第36話 痛かった

 濛々と上がる埃が天井をぼやけさせている。殴ったのは僕で、殴られたのも僕だった。僕はたしかにお父さんを殴って、お父さんは何もしていなかった。


「ほう。きみの膂力りょりょくでもきみの頭は破壊できないのか。異常はあるか? 目は見えてる? 耳はどうだい。ぼくの声が聞こえているかな?」


 覗き込む、嘘で塗り固められた笑顔。

 いつも通り、痛みはない。


 以前、小型の拳銃の弾を額に受けたときは血こそ出たけど、こんな風に吹き飛ぶことも呆気に取られることもなかった。僕の拳は、普通の身体の作りをした人間の頭なら吹き飛ばす程度の力を持っているはずだった。だとしたら、これはお父さんの血脈によるものだと考えるのが自然だろう。


 そんな無意識があった。そうして僕はお父さんに教わった通り、一撃で仕留められない強者との戦い方のセオリーを実践する。


 まず相手が強者足り得ている部分を削る。技術が秀でているのなら腕を折り、敏捷性が秀でているのなら足を砕き、目が良いのなら目くらましをして耳がいいなら耳を潰す。相手が血脈のような異能の力を使うのなら、その正体を見極める。その方法は人それぞれだが、僕の場合は痛みがないことから、即死を避けられるように感覚が比較的正常な目と耳を研ぎ澄ませ、懐に入り込む。互いの異能について未知であれば、懐に入った時点で大抵の相手に僕は勝てる。


 僕はお父さんの能力を知らない。十六夜血脈であるのなら神経に宿っているのだろう。だが神経と言うのは脳から指の先端まで身体の隅々に渡って延びている。潰すべき場所を判断するのは困難だった。


 攻撃したと思ったら攻撃されていた。

 僕の眼では負えない何らかの攻撃。

 額を拳で穿たれたような感覚。

 覗き込む顔ではなく、僕の隙に叩きこんだ可能性がある対角線上の右腕を破壊することにした。


 倒れた状況から、下半身の力だけで飛び上がる。それだけで普通の人間なら吹き飛ぶ。でも相手は普通の人間ではなく、お父さん。十六夜家6代目当主、十六夜時雨しぐれ。おじいちゃん――先代の当主である十六夜雪崩なだれを僕より小さいときに殺して当主になった人。


 さらに上半身の力と地球の持つ力を使って拳を振り抜いても不足はない。


 ドパン、と瑞々しい破裂音があった。気づけば殴りかかったはずの右腕の感覚がなかった。元々他人の腕を縫い付けられているような感覚だったけれど、それがゼロになるのは初めてだ。視線を落とすと、右肩から先がえぐられたような痕を残して消し飛んでいた。


 拳を撃ち込まれた父さんの右腕ではなく、振るったはずの僕の右腕の方が、なくなっていた。


 お父さんは僕の肩を掴み、額に手を置いた。


「頭に異常はなさそうだ。でも少し熱があるかな? 損傷は右腕のみ。よし、まだ行けるね。さ、次はどうするんだい。待雪?」


 目だけで周囲を見渡す。いくつかの視線と六芒星があるだけで、構えている人間はいない。他の人間の能力を疑ったが、そうではない。そう考えることさえ読み取るように、お父さんが先んじた。


「大丈夫、これはぼくときみの問題だ。でも親子喧嘩ではない。いつも通りの『教育』だよ。彼らの仕事はこれから先にある。子どもの躾は親の役目だ。待雪、きみのことはぼくが立派に育ててあげるから、心配なんて必要ない。ぼくのいう通りにしていれば全部うまくいくんだ。そのためには母親も妹も不要。むしろ大切な人間の喪失による精神的負荷は血脈の進化を促す。きみさえ生きていてくれれば、ぼくはそれでいいんだよ」


 目と鼻の先にある顔に向けて頭突きをすると、再び僕は地面に返り咲いた。頭突きをしたはずが頭突きをした頭の方が吹き飛んでいる。同じ失敗の繰り返し。学ばない。学べない。


「何が何だかわからない、という顔をしているね。でもそれでいい。わからなくて当然。でもまるでわからないままだと『教育』にならない。だから一つだけヒントをあげよう」


 飄々とした態度が癪に障り、もう一度頭突きをした。


 今度は頭には当たらず、左手の平で軽々と受け止められた。メキメキと枯れ枝の折れるような音が、左側から聞こえた。僕自身の荒い吐息を整える。


「アンタには、胸の痛みってものがないのか?」


「もちろんあるさ。きみと違って僕の感覚は正常だよ。リッカが死ねば残念だし、きみのお母さん、椿をきみに殺させたときだって、勿体ないことをしたと思った。もう少し、きみに対して母の愛ってやつを注がせてからにするべきだった。そうすれば、きみの力はより揺るぎないものになったはずだ」


 お前だって痛みなんて感じない癖に。

 お前はぼくと同じなんだ。

 お前は――僕は、母さんを。

 胸は、痛くなかった。


 痛いかどうか、よりも先に我を失った。


 今日、沸々と湧き上がって反抗を促したのはきっと、怒りだとか、悲しみ。嬉しいだとか楽しいっていう感情を食いつぶして肥大する感情が、意識を踏みつぶし、無意識が覚醒する。


 叫んでいた。


 気付けば、僕は両手足を失っていた。

 仏間と食卓に渡る連結した複数の机の中央で、たくさんの眼がある中で、僕は倒れていた。お茶もお茶請けも吹き飛ばして、僕こそがメインディッシュみたいだった。


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