第二章※錆びた天秤〈スカーレットスケール〉

第11話 裸足に膝枕、嘘っぽい笑み

 生まれたときから、俺という人間は生きているのか死んでいるのか、わからなかった。何に触れても何をされても、どれだけ傷ついて血に塗れても何ともない。

 痛い、という感覚がわからなかった。味がしないのも温もりを感じられないのも構わない。目と耳で得られる情報だけでも十分に生きていける。とはいえ、自分の内から脈々と溢れる血を見ているとなんとなく死の予感がして苦手だった。

 それが濃くなる病院はもっと苦手だった。どこか虚構じみた自分の傷が具体性を以って命の危機を知らしめるからだろう。自分のためだと理解はしていても、医者は白衣の悪魔に見えた。

 お前は生きているように死んでいる。死んでいるように生きている。生きているのが不思議なくらいだ。奇跡としか言いようがない。どうして死なないんだ。可哀想に。生きている方が辛いだろう。悪魔の子だ。怪我をするたびにそう指摘されていたような気がする。場当たり的な治療こそすれ根本的な部分は誰も治しちゃくれない。

 どれだけ不便でも必要だと、どんなに異常でも才能だと、皆が宣う。当然、俺自身にさえ治せない。誰にだって、治せない。人は誰かの為に生きているのではなく、自分の為に生きているのだ。誰だって、自分が一番大切だ。

 だって、もう、俺は血の繫がった家族の顔さえ思い出せないのだ。

 生まれてこのかた、やはり俺の生は虚構じみていた。

 結局のところ何が言いたいのかというと、俺にとっての母は彼女であり、俺にとっての神は彼女であり、俺の生きる意味は彼女にあり、俺の存在意義は彼女にある。

俺の生は彼女――九頭龍久遠によって現実味を帯びて、成立している。

 皮肉なことに、僕は全てを失った後で、俺の全てを手に入れた。

 あの日、俺がまだ僕であったあの日、俺は家族と引き換えに、久遠の近くにいる権利を得た。


「……っき……ゆっきー!」


 誰かが俺を呼ぶ声が聞こえる。

 父さん? 僕、強くなったよ。

 母さん? 僕、大丈夫だよ。

 だから――久遠? 俺は、

「ゆっきー! ねえ、起きて、いや、いやだよ。死んじゃいや!」

 音響兵器の実験台にでもされているのだろうか。俺の家族は、4人? 一般的な女子高生4人分ぐらいの大きな声が至近距離で鼓膜どころか顔を叩いている。少なくとも、父さんの声はこんなものじゃない、ずっと低かったはずだ。恐る恐る目を開くとぼとぼとと水滴を落とす青い瞳があった。

 くしゃくしゃに顔を歪めて俺のを覗き込んでいるのは生粋の金髪を形のいい両耳の後ろから俺に向けて零す少女、渡貫千鳥だった。

「死なないよ、俺は」

「ゆっきー……!」

 くしゃくしゃに歪めて泣いていた顔が、くしゃくしゃなまま、笑った。

「ぶっさいくな顔」

「うっさいなあ……!」

「うるさいのはお前の方だ」

 メイクが崩れることも省みず、千鳥は顔をワイシャツの袖で擦った。涙も鼻水も纏めて拭ったせいで、グロスとシャドウが顔の側面に伸びている。

 空は暗くなっている。竹林ではないどこか別の場所に俺は横たわっているらしい。コンクリートを削るような硬い音に何かひびの入るような弱々しい音が重なった。俺の指が地面を削り、爪の間から血が滲んでいる。

 俺は千鳥の膝を枕にしていた。ネイルに彩られた手が、俺の手を握って地面から引きはがした。両手を胸の中に押さえられて文字通り手も足も出ない。

「無理しちゃダメ」

 身体の末端は微かに動く。だが上半身を起こす事さえままならない。迦楼羅の血脈の影響が残っているらしい。瞼は再び引き合って今にも閉じてしまいそうだった。

「……ここは?」

 瞼と格闘しながら問うと、向こう側には唇を噛んで仏頂面の千鳥が見えた。

「ウチがやってる会社の一つ。ここまで来れば、流石に追ってこないっしょ」

 舌打ちが零れた。たしかにここはビルの屋上で、空が曇って見えるのは町灯りのせいだろう。

 久遠の姿は見当たらない。

「追ってきてくれた方が、都合がいいんだけどね」

「ナニいってんの。あんなバケモノ相手に、こんな装備で」

 千鳥が脇に目を逸らす。そこには俺の背負っていたバックパックがあった。

 中に入っているのは、久遠の飲み物と少しの携帯食料だけだ。

 脚を曲げることさえ、ままならない。革靴のかかとが少しすり減っただけだ。

久遠の為に何も出来ない俺なんてただ生きているだけだ。

 嘘みたいに生きているだけで何も出来ない。

 今の俺は水とたんぱく質で出来たガラクタに等しい。

「……ねえ」

 迦楼羅は俺を好いている。故に、下手な攻撃はできないと高を括っていた。そうでなくても未だ現当主である久遠の父親が存命であることを考慮すれば、久遠が殺されることはないと踏んでいた。

 死なない久遠と痛みを感じない俺。超回復と超身体能力でも、一般人の延長線上にある能力だとしても、二人一緒なら最強にだって成り得る。

 全てが甘かった。

 出会ってしまったら最後、二人揃って無力化されてしまった。

 あるいは、もう殺されてしまっただろうか。

 ――久遠。

 俺はもう二度と、生きられないのだろうか。

 ――久遠っ。

 俺はもう一度、死んでしまうのだろうか。

 ――久遠!

「ねえ、キモイんだけど」

 いや、まだだ。参加者の人数が減ったのなら、連絡があるはずだ。ああ、駄目だ。俺は久遠の武器であって、参加者ではない。だが、諦めるのはまだ早い。迦楼羅のことだ、久遠が死んだのなら、そのアピールの一つや二つ、あってもおかしくない。ラブメールの一つ二つ、届いても不思議ではない。仮に、仮に久遠が死んでしまったとして、俺のやるべき事はなんだ?

 身体は上手く動かない。指先一つ動かすのに苦労する有様で、意識を保つことさえままならない。生きているのなら、俺は久遠の元に急がねばならない。死んでしまっているのなら、俺は久遠の仇を打たねばならない。きっと久遠も、そういうはずだ。俺はいつだって、久遠の為に生きてきた。

 いずれにせよ、今の俺は、無力だ。

 久遠がいなければ何もできない。

 痛い。

 痛まないはずの胸が、痛い。

「泣くのか笑うのか、ハッキリして」

 気が付くと、ネイルに彩られた両手が俺の頬に伸びていた。千鳥は俺の頬を流れる涙を拭ったらしい。そのまま頬が上に引き延ばされる。ぐいぐいと、笑顔を作られる。

「どうせなら、笑いなさいよ」

 俺から離した手を今度は自らの頬に添え、持ち上げた。無理矢理に作った笑顔なのに、誰かと違って嘘っぽく見えない。お前だって泣いている癖に。それがいかにも千鳥らしくて、これが夢でなく現実であると実感し、今にも胸が張り裂けそうだ。

夜空から近づく何かがあった。眩い光が俺たちを照らし、降りてくる。

「よかった……やっと、来てくれたぁ」

 一台の白いヘリコプター。その側面には〈渡貫病院〉とあり、それが千鳥の呼んだ迎えであることを理解した。ヘリのライトと逆光の中を、一つの影が一閃した。未だ空に浮いたままのヘリから、何者かが飛び降りて近づいてきていた。

 千鳥は安心しきったような笑みを浮かべ、揺れる。

 ふらり、と。少女どころか大の男4人分の力を秘めていても何ら不思議でない身体から力が抜ける。水溜まりを鳴らしたのは血だまりを踏み抜いた足で、踏み抜いたのはヘリから降りた影で、血だまりは千鳥を中心に広がっていた。よく見れば千鳥は裸足で、裂けた服から血の滲んだ包帯が覘いている。

 千鳥を支えた影の正体には見覚えがあった。

「こんばんは。お兄さん」

 それは手本のような余所行きの――嘘っぽく歪められた笑みだった。

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