第26話 死が迫る

 片方の手で顔を隠し、もう片方の手は刺された傷を庇うように下腹部にかざしている。


「――変身」


 男は両手を身体の外に広げた。迦楼羅を抱き締めようとしているようにも、抱き着いてくるのを待っているようにも見える。


 オォォ、と。深い穴を風が吹き抜けるような音がした。声のない咆哮。首から下げていた赤い紐は指に絡まり、先端の白い勾玉が朝日を照り返して輝いている。


 石埜杜いしのもりと呼ばれる八叉の最終奥義がある。血脈を極めれば男にも女にも老人にも子どもにも龍にも鼠にも変身することから人外だとか化け物と評される血脈の、直接戦闘に特化した人型の変身形態。


 しかし、目の前で発動したそれは人型でこそあれ、人ならざる者に他ならない。

 枯れた枝が折れるような音に大きな川の流れにも似た音。

 濃くなった血生臭さを飲み込む。


 すると、そこには鬼が立っていた。


 伸び続けた髪が、白装束が、白と白が混ざり合って甲冑を形作っていた。骨本来の白さとエナメル質は神々しく、表面を巡る赤いラインは脈動する血管のように禍々しく、煌めいている。


 胸に下げていたはずの勾玉も形を変えていた。


 裕に二メートルを超える背丈より長く、分厚さによる防御力よりも敏捷性求めた細身の甲冑より幅広い。白い刀身が血管のように張り巡らされた赤に彩られ、甲冑と併せて一つの生き物のようだ。剣と盾を兼ねるほどの巨大な両手剣。


 能力名に照らし合わせて例えるのなら――天叢雲剣あめのむらくものつるぎ


 中央には変化の名残か拘りか、顔に当たる部分の深い青とつがいになるよう、燃えるような赤色の陰陽魚が描かれている。

 柄の根元に付いた赤い紐を手繰り寄せ、彼岸花めいた鬼は威嚇するように頭の上で軽々と振り回して見せると、足元に剣先を突き刺した。


「ひひっ、昔の話じゃ。遠い、遠い、昔のな」


「あら、吹っ切れたみたいに言うのね。未だに双葉に執着している癖に。責任、感じているのでしょう?」


「利害の一致じゃよ。儂はミアちゃんにこの老体の面倒を診てもらう。その代償として、儂は戦闘能力のないミアちゃんを守る。そこに何の情もない。うぃんうぃんじゃ、うぃんうぃん」


 音が声に変わる。


「それはそれとして」


 隈取と陰陽魚を模した仮面の下に、強がりの笑みが透けて見える。


「ごめんね。俺は、久遠以外どうでもいい。温もりも冷たさも痛みも何かも感じない世界なんて、皆平等に久遠未満だ。それ以下なんて烏滸がましい。それ以上なんてありえない。お前は久遠に負けたんだよ。迦楼羅お嬢様」


 石埜杜への変身に伴って血の匂いがみるみる濃くなっていた。

 空気そのものが血に色づいているような錯覚さえあった。


 血濡れの空気が今、切り開かれる。


 迦楼羅が八叉に斬り込んでいた。何の小細工もない、距離を詰める予備動作もない、しかし直線的で隙のない、両脇から身体を両断するような二刀の横一線。

 八叉の身体は切り開かれない。


 縦にも横にも巨大な両手剣を盾に太刀と脇差の交差が留められる。

 ギリギリと鉄が鳴り、火花が散る。


 八叉の剣は骨どころか鋼鉄の如く、迦楼羅の血の二刀も匹敵していた。


「少しだけ遊んであげる。待雪君のフリをしてわたしに近づいたことを後悔するといいわ。だって貴方は私の愛を弄んだのだもの。感謝なさい。享受なさい。向こう側での再会を」


 激しい剣劇があった。

 迦楼羅はわたしを蹴り飛ばしたのと同じ爆発で空中でも自在に動き、自身の回転と遠心力、地球の引力までもを利用して上から斬り込む。かと思えばマツユキと一緒にいたときと同じように足元を凍結させ、滑るように背後に回り込んでの袈裟斬り。蜃気楼を利用した盲点からの突き。


 あらかじめ血を撒き散らしたのみならず、自らの裸足にも傷をつけ、縦横無尽かつ目にも止まらぬ一方的な猛攻を可能としていた。刀身は折れれば液体と化し、肥大して落ちた種は再び赤黒い血濡れの刀身として花開く。無限にも思える閃き。


 全て、八叉ミコトは片手で振り回す両手剣と身のこなしのみで防いで見せた。


 庭の中央から一歩も動いていない、両手剣を手の中で弄ぶ余裕すらある。

 身体捌きの技術に関しては明らかに彼の方が秀でている。


「ひひっ。で、なんじゃったかな。向こう側での再会? まあそう気負うなよ九頭龍の、えっと、迦楼羅お嬢ちゃん。わしも老いには敵わん、誰もがそうであるように平等に死は迫る。例外はあるがな」


 視線が一瞬わたしを捉え、逸れた。


「それに、あんまり早く行ってもアイツに怒られちまう」


 迦楼羅は曼殊沙華めいた紫陽花の群生の中に降り立ち、微かに切れた息を誤魔化すように深く息を吸いこんだ。


「へえ、素敵。悔しいけれど流石だわ。八叉史上最強は伊達じゃないということね」


「そうじゃろうそうじゃろう? そういうお主は一人九頭龍分家ワンマンナンバーズと呼ばれておったはずじゃが、直接戦闘は苦手かの?」


「勘違いなされているようだから教えてあげる。わたし、責めるのは好きだけれど、責められるのも好きよ。まさか手も足も出ないなんてことはないでしょう?」


「よかろう。ちょっとだけじゃぞ? あんまりやると明日とミアちゃんが怖いんでな」


 直後、八叉ミコトが呟いた一言を皮切りに戦闘は激化した。


「――なんじかしこむべき神なり。あえみあえせざらんや」


 八つの頭を持つ白い大蛇と九つの頭を持つ赤い氷の龍が激突し、赤い閃光と火花が迸り、濛々と立ち上る熱気と陽炎の中、血と骨の砂と花の欠片が鉄の擦れる音と共にけたたましく舞う。その間、わたしは見ていることしかできなかった。


 だって勘違いなんかじゃなかった。

 目と鼻の先でぶつかる二人、いや、少なくとも迦楼羅が気付いている様子はない。


『誰もがそうであるように儂にも平等に死は迫る。例外はあるがな』


 そういってわたしにアイコンタクトを送っていたのを覚えている。

 もしかしたらわたしに、ではなく、風通しのよくなった向こう側、だったのかもしれない。


 正門から入ってきたマツユキは、濃密な血の匂いを纏って迦楼羅と肉薄した。少し遅れて裏門から入ってくるもう一つの影があった。正確には三つだったわけだが、とにかくわたしの痛い勘違いなんかじゃなかったのだ。彼は彼自身とわたしの唇に人差し指を当てた。

 ずいぶんと嬉しそうで、強がりな、弱々しい笑顔。

 この瞬間が永遠に続けばいいのに。


 彼と出会って初めて本心から口にした言葉は、涙と一緒に飲み込んだ。

 ――助けに来てくれて、ありがとう。わたしの、たった一人の王子様。

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