灯台守の少女

仕黒 頓(緋目 稔)

灯台守の少女

 世界は、今もゆっくりと沈み続けているという。


 それは毎年一ミリとも一センチとも言われているが、日常生活でそれを感じることはまずない。だが大陸に残った人々は、上がり続ける海面に対抗するために、大陸の端や山や海中から土を掻き集め、壁を作った。

 けれどそれにもやがて限界が来た。安全な高地に住むことができない貧民層は、真っ先に陸地を追い出され、水上での生活を余儀なくされた。

 そんな人々がよすがにしたのが、灯台だった。


 夜の海は暗い。星や月がなければ、一瞬にして方角を見失う。

 海上に放り出されるようにして住処を移した者たちは、本能的に灯りの近くへと集まった。岬の突端などに建てられた灯台は、海面が上昇し続けてもその場に残り続けたからだ。

 けれど太陽光や風を利用した自家発電にも限界がある。海上都市が増え続け、海上交通が活発になると、灯台の需要は更に伸び続けた。

 けれど電力はとても追いつかない。政府は波力発電事業を進めると同時に、自然発光するものを探し出し、集め、代用することでこの問題を解決した。



       ◆



 深夜。ぐるぐると回る機械音と自分の呼気だけだった空間に、突如無線が鳴り響いた。


《メーデー、メーデー、メーデー!》


「!」


 メーデーが三回。救難信号だ。

 リュエルは慌てて掛け布団を跳ね除けると、卵型の揺り篭の寝台から降りて、階下の装置室にある無線機に飛びついた。


《こちらはクロワール号、クロワール号、クロワール号。メーデー、クロワール号!》


 掠れて時々聞き取れなくなる古い無線機のスピーカーが、船舶名に続けて位置情報や災害内容、乗船人数を怒鳴り散らす。その声だけでどんなに事態が緊切しているかが知れた。

 オーバーの叫びの後、リュエルも応じるように声を張り上げる。


「クロワール号、クロワール号、こちらはファヴール灯台! 緊急信号受信しました。聞こえますか!? 応答願います、オーバー!」


《メーデー、メーデー、メーデー! 誰か、誰か応答してくれ!》


 けれど返ってきたのは、やはり悲鳴のような救難信号のままだった。それはつまり、リュエルの声を向こうが受信出来ていないということだ。

 まただ。また。


「届かない……!」


 灯台の無線機はどれも出力が強く、電波も広範囲に飛ぶように設計されている。だがこの無線機は、設置されてから百年以上経っているせいか、毎年出力が下がっていた。遠くの船には、受信は出来ても、送信が出来ないのだ。


《灯台は……灯台はどこだ……!》


「ッ!」


 無線機のスイッチやボタンをがむしゃらに動かすが、最後に聞こえた言葉に息を呑む。

 岸は遥か遠くても、灯台にさえ辿り着けば簡易の救命道具はある。船は手遅れでも、灯台に逃げ込めば海に沈まずに済む。

 そのための、海に没してもなお残った灯台のはずなのに。


「ここに……私はここにいるのに……!」


 また、何もできない。握りしめて食い込んだ爪よりも、血が出る程に噛み締めた唇よりも、小さな胸が痛くて痛くて、仕方なかった。



       ◆



 朝、優しい光の中で目を覚ます。

 昨夜の無力さを引きずる瞳に、それは両親の存在を思わせて、リュエルはそっと息を吐いた。

 ぎゅっと、泣き腫らした目を瞑る。

 こんな時、いつも無理やりに二人の遺言を思い出す。


『光を絶やすな』と言ったのは父だった。

『ここを離れないで』と言ったのは母だった。


 どちらもに重要な意味と願いが含まれていると知っているし、それが時に呼吸も出来ない程の重圧にも変わるけれど、今この時は今日の一歩を踏み出す力になる。

 二つの言葉が胸にしっかりといかりを下ろしたことを噛み締めてから、リュエルは改めて瞼を上げた。

 よいしょっと卵型の寝台から降りる。


「お父さん、お母さん、おはよう」


 それから小さく伸びをして、誰もいない空間に呼びかける。返事は勿論ない。十三歳の舌足らずな声だけが、狭い円形の空間に反響する。

 それが消える前に裸足のまま駆け出し、外へ続く鉄製の扉に手をかけた。ぐっと力を込めて押し開ける。途端、強い海風が扉とリュエルの髪をぶわりと巻き上げた。


「わっ」


 強風に持っていかれないようにしっかりと握ったノブを外側に持ち替え、背中に体重をかけて閉める。それから大きく一歩踏み出して、灯室をぐるりと取り囲む手摺てすりに飛びついた。


「ふぁあ~!」


 目の前に、眩しいくらいの濃い青が広がっていた。

 目線を上げれば、上に行くほど深みを増す蒼天、下げれば水平線に近付くほど鮮やかになる碧海。上下左右限りなく広がる、濃淡の違う様々な青、あおあお

 手摺の冷たさがなければ、自分もこの青の一部だと錯覚してしまいそうになる。


「今日も、綺麗」


 毎朝、こうして風の強さや波の高さ、潮の香りを嗅ぐのが、リュエルの日課だった。

 海に没した岬にそのまま残された灯台から見える景色は、空と海しかない。かつては背後にあった陸地も、今や海の底に濃淡で見える程度だ。

 けれど毎日こうして眺めていれば、海も空も存外忙しいと知る。その中にふらりと現れる白くたなびく雲や渡り鳥、海の中の紺碧や白波に、季節や時刻の移り変わりを見付けるのがリュエルのささやかな楽しみだった。


「さぁ、今日もお仕事お仕事!」


 茫洋たる海原に、自然の変化以外の何も見付けられないことに小さな安堵と失望を覚えながら、くるりと元気よく踵を返す。

 寝台のある灯室に戻ると、やっと靴を履いて階下に続く手摺付きの階段口に飛び込んだ。石造りの芯棒に左手を添え、三階分の螺旋階段を一気に駆け下りる。

 今は無人の詰員つめいん寝室の前も、灯台に必要な機器の殆どが置かれてある装置室の階も飛ぶように走り抜けた。荷物でいっぱいの用品庫から愛用の釣り竿一式を掴み、雨水の貯水槽の階も抜けると、再び扉が現れる。

 上がり続ける海面のため、この扉が現在海面上に出ている中で最も低い扉だった。


「よし、今日も釣るぞーっ」


 この灯台に独りになって一年、生きていくために必要な全てのことは両親に叩き込まれていたから、何とか生きてこられた。その中での朝一番の仕事が、魚釣りだ。

 魚は食料になるだけでなく、魚油も作れる。塩漬けや干物にすれば日持ちもするし、残った骨で出汁がとれるし、最後はエアプランツやシープランツの肥料になる。大事な仕事だった。

 強風と飛沫に警戒しながら細く扉を開け、体を滑り込ませる。灯室の時と違い、一気に濃い潮の香りが鼻腔を突き抜けた。ざばんっ、と波の砕ける音もすぐ近くで響く。

 小柄な少女など一瞬で飲み込んでしまえる海が、目と鼻の先にあった。

 円錐型の灯塔の外側は、外壁に沿って回廊が続き、リュエルの肩程まである銃眼型の手摺がそれをぐるりと囲んでいる。

 波の静かな日は手摺の上に腰掛けて釣りをするのだが、今日はどうだろうかと、日当たりの良い東側へ歩き始めて、すぐ。

 人が、銃眼の凹んだ部分に両手をだらりと垂らして引っかかっていた。


「だ、大丈夫ですか!? 目を、目を開けてください!」


 リュエルは釣り竿を放り出して慌てて駆け寄る。嵐の後には海藻やごみや魚の死骸が引っかかっていることはよくあるが、人は初めてだった。


「死ん……でない、ですよね? ねぇ! 起きて、起きてくださいっ」


 恐る恐る触れた首筋は、最悪の予想に反して温かかった。肩を強く叩くが、反応がない。リュエルは力ない両腕を掴むと、壁に足をかけ、大きく息を吸い込んだ。



       ◆



「……ん……」


 小さな呻き声が聞こえて、飲み水とタオルを準備していたリュエルは慌てて枕元に舞い戻った。


「目が覚めましたか?」


 ふるり、と震えて持ち上げられる睫毛を覗き込んで、そっと声を掛ける。よく日に焼けた瞼の下から現れたのは、美しい大地の色をした瞳だった。


「…………」

「……あの」

「……誰?」


 ぼうとしていた焦点が合い、発された声は、声変わりの途中のような、少し高く掠れたものだった。「あっ」と慌てて自己紹介をする。


「私はリュエルと言って、このファヴール灯台の灯台守をしています。あの、あなたは」


 もしかして昨夜の救難信号の、と続けようとした声はけれど、鋭くひそめられた眉に引っ込んだ。


「……灯台? 灯台なんかなかったはずだ」

「っ……」


 頭が痛むのか、少年が潮焼けして茶色く痛んだ髪に指を差し込んでがしがしと乱暴に掻く。だが眼差しは鋭く、リュエルは咄嗟に目を背けていた。

 どんなに荒い海流に乗っても、無線も灯台の光も届かない所にいた船の乗組員が一日でここまで流されるとは思えない。だが現に、少年は流されてきた。どこかに、彼を乗せていた船があったのだ。

 それでも、その船にはこの灯台の灯りが見付けられなかった。

 前世紀から残る灯台は、海がまだ崖下にあった頃に建てられたせいで、陸側には光が届かない構造のものが殆どだ。だが灯台の設備はどれも頑丈で、遮光用の壁を取り換えるにも莫大な費用や人手が要る。

 畢竟ひっきょう、陸側から来る船には灯台が見えにくいという問題が出来た。


「ご、ごめんなさい……」


 割り切ったはずの無力さが、再び込み上げる。船を導き船乗りの安全を守る灯台守と言いながら、いまリュエルにできるのは謝罪しかないのだ。

 罵倒を覚悟して身を縮ませる。が、


「なんであんたが謝るんだ?」


 返されたのは心底不思議そうな声だった。え、と俯いていた顔を上げる。

 ぱちくりと音がしそうなつぶらな瞳がこちらを見上げていた。

 いてて、と言いながら少年が上半身を起こす。


「俺たちの船がいたのが、多分陸側だったんだろ? 灯台を直さないのは海上政府と陸上政府が揉めてるせいだし……あんたには関係ないだろ」


 乱雑な口調に反して言い分は理性的で、リュエルはつい呆けて頭一つ分高くなった少年の顔を見つめてしまった。

 船乗りらしくよく日焼けした肌に、細身ながら実用的な筋肉。ボロボロのTシャツと短パンからも、少年の性格が窺えるようだ。


 少年は、マランと名乗った。

 年は十四。リュエルが予想した通り、昨晩救難信号を送ったクロワール号の乗組員だという。

 今は、マランにタオルと着替えを渡し、シャワーを勧めたところだ。


「久しぶりに潮と汗を洗った気がする」


 父の半袖シャツと短パンに着替えて出てきたマランは、若干白くなった気のする顔を綻ばせてそう言った。

 その後二人で塩漬けにした魚と豆のスープを食べると、マランには詰員寝室を案内し、リュエルはまた魚釣りをするために外に出た。


「釣れるか?」

「!」


 改めて手摺の上で朝の大仕事に取り掛かっていたリュエルは、その声に驚いて振り返った。

 マランが食べると言ったから食事を先にしたが、今までの遭難救助者の殆どは最初の二、三日はまず寝台で休養していた。

 だというのに、マランは普通に歩いている。声にも疲れはない。若さゆえだろうか。


「まだ、ですが……、起きて大丈夫なのですか?」

「あぁ。少し寝てすっきりした。俺も釣るよ。飯だろ? 釣り竿はどこだ?」


 リュエルの心配には素っ気なく答えて、マランが後ろを振り返る。父の道具一式がまだ用品庫にあるが、見つけ出すのは難儀だろう。リュエルは一旦針を戻すと、上の階から一式を持って戻ってきた。

 それから、なぜだか二人並んで釣りをした。

 最初の一時間はほぼ無言だった。沈黙には慣れているが、どうやらマランも口数の多い方ではないらしい。

 だが真っ白な海鳥が二羽、頭上を滑空していくのを見て、ふと疑問が転がり出た。


「マランさんは、どこから来てどこへ行くはずだったのですか?」


 言った後に世間話は嫌いだろうかと思ったが、杞憂だった。ちゃんと考える時間を空けてから、マランは口を開いた。


「プロスペレから、海上都市を幾つか経由して、最終的にコンティナンに行く航路だった」

「それは、すごいですね!」


 プロスペレは海上政府がある都市だし、コンティナンは小さいながらいまだ残る数少ない陸の都市の一つだ。だが、陸に行く船は限られている。それに乗船できるのなら、伝手があるか、有望なのだろう。


「陸の写真やデータも持ってたけど、全部流されたみたいだ」

「ここに来る人は、みんなそんな感じです」


 マランの気遣いが嬉しくて、リュエルは気にしませんと笑って首を横に振る。

 灯台守は、灯台から出ることは許されていない。過去には軍艦の砲弾が飛んできても、食料船が途絶えて食べ物が無くなっても、灯台に残り続けた灯台守の話もある。

 灯台は中立ゆえに、決してその光を絶やしてはならなかった。


 だからリュエルも両親も灯台ここしか知らないし、陸地も、見渡す限りの緑も見たことがない。

 船乗りたちは皆、灯台守を別種の存在のように畏れながら、その中に少しの憐みも持っていた。だから、リュエルは父の言葉をどうにか守っていられた。


 そのあとも、マランは聞けば答えられることには全部答えてくれた。

 海上都市はどんな所か、大陸とはどんなものか、森は今もあるのか。

 他にも、海上政府の施設は夜もライトアップされ、昼間のような明るさだということ。明かりが多いことと庭を持っていることが金持ちのステータスであること。

 大陸には王族や貴族が多いこと。両政府が仲が悪いのは、お互いの資源が羨ましくて仕方がないからということなども、少しの皮肉と冗談を交えて教えてくれた。


 マランは年のわりに博識で、賑やかではないけれど非社交的でもなかった。会話は終始落ち着いた雰囲気だったけれど、瞳が輝く瞬間もあった。

 陸のことを語る時だ。

 船乗りは皆、口では陸上政府が嫌いで海が我が家だというけれど、本当は誰もが陸地を夢見ている、と。沈み続ける世界に抗いたくて船は陸を目指し、一度は水に沈んだ自分たちの故郷を、その手で蘇らせたいと願っている。


「いいなぁ」


 マランの語り口が優しくて、思わずいつもは押し隠している心の声が漏れてしまった。ハッと気付いて、咄嗟に口を押える。そっと左を窺えば、少しだけ目を大きくしたマランと目が合った。


「あ、あの、これは……いいなって言うのはそっちじゃなくてっ。その……夢が!」


 あるっていいなと思って、と続けようとして、それもダメだと寸前で言葉をすり替える。


「素敵だなと、思って」


 にへら、と情けなく笑う。

 返された沈黙は、さすがに辛かった。


「リュエル」


 マランが、物言いたげに名を呼ぶ。その先が聞きたくなくて、リュエルはヒュッと釣り竿を跳ね上げた。


「今日は釣れないみたいですね。他にも洗濯とか掃除もあるから、私、中に入ってますね」




 口実を事実にするため、リュエルは灯塔中の洗濯物を集めて回った。けれど洗濯の浸け置きを待つ間に始めた掃除の途中、両親や過去の灯台守の写真が飾られている装置室に来て、その手は止まってしまった。


「……分かってます」


 全員の目が語るものに、自分を戒めるように声に出す。

 灯台守は元は皆同じ一族で、灯台守をしているのは犯した罪をあがなうためだと、船乗りの間では伝わっている。

 それがどんな罪なのかとか、本当に罪人なのかとか、実は別に秘密があるとか、憶測は様々ある。だが灯台の光を灯し続けるという過酷な仕事を続けるのに、容易な理由でないことだけは確かだった。

 事実がどうであろうと、灯台守は陸に憧れることも、夢を見ることも禁忌だった。だから、夢は見ない。辛くなるだけだから。




 マランはあの後、昼の軽食を持って行くまで釣りを続けていた。結局マランは夕食までに小さいながら三匹を釣り、久しぶりに新鮮な焼き魚を食べた。

 マランが切り出したのは、リュエルが夕食の後片付けをし始めた時だった。


「陸に、行きたいか?」

「陸は、海に暮らすみんなの憧れですよね」


 幾分慎重に切り出したマランに、リュエルは明るく模範解答を口にする。けれどそれは聞こえなかったように、マランは思案するような瞳のまま続けた。


「……次の船が来たら、一緒に」

「ここには」


 けれどリュエルはその先が紡がれるより先に、あえて大きな声を出した。


「物語がたくさんあります」

「……?」

灯台ここを訪れる人たちと、その人たちが教えてくれた物語です。誰かを助ける度に、その物語は増えていきます。それは……勲章みたいなもので。灯台守わたしたちはどこへも行けないけれど、様々なことを知っています」

「だが……君は独りだ」


 マランは言葉を飾らない。それは美点だと思う。けれど今だけは、少し苦しかった。

 だから、やめて、と言う代わりに、少し悲しくて誇らしい話をすることにする。


「少し前までは、一人じゃなかったんですよ」


 一年前までは、父母と三人で光を守っていた。けれどある日、難破しかけた船の乗組員を灯台に入れたことがあった。その時に、病も引き込んでしまったのだ。限られた薬しかない灯台では、体力しか望みがなかった。結局、病死した船乗り二名とともに、両親は海に還った。

 けれど二人は、船乗りを助けたことを後悔しないと言った。リュエルにも、悔やんでも恨んでもならないと言った。

 あの遺言と共に。


「だから、大丈夫です」


 最後に笑ってそう締めくくる。少しの強がりがあったことには、目を瞑ってほしいと思いながら。


「じゃあ、私、光をつけるから」


 片付けを終え、逃げるようにそう告げる。


「……あぁ」


 とマランが小さく応じたのにまた笑って、リュエルは螺旋階段を駆け上がった。

 最上階の灯室まで行き、硝子製のドームの中にあるレンズを見上げる。硝子はオレンジ色の夕陽を受け、物語が生まれる瞬間のように輝いていた。その中央に据えられたレンズは、大切に隠された海の宝物のような不思議な魅力がある。


「今日も一緒に頑張ろうね」


 生まれた時からの友達に語りかけるように囁く。それから、レンズのすぐ真下に据えられた卵型の寝台に手をかけた。


「そこで寝るの?」

「!」


 出し抜けにかけられた声に、リュエルは驚いて振り向いた。マランだ。


「どうして、ここに」

「……見てみたくて。灯台守が、どうやって灯台を光らせるのか」


 それは、ある程度予想できた答えだった。今までにも、そう言って灯室に登る船乗りは多くいた。

 灯室は立入禁止ではない。リュエルも父が生きていた頃には、よく光り出すその瞬間を眺めに上がってきていた。リュエル自身が見られるのは、初めてのことだけれど。


「ただ寝るだけなんだけど、それで良ければ」


 見られる恥ずかしさに頬を染めながら、改めて寝台に乗り込む。実際、灯台守がすることは、レンズに繋がった卵型の光量増幅器の中で眠る事だけだった。


「本当に、光るんだな」


 父の匂いがまだ残る気がする枕に顔を埋め、うとうとしだした頃、マランが小さく感嘆の声を上げた。そこに嫌悪の色がないことに大きく安堵しながら、リュエルは睡魔と思考の渦に沈む。

 自家発電のみに頼る灯台の灯りを維持するのは、生半な電力ではとても追いつかない。不足する光量と、機械が損壊した場合等の万が一に備えるため、睡眠時にだけ発光する不思議な一族が灯台守となった。父は、夢が光を産むのだと言った。

 この始まりを、親は一族が相次ぐ海難事故を憂いて名乗りを上げたのだと子に伝える。けれど外の世界では、海上政府が一族狩りを行い強制的に押し込めたという認識で通っていた。一部高官はこれを大罪を犯したための贖罪だと言い、別の者はこれを海上政府の陰謀だと言った。

 事実はどちらでも良かった。現実に、両親は何人もの船乗りを助けた。

 それだけが、リュエルをここに留まらせる理由だった。


「まるで、ランプの中に閉じ込められた妖精みたいだ」


 マランらしからぬ詩的な表現が聞こえて、リュエルはそうだといいなと微笑みながら、眠りについた。



       ◆



 三日もすれば、マランはすっかり全快した。その間、二人は相変わらず魚を釣りながら、他愛無い会話をした。マランは今まで行ったことのある海上都市や陸の噂を。リュエルは、船乗りから聞いた冒険譚や、両親が助けた人々のことを。

 船は、まだ通らなかった。けれど灯りの横に要救助者在りの赤旗を掲げている。蓄光塗料で染められており、夜でも識別できる。余裕のある船ならば、遠からず灯台に寄ってくれるはずだった。

 そしてその日は、一週間と経たずに訪れた。


《ファヴール灯台、ファヴール灯台。こちらルヴニール号。要救助者ありとのこと。詳細を話されたし。オーバー》


 その日もマランに見守られながら眠りにつこうとしていたリュエルは、突然の無線に飛び起きた。灯室への電力を予備電力に切り替えて、慌てて装置室へと駆け下りる。

 送信機の出力はリュエルの力では直せないため、古い無線電信用の電鍵キーを引っ張り出していた。モールス符号で救助要請を返せば、すでに快復しているのなら今夜はそちらに停泊して、明日身柄を預かるとの回答だった。マランもそれでいいと了承した。


「今日は、朝までここにいてもいいか?」


 装置室を出た後、マランが躊躇しながらそんな風に言った。

 今まで何人もの遭難者がこのファヴール灯台で寝起きしたが、同年代がこんなに長く滞在したのは初めてだった。

 リュエルも少しの寂しさを感じていたから、この申し出に「勿論」と頷いた。

 一晩だけなら、自家発電と蓄電池の分でも灯りはつ。大きなレンズからの光が降りしきる中、二人は輝く月と星々を見上げながら卵型の寝台の前に腰を下ろした。

 けれど、会話は思ったように弾まなかった。何を言ってもマランは生返事ばかりで、気もそぞろという様子だった。けれど「船が着いたみたい」と言ってリュエルが階下に行って戻ってきたあと、マランは深刻な顔をしてこう切り出した。


「リュエル。もし君さえ良ければ……一緒に船に乗らないか」


 その瞬間、あぁ、マランはこれを言いたかったのだな、とすぐに理解した。小さな決意と共に向けられる眼差しの真っ直ぐさに、言いようのない感情が込み上げる。


「陸には行けなくても、海上都市にも色んな物や場所がある。君の居場所や……夢も、きっと見つかる」


 その声があまりに優しくて、リュエルはつい発してしまった「いいなぁ」を改めて後悔した。彼にそんな思いをさせたかったわけではないのに。


「俺は君にとても感謝している。でも俺には返せるものが何もない。だから、せめて君のくびきを解く手伝いをしたいと思った」


 船乗りたちに聞いて以来密かに憧れていた大地の色が、リュエルを誘う。心の奥底に隠した本音を、願いを優しく暴こうと。

 だから、リュエルはそっと首を横に振るしかなかった。


「気持ちは、とても嬉しい。でも、行けないです」

「……灯台守は罪人だという噂があるけれど、そんなの政府のでっち上げだ。もし、外に出たら差別を受けるかもしれないと恐れてるなら、そんなの俺が」

「違うの」


 ぐっと力を込めて言い募るマランに、リュエルはもう一度首を振る。笑っていたいのに、難しかった。


「灯台の光は、自家発電でも少しは保つ。でも永遠にじゃない。いつかは消えてしまうの。だから、私達はここに残って、光を守らないといけない」

「そんなの」

「もし無人だったら、あなたのことは見付けられなかった」

「!」

「それに、もし自力で気が付いて中に逃げ込めても、ここの生活の火が一つもなかったら……きっと寂しいです」


 その船乗りの絶望を思えば、想像だけでも身がすくんだ。荒れ果てた塔内、空っぽの食料、壊れた無線機。誰かの絶望がなければ得られない自由など、リュエルは欲しくない。

 何より、船乗りたちが灯台をよすがにするように、リュエルには灯塔の中の生活の火が、生きるよすがだった。もしこの火が絶えてしまえば、外に出られたとしてもきっと狂ってしまう。

 両親との思い出と遺言をはじめ、灯台の光と、時折訪れる海鳥と船乗り、そしてこの火が、リュエルを支えていた。

 言葉を失うマランに、リュエルは「それに」と言葉を重ねる。


「あなたは、私に感謝をくれた。その感謝が大きければ大きいほど、私がここに留まる理由になる」


 それは、慰めるような形を取った追い打ちだった。

 マランが優しくて、夢に輝いていて、リュエルを思えば思うほど、リュエルは苦しくなる。側にいるのが辛くなる。だからもう、これ以上苦しめてほしくなかった。素敵な思い出のまま、送り出したかった。


 潤んだ瞳を見つめたまま、マランはずっと言葉を探していた。波が灯台を洗う音と、海鳥の鳴き声と、階下の船乗りたちの声だけが灯室にはあった。

 どれ程そうしていたろうか。

 マランは苦しげに瞳を細め、俯いたあと、キッと顔を上げた。精悍な、海の男の顔を取り戻して。


「また、ここに来るよ。君が灯す光を目指して」


 それは、別れの言葉だった。

 けれど同時に、励ましの言葉でもあった。

 リュエルはついに堪えきれない涙が溢れて、泣き笑いのように眉尻を下げていた。

 逡巡の末にそっと伸ばされた、ロープを握りすぎてすっかり硬くなった指が、優しく一滴の涙を掬う。

 リュエルは次々と浮かんでは暴れる言葉を喉の奥に押し込んで、ただ一言、応えた。


「はい」



       ◆



 灯台は、迷える船の指針で、よすがだ。

 行く先を見失っていなければ、寄る必要さえない。ただ通り過ぎるだけの船を見送るのは、いつだって、少し、寂しいけれど。

 少女は、今日も灯台ここにいる。

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灯台守の少女 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi

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