

「支度金、って……何の?」

「何のって、二人で住むためのに決まってるでしょ?」


 私に体を密着させたまま、都兎が上目遣いに微笑む。その天使のような囁きに、頭がどんどん混乱する。湧き出る疑問は、纏める前に口からあふれ出ていた。


「二人で住むって、都兎と赤ちゃんが? なんでそんなことに拘るの? シングルマザーなんて、苦労するだけでしょ? ちょっと嫌になったくらいなら、もう少し我慢するか、いっそ中絶すれば良かったのに」

「違う違うって。二人っていうのは、私と璃桜のことだよ。あ、つまりすぐに三人になるってことかな?」

「三人って……」


 都兎が「あははっ」と明るく笑うから、益々意味が分からなくなった。私と都兎と赤ちゃんの、三人の新生活? そんなもの、存在するはずがない。

 私と都兎は女同士で、私は何度も勝手に音信不通になる無責任な奴で、赤ちゃんとは血が繋がってなくて、それでも傍にいたいと願うような異常者で。

 何度頭の中で都兎の言葉を整理しても、やはりそうかと納得できる答えは導き出せなかった。


「……何で? 何でわざわざ確約された幸せを自分で壊して、私と一緒に暮らすとかいうの? 全然、意味分かんない。婚約者の彼のこと、愛してたんじゃないの? 愛してたから、子供まで……」


 都兎が何をしたいのか、何を考えてるのか、まるで分からなかった。

 高校の時は、ただ向かい合って笑い合うだけで、何もかも理解しあえている気がしたのに。今感じてるこの体温も、あの頃と少しも変わらないはずなのに。

 今は、目の前にいる大人になった少女が、私よりも異常な存在にさえ、見えてしまって。


「あれ?」


 と都兎が首を傾げる。それでもそのきらきらした瞳は、どこまでも悪戯を愉しむ子供のようで。


「ずっと私のこと見てた璃桜なら、全部気付いてるかと思ってたのに」

「! ……気付いて、」

「彼を選んだのは、璃桜に顔が似てたから。それだけだよ。それで、お金をそこそこ持ってて、優しくて、単純だったから。愛してなんかないよぅ」

「…………」


 もう、疑問しかなかった。全ての言葉の意味が理解できない。

 都兎は、おかしなことを言っている。高校の時の、同性への片恋をいつまでも忘れられらずにいた頭のおかしい私よりも、ずっとおかしなことを。

 最早笑顔など微塵も返せない私に、けれど都兎は悪戯が成功したかのような満足げな笑みで説明する。


「ほら、璃桜と私じゃ、どう頑張っても子供は出来ないでしょ? でも、璃桜に似てる男なら許容できるなーって気付いたの。ほら、璃桜は基本男嫌いだけど、私は別に平気だし」


 ずっと子供が欲しかった。

 その言葉の意味を、ちっとも正しく理解していなかったのだと、私はこの時になって初めて思い知った。

 そして、戦慄した。


「……まさか、そのためだけに?」

「もちろん! あ、婚約破棄の理由はちゃんと相手の浮気だから、心配しないで?」


 言葉の通り、他意は一切ないというように都兎が笑う。その笑顔があまりに純粋すぎて、私はついに理解するしかなかった。

 つまり都兎は「私との子供」が欲しかったがために、私と顔が似ているだけの男を捕まえて、貢がせて、目的が達成できたと確信できた途端に捨てたのだと。

 しかも都兎は、私が都兎に未練があってストーキングまでしていることにも、きっと気付いていた。気付いた上で、妊娠するまで私に接触も説明もしなかったのだ。

 妊娠二か月頃に接触してきたのは、もしかしたら私の反応を見て堕胎するかどうかを決めようと思っていたのかもしれない。その頃なら、中絶しても体への負担や影響は少ないはずだから。

 そうなると、婚約者の浮気に関しても、都兎が裏で手を回してそうなるように仕向けた可能性すらあると考えてしまうのは、さすがに穿ちすぎだろうか。


「……なんで、ここまでするの?」


 考えれば考えるほど恐ろしい想像が渦巻いて、私はどうにか眼前の最も重要な問題に焦点を絞ることに決めた。

 けれど声は、どうしようもなく震えてしまった。そこに宿るのは、驚愕と恐怖、そして認めてはいけない、けれど圧倒的な歓喜だった。

 真っ暗だった鏡が、一瞬で裏返る。鏡は光を吸って輝き、その中には、私と同じ異常者がちゃんと映っていた。

 果たして、鏡は答える。


「それは勿論、右崎うさき璃桜を愛しているからよ」


 左手で髪を耳にかけながら、左倉さくら都兎が笑う。

 底なしの背徳感と幸福感が、私の体を突き動かしていた。

 七年半ぶりに抱きしめた小さな体の、少しだけ膨らんだお腹が、二人の間でとくとくと脈打つのを、確かに感じた気がした。


「今度の週末、ダブルベッドを見に行こ?」


 胸の中で、最愛のひとがとろりと囁く。

 こんなのはダメだと、常軌を逸していると、頭では分かっている。関わる人間を巻き込んで、不幸にして、きっといつかばちが当たる。それは会ったこともない神様かもしれないし、これから会う私たちの子供かもしれない。

 それでも、私は今、文句のつけようがないくらい幸せだから。

 私は力強く、うん、と頷いた。

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映し鏡の恋 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi

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