第24話 「私の方が先だったのに!」

「あら、久遠。起きたのね。久しぶりの実家はどう?」


「マツユキは?」


「貴女が急に帰ってきたものだから、お父様もお母様も驚いていたわ。お母様はあまり歓迎していないようだけど、お父様は私たちが勝てるのなら文句はないみたい」


「ねえ、マツユキは?」


「私だって驚いたのよ? 貴女のおかげで四月朔日を仕留め損ねたんだから。貴女の力、案外応用が効くのね。次はちゃんと九頭龍のために使いなさい」


「ねえ、お姉様、マツユキは」


 目が慣れて、ぞっとした。逆光の中に立っているのが優しい姉などではなくあの忌々しい九頭龍迦楼羅であると知らなかったわけでもあるまいに。

 わたしを見下ろす瞳に優しさなど欠片も感じない。感じたこともない。かっと見開かれて血走り、優しさや愉悦からは程遠い目。見覚えがあるのは、鏡。それはいつかのわたしと同じ目だった。


 頬を血のような赤で染めた彼女はわたしの髪を掴み、引っ張った。手術台がきいきい音を立てて動く。髪の一部が車輪に巻き込まれてぶちぶちと引き抜かれる。


 わたしはわたしを黙殺した。そうしなければ口の中を噛んで痛いから。ぎゅっと目を瞑っていないと痛みを想像して、怖いから。


 十九年間の癖はそう簡単に抜けてはくれないらしい。

 むしろ五年分の夢のような日々ブランクがある分、身体が強張る。


 車輪の付いた手術台ごと土蔵の外に引っ張り出された勢いで、わたしは投げ出された。逆光の淵に引っかかって、倒れてしまう。横殴りの衝撃のあと、静寂を訝しんで恐る恐る目を開くとどこか懐かしい気分にさせられた。実家に帰ってきた、などという感傷ではない。この場所に、胸の奥から溢れる温もりのようなものは期待するだけ無駄だ。むしろ身体の芯から凍り付くような、早朝の朝露だけでは説明がつかない寒気がした。


 屋敷を囲むように咲き乱れる紫陽花は健在だった。明朝の空よりもずっと青い花があって、手前の空と同じぐらい紫の花があって、遠くの空と同じくらいピンクの花がある。東から西に向けて色が濃くなる紫陽花の中に、見覚えのない色があった。


 色そのものは馴染み深く、今この瞬間のクソ姉の頬と同じ色。

 でも、こんな曼殊沙華まんじゅしゃげのような色合いの紫陽花なんて聞いたことがない。


 そうやって現実逃避を決める程度には、現実離れした光景が広がっていた。

 山を登り、森を抜け、滝の前を通り、突き当たった塀に設けられた門を潜れば、立派な武家屋敷がある。それがわたしを十九年もの間幽閉した実家であるところの九頭龍の屋敷であり、正門を抜けてすぐの場所にあるのが十九年の間、わたしを実験動物たらしめた土蔵である。九頭龍の屋敷は土蔵の他はすべて、廃墟のような有様になっていた。

 屋根の瓦があちこち剥がれ落ち、外に面した硝子も廊下を挟んだ障子も襖も嵐の過ぎ去ったあとのように砕け、心なしか建物自体が傾いているようにも見える。ど真ん中に穴が開いて、裏門と大黒柱が顔を覗かせていた。

 曼殊沙華めいた紫陽花は今も脈々と分布範囲を広げている。どうやら縁側から流れ落ちている赤い雫が原因の一端を担っているようだ。


 いつか見たような破壊の痕。

 拘束を解くべく暴れても砂埃が舞うに終わる。

 原因の大部分から、うふふふふと声がした。


「待雪君は、待雪君が、守るって言ったの。私が目の前にいるのに、私と一緒に生きてくれるって言ったのに、久遠を守るって言ったの。守られるのは私のはずだったのに。一緒に生きていくのは私のはずだったのに」


 ドガン、と自動車が派手に接触事故を起こしたような音がした。事故を起こしたのはわたしだった。吹き飛ばされたのはわたしだった。何かが炸裂して、手術台ごとわたしを吹き飛ばしたのだ。


「――私の方が、先だったのに!」


 目まぐるしく空の色と紫陽花の色が入れ替わった。縁側に叩きつけられた上に滑り、屋敷を支える大黒柱が軋むほどの衝撃があった。下敷きになって肺の中の空気が全身の内容物に押し出された。吐き気を飲み込み、殺人鬼へと向き直る。


 脱力した身体で地面を踏み締めて一歩ずつ、一歩ずつ確実に、近づいてくる。見ればわたしが転がっていた場所の砂利がえぐれて、周りの靄は濃くなっていた。わたしには咳き込むことしかできない。咳き込むだけで、渇いたのどに刺すような痛みが走る。


 湿気を取り込むこと自体が命取りになるかもしれないとわかっているのに、死なないことを覚えない身体は酸素を求めてしまう。クソ姉も同じように息を荒げていた。


「私は貴女を殺したい。でも、待雪君は貴女を守ると言った。彼は私のことも守ると言った。私が貴女を殺すということは、私は待雪君の気持ちを裏切って私を殺すってことでしょ。だから殺せなくてでも殺さなくっちゃいけなくて殺すしかなかったから殺したの」


 おかげで正気を取り戻した。わたしは、ずっとこんな感じだったのか。

 生きたいように生きることもできず、死にたいのに死ぬこともできず、何の起伏もない苦しく辛い日々に微かな希望を求めて生きていた亡者のような自分自身を、目の前の姉に重ねた。


 そうして二つの可能性に思い当たる。


 一つは、今の姉がまともな思考を残してまともな理屈を口にしていた場合。

 殺さなくちゃいけない、と言っていた。九頭龍家に戻るなり、姉は両親に報告して、わたしを殺すように命令されたのかもしれない。でも、自分のお姫様願望とマツユキの言葉には代えられなくて、一族郎党皆殺しにした可能性。

 もう一つは、


「お姉様、マツユキを、殺したの?」


 それは期待と失望が入り混じった可能性だった。執事としての義務感や助けてもらった恩義なんかじゃなく、彼がわたしを助けに来てくれていたとしたら嬉しい。けど、だとしたら、マツユキは姉よって殺されてしまったことになる。

 この女の命が尽きるまで殺され続けるか、この女の殺意に怯えながら一人で逃げ続けるか。いずれにせよマツユキがいないのだとしたら同じことか。

 クソ姉の手が目と鼻の先に迫り、諦観半分、本能半分で目を閉じたとき、一迅の風が吹き抜けた。鉄みたいな匂いは吐き気がする。でも、落ち着く香りが混ざっている。

 マツユキの匂い。


「おいおい、嘘だろ? 勝手に殺さないでくれよ。俺はここにいる。妄想でなければ死んでもいない。ここにいる俺は紛れもなく俺だ」


 低く伸びやかな声に、荒ぶる息が落ち着きを取り戻す。


 正門を両手で押し開く影があった。背が高く細身に見えるが、わたしは彼が人知を超えた密度の筋肉を隠していると知っている。わたしが短髪が好きだといったから襟足は無に等しく、前髪は額の中ほどで、耳はまるっと顔を出している。葬式の会場と間違えたとでも言わんばかりの黒装束に身を包んだ男が、青白さと濃い隈がコントラストを描く陰気な顔を歪めて不気味に笑っている。その姿は間違いなく、わたしの知る十六夜待雪だった。


「言っただろう、『迦楼羅ちゃんは僕が守る』って。もう昔のことなんて忘れちゃったかな?」

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