第2話 亀裂

「海外に出張になった」

 騒ぎがあった何日か後に、彼が言った言葉に、リエは呆然として、花瓶を落としそうになっていた。

「それ、断れないの?」

 それは彼女の最初のわがままだった。だが、彼は首を横に振ったのか、彼女の、どうしたら、と言う声が悲痛に響いた。

「あなたがいなくなったこの家に住んでいるのもおかしいじゃない?」

 彼女はこの家を離れ、夫についていこうとした。だが、彼は拒否した。

「僕はこの家を、庭を愛しているんだ。ここにいてくれ」

 彼の想いと、子どもたちのために彼女はこの家に残ることを決めた。だけど彼は、私を連れて行ってくれた。いつものように本の間にさっと挟んで、連れて行ってくれた。どこへいっても庭を寂しがる彼を、私は癒し続けた。

「今日仕事で褒められたんだ」

 そんなようなことを飽きずに伝えてくれる彼を抱きしめたくてたまらなかった。私にそんな手はないのに。彼は返事が無くても、どんどんと仕事の話を続ける。そのうち、涙声に変わっていった。

 子供たちに会いたいのだと言って泣く彼は、とても痛々しく、私は彼との子供が欲しいな、と思ったが、それは彼に届かないとしても声に出すつもりすらなかった。


「ただいま!」

 久しぶりの帰郷、少しだけの滞在だったが、彼は私を連れて愛する家に帰った。

「おかえりなさい!」

 はしゃぎまわる子供たちにキスを落としながら、彼は彼女の姿を探す。彼女は白い台所から出てきた。

「おかえりなさい」

 そう言って、彼女は彼らが食べきれないほどの料理を食卓に並べた。

「こんなに食べきれないよ」

 笑いながら食べ続け、その大量の料理が彼らの胃に入ったことを確認して、彼女は満足げに胸を張っていた。

「前よりより一層美味しく感じたな」

 そう言うと、彼女はぱっと顔を明るくさせる。

「料理教室に通い始めたのよ」

 自分の努力を認めてもらえた人はこんな顔をするのか、と私まで幸せになるような笑顔を向ける彼女に、私は羨ましさも感じていた。

「庭、手入れしてくれたんだね」

 ありがとう、と言う彼に、私はどんなに叫び掛けたかっただろうか。庭を荒らした彼女に、とんでもない憎しみが沸き上がる。もちろん、彼女は庭をちゃんと手入れしてくれていた。私にとっては荒らした、ということだ。

 彼も少しそう感じていたのか、ほんの少しだけ苦い顔をしていたのに、有頂天になっている彼女は分からなかったようだ。

「ねえ」

 庭でのんびりとする彼に問いかける。

「今、あなたは幸せ?」

 彼は私を見た。

「幸せ、だと思うよ」

 そう言って、そっぽを向いてしまう。何でそんな意地悪をするのだ、というような子供っぽさを感じて、私は続けて話しかける。

「彼女はあなたのことを何も分かっていないのね」

 彼はさっとこちらを見た。

「うるさい」

 そう言うと、私を置いて家の中に入ってしまった。

 そんな彼を追うように、奥さんの声が聞こえてくる。いつものことなのに、なぜか私はいらっとしてしまった。


「最近どうした?」

 彼が奥さんに言う言葉が聞こえる。

「何もないわよ」

 そう言っている奥さんの表情はとてもぎこちないものになっているのだろう、と考えると、それは私の活力になった。

「もっと」

 そうして私は薔薇の匂いを必死に奥さんに届け続ける。

「もっと」


 彼の部屋に溢れるほどの薔薇の花を送った。私はとっくに狂っていたのだろう。彼に本の間に挟まれ、私は彼にどうしようもなく惚れてしまったのだ。

「ねえ、今日は奥さんの様子、どうだった?」

「なんでなんだ……」

 頭を抱える彼を見て、私は抱きしめたくなってしまう。だが、それはかなわなかった。

「ねえ、私を選んでよ」

 そう言っても彼には届かない。何も、彼には届いていなかった。

 彼は次の日も、その次の日も考え込んでいた。

「仕事……」

 そう言って彼は外へ向かった。いつまでもここにいればいいのに、奥さんと子供を守るために、彼は椅子から立ち上がる。それが私には我慢ならなかった。

「ねえ、休んでしまいましょう?」

 彼が動きを止め、私は有頂天になる。

「ねえ、私の声を聞いてよ」

 そう言っても、彼は足を動かしてしまう。

「ねえ」

 その声が、届くことは無かった。


 次の日、彼は離婚した。

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