記憶の色はグレー

 抜けるような青い空には、黒々とした雲が浮かんでいた。

「――傘、持ってくるべきだったか」

 と、何も持つもののない両手を見て僕は呟く。


「おっはよ! 今日も今日で猫背だねぇ久瀬少年?」


 不意に声をかけられた。背中には衝撃。このやろ、まーた助走で勢いつけてきやがったな。


「……お前が毎日背中叩いてくるおかげで、ますます猫背が深刻になってるよ。あき


 僕が気怠さ全開で返事をすると、暁はにししと満足そうに笑った。こんな雑なボケで満足するのかお前……。僕のこれまでの苦労は一体……。


「んあれ? どったのー? 元気なさそーだけど」

「いや、少し自分のしてきたことを振り返ってた」

「悩みがあるならいつでも聞くよ?」

「いや……自己解決してるから。いい」

「ふぅん?」


 少し凹むことはあったが、ともあれ、僕と暁は横に並んで歩き出す。……そうしないと、手を繋げないからな。

 指を絡めて手を繋ぐ僕たちを見て、恋人だと思わない人はまずいないだろう。

 僕達は見せびらかすかのように、手を振って歩いた。


「暁。傘、持ってきてるか?」

「え? 今日雨降るって言ってたっけ」

「いや。少なくとも僕は聞いてない。でもほら、あの雲」


 と僕は自由な方の手で空に浮かぶ黒雲を指差す。


「あ。ほんとだ……こっちに来ないといいね」


 どうやら、傘を持ってきてないのは暁も同じらしい。


「残念だったな。せっかく相合傘をするチャンスだったのに」

「……いや。残念って、ほどでもないかな。むしろ、少し、安心した」


 暁の表情がにわかに曇る。手をつなぐ、華奢な右手には力が込められて、少し震えているのが分かった。


「………………」


 僕は何も言わない。こうして恋人繋ぎで歩いているとはいえ、プライバシーに踏み込む資格があるわけじゃないのだ。


「…………」

「…………」


 さっきまでのはしゃぎようがウソのように、僕達は沈黙したまま、流れる景色の中を歩いた。

 ――己の未熟さを、感じずにはいられない。

 彼女に沈んだ表情をさせっぱなしなのはさすがにまずい。たとえ、それが彼女にとって必要なことだったとしても、やはり僕は間違えたとしか思えないのだ。


「あっ。じゃあ学校着いたから……」

「うん。また放課後」


 僕は暁に手を振る。その物憂げな表情を、いつか晴らしたいと思いながら。




 放課後になった。

 予想通りというかなんというか、空一面を黒々とした雲が覆い、雨は本降り。その雨音は大瀑布を思わせた。


「凄いな……これは」


 校舎入口前で立ち竦んでいる暁に、僕は声を掛ける。


「く、久瀬くん……これ雨ってレベルじゃ………………って、え。それ」


 驚愕の眼差しで暁が見る先、そこには僕の手があり、


「なんで、傘……」


 立派な、黒色の傘があった。相合傘をしてもどちらか一方の肩がズブ濡れになることはないであろう頼もしい大きさだ。


「友達に貸してもらった」

「いや友達って……え?」

「言いたいことは分かる。高校生がこんなモン持ってるかって話だよな。だがまあ、その点についてはこう、父親のものを拝借してきたってことで一つ」

「はっ、はぁ?」


 困惑半分、といった様子で暁は破顔した。どうやら多少は登校時の鬱屈さを晴らすことができたようだ。


「一緒に帰ろう」


 僕が傘を開くと、少し怯えの表情を見せた暁だったが最終的には、こく、と頷いて傘の中に入ってくれた。


 滝のような雨の中、暴風吹き荒れる中を歩く。


「…………あの日も、こんな雨だった」


 唸るような雨音の中、暁は呟いた。

 ともすれば、かき消されてしまってもおかしくない小さな声。こんな風に、一緒の傘の中にいたからこそ聞こえたものだろう。

 その言葉に、僕は何も言わない。


「雨粒がボールみたいでさ、叩きつけてくるみたいに激しくて……視界も、こんな風に暗かったし、目に雨が飛び込んでくるしで、ロクに見えてなかった」


 言葉を切り、立ち止まる。俯いていた顔を上げて、暁は前を見据えた。

 ……覚悟を、決めたのだろう。

 横断歩道を渡る。

 信号機の青色が辛うじて認識できるという状況。雨音があまりに煩いので、逆に静けさを感じる。

 この世界に二人きり――なんて錯覚さえ、抱いてしまう。

 ――だから、僕は暁の亡くなった彼氏さんを――久瀬晴人さんを――本当に尊敬する。僕にはとうてい、気付けそうにない。この状況で、自分たちにスリップした車が迫ってきているなんて。


 どっ――。


 強く、押しのけられた衝撃があった。

 雨の勢いはちっとも弱まらず、風の勢いは加減というものを知らず。

 寒さの中に独り、放り出される。

 ここに来てようやく、僕は小麦色の光を認識する。それは自動車のライト。スリップし、運転手の制御を失ったままにこちらへと来るものだ。


「ありがと」


 大きな声で、暁は僕にそう告げると光の中に呑まれていった。


 ――表情までは見えなかったが、願わくば。

 ずぶ濡れになったまま、空を見上げて思う。

 彼女の心に、一片の黒雲も残っていなければ良いと。


◆ ◆ ◆


「はい。それじゃあ期間限定特別価格。料金の方がこちら、おいくら万円になります」

「うわっ」


 料金を提示すると、暁はドン引きしたようだった。


「……事前に、お値段はお伝えしてるはずですが……?」

「ああうん! いや、そうなんだけどさすがに大学生においそれと出せる金額じゃねぇなって……まあ出すけど」

「最先端科学の結集ですからね。一応。この、舞台演劇の延長線上にあるようなセラピーは」


 メンタルケアが大きな社会問題として扱われるようになって久しい昨今、記憶合成セラピーなるものが開発された。

 曰く、メンタルを損なう大きな要因の一つたる後悔を、疑似的な体験によって解消しようというものだ。

 幸いにも、プロジェクションマッピング、VR、メイクアップ、催眠暗示といった諸技術は十分に発展している。どんな老人にも若かりし頃の疑似体験をさせることが可能だ。


 今回、僕は彼女――大学の先輩である暁さんの彼氏役でセラピーのサポートをすることになった。うちに在籍してる人間の中じゃ僕が一番若いからという理由で…………暁さんと手を繋げたのは、正直まんざらでもないと、思う。役得役得、と。

 だけど、最後は立ってるところを突き飛ばされてびしょ濡れだ。いくら、「自分を庇って亡くなった彼氏への後悔」を昇華するためとはいえ、果たして「暁さんが彼氏を庇う」という歴史改変じみた真似をする必要があったのだろうか……一応、うちの所長によるとそれが一番らしいけど。


「……どしたの? そんなにむくれた顔して」

「いえ。……はい。丁度ですね」


 お金の清算を終えて、僕は彼女を見送ることにする。

 空の色は灰色だった。


「……傘、持ってきてましたっけ」

「うん。大丈夫」

 そう言って彼女は小さな折り畳み傘を見せる。

「…………今日のことって、そのうち忘れちゃうんだよね」

「はい。セラピー中の記憶に関してはそうですね。後悔の記憶と、このセラピーの記憶を合成処理するよう、すでに暗示をかけてありますから。たぶん、暁さんの記憶はクロマキー合成した映像みたいになると思いますよ。……久瀬さんに庇われた記憶に、あなたが庇った記憶が混じる。事前に説明した通り、どちらが実際に起きたことなのかはちゃんと判別できるのでご安心――っ?」


 ぐい、と暁さんは僕の腕を引っ張った。


「……それならせっかくだからさ、本当に相合傘してみない?」

「えっ……いや、でもまだバイトが……」

「今日は人来ないってさっきスタッフの誰かが言ってたよ? いーじゃん! 『お客様の見送りに言ってました』とか言ったれば! ほら、行こっ」


 澄んだ笑顔を見せて、暁さんは僕の腕を引く。

 ささやかな小雨の中、僕は少しだけ、大学の先輩との相合傘を楽しんだ。



(お題「期間限定」「忘れる」「クロマキー合成」)

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