追いかけっこ・後

「な……な……なっ……」


 これは夢か、はたまた幻想なのか。一体自分は何を見ているのか――『帰らずの森』の中でへたり込みながら自身の周りを取り囲む存在を眺め続けるヨーク・バルートは、自分の目に映る光景が信じられなかった。当然だろう、彼の周りでは現実には信じがたい事態が起きていたのだから。


「「「「「うふふ……♪」」」」」


 彼の周りを取り囲みながら嬉しそうな声をかける群衆は、全員揃って寸分違わぬ同じ姿形をしていた。長い緑色の髪、整った美しい顔つき、抜群のスタイルの肉体、たわわに実った胸、そして純白のビキニアーマーと言う衣装に至るまで、美女たちは何もかもが全てセイラ・アウス・シュテルベン――この森に追放された元・聖女候補と同じだったのである。

 頭からつま先まで寸分違わぬ存在が無尽蔵に現れ、自分に笑顔を見せている。しかもそれがビキニアーマーから裸体を見せつける美女――湧き上がる欲望を叶えるためだけに生き続けていたヨークにとって、それはまさに天国のような光景であったはずなのだが、肉体的、精神的に散々痛めつけられた今の彼には目の前の状況を信じる事に恐怖しか感じられなかった。


「わ、わ、私は……私は夢を見てるんだ……」

「「「「「「あら、夢ですか?」」」」」」


 楽しそうに尋ねるセイラたちに対し、ヨークは早口で自分の考えを必死に述べた。今自分が見ているのはきっと悪夢なのだ、と。全身を走る痛みも、目の前の美女たちに感じる恐怖も全ては幻想、きっとこのまま眠ってしまえば全ては解決する、と語る彼は、周りを包む恐怖を遮断するように目を瞑って横になった。そしてそのまま懸命に空いびきをかき、現実逃避を図ったのである。強く目を瞑りながら眠ろうと必死に努力する肥え太った男の様子は、周りを取り囲むセイラがつい噴き出すほどに滑稽なものだった。そして、それはどう足掻いても無意味な行動であった。


「「「「「「うふふ、ヨーク様♪」」」」」」」

「やかましい!!私は寝ているんだ……ぐーぐー!ぐーぐー!」


「「「「「「「「ヨーク様♪」」」」」」」」」

「静かにしろ!!静かに……」


「ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」ヨーク様♪」…


 やかましい、と言う叫び声を響かせた彼は、苛立ちのあまり瞑っていた眼を見開き上半身を起こした。そして次の瞬間、彼の顔は真っ青になった。周りを取り囲む純白のビキニアーマーの美女の数が明らかに増えていただけではない。彼女たちの顔が、今にもヨークの脂ぎった顔に当たりそうなほどに近づいてきたのだ。楽しそうな満面の笑みを見せながらゆっくりとその顔を間近に迫らせる彼女たちを目の当たりにしたヨークの心に感じたのは、豊かな胸を持つ半裸の美女に迫られるという快感ではなく、無数の美女の姿を借りた『何者か』の餌食にされるかもしれない、という底知れぬ恐怖だった。


「ひ、く、く、来るな……来るな……!!」


 最早寝たふりをする心の余裕すら失われていた彼は、後ずさりをしながら次々に増え続けていくセイラの大群から逃げ出そうとした。だが、そんな彼を弄ぶかのように、歩幅を合わせて同じ速度で彼女たちも追いかけ続けた。彼の名前を呼び続ける声も途切れる事無く響き続け、ヨークの心を蝕み続けた。そして――。



「ひ、ひぃぃぃぃ……っ!」


「「「「「「「「ヨーク様、貴方はもう――」」」」」」」」


 ――逃げられませんわ。


 笑顔を崩さぬまま、一斉に告げたセイラの宣言が、ヨークの精神、特に目の前に迫り来る『恐怖』に耐え続ける心が限界に達した事を告げた。

 

「う、う、うわああああああああ!!!」


 絶叫と共にヨークは立ち上がり、一目散にセイラが囲む場所から尻尾を巻くように逃げ始めた。限度を超えた恐怖が、立ち上がる気力すら失われたはずの彼の体を動かしたのである。そして、そのまま彼は大声をあげながら漆黒の森の中を走り出した。全身に襲い掛かる疲れや痛み以上に、彼の心は自分の身に降りかかろうとする絶望や破滅の方がより恐ろしいと判断し、その肥え太った体を全力で動かしていたのである。最早彼の中にはセイラ・アウス・シュテルベンという存在に対しての憎しみや苛立ち、そして下劣な想いなど完全に彼方へ吹っ飛んでいた。ヨーク・バルートにとって、セイラは恐怖の対象に成り代わっていたのだ。


「た、助けてくれええええ!!!!」


 大声で喚きながら森の中を逃げ出す彼は、自分の周りで不自然な出来事が起きている事など気づく余裕は一切なかった。まるで彼が懸命に走り続ける事が出来るように、『帰らずの森』を構成する漆黒の樹木が次々とその幹や枝を動かし、1本の道を作り出していたのである。しかもその道には木の枝や木の根のような障害物は一切取り除かれ、どこまでも彼が走り続けられるようにがなされていた。そして、大粒の涙と大量の鼻水、そして口から放たれる涎をまき散らしながら走り続ける彼の耳には、容赦なくその恐怖を駆り立てる声が響き続けていた。


「「「うふふ、ヨーク様♪」」」

「「「「頑張ってください♪」」」」

「「「「「どこまで走り続けられますかね♪」」」」」

「「「「「「楽しみですわ♪」」」」」」


 まるで懸命に走り続ける挑戦者を応援するかのように、道の両側にある漆黒の木々という木々の陰から、純白のビキニアーマーのみを纏う緑色の長髪の美女が絶え間なく顔を見せては、一斉にヨークへ応援の言葉をかけていた。その愉快そうな声は彼がいくら耳をふさいでも延々と響き続け、楽しそうな微笑みは幾ら目を反らそうとも必ず視界へ入り続けた。しかも走れば走るほど、セイラの数は次々に増えに増え続けた。気づいた時には、ヨークの両隣に並ぶのは漆黒の木々ではなく、純白のビキニアーマーからたっぷりと裸体を見せつける『破廉恥』で『卑猥』、ヨーク・バルートが本来持っていたはずの欲望を存分に刺激する衣装を身に纏う大量のセイラ・アウス・シュテルベンになっていたのである。

 口々に彼の名を呼び笑顔を振りまく美女たちがあの時宣告した『逃げ場がない』という意味を嫌というほど知らされてもなお、彼は走り続けた。いや、最早走り続けざるを得ない状況となっていた。今や彼に残された行動はそれしか存在しなかったのだ。そして、それを証明するような光景が、彼の背後で繰り広げられていた。一瞬だけ正気に戻り、背後を振り向いた彼はすぐさま顔を前方に戻し、喉が張り裂けそうなほどの絶叫を森の中に響かせたのである。何故なら――。


「うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」うふふふふ♪」…



 ――ヨークの逃げ道を奪うかのように、数えきれないほどのセイラが豊かに実った胸を揺らしながら、満面の笑みを見せて彼を追いかけ続けていた事に気づいてしまったからである。彼女たちがわざとヨークに追いつかない程の速さで走り続けていた事など、今の彼に気づく余地など全くなかった。


「うぎゃあああぁぁぁぁあああああ!!!」


 最早悲鳴が『悲鳴』ではなく喉から出てくる『音』になり果てた哀れな男は、セイラ・アウス・シュテルベンと言う存在に弄ばれるかのように逃げ惑い続けた。既にその体の各部は長時間走り続ける事に対しての限界を示していたが、まだ最後に残された心の希望――逃げ続ければいつかはこの恐ろしい光景も終わるかもしれない、と言う儚い願いが、彼の体を懸命に動かし続けていた。

 だが、それも終わりの時が来た。ヨーク・バルートは突然当たった柔らかい何かに激突し、倒れこんでしまったのである。言葉にならない声を発し、そのまま倒れこんでしまった彼の肥え太った体は、突然空中へと浮かび上がった。いや、整った形をした巨大な『手』が、そっと彼の体をつまみ、その体を天高く持ち上げたのである。ゆっくりと自身の体が上昇していく過程で、ヨークの瞳は漆黒に包まれているはずの『帰らずの森』が、緑色や肌色、そして白色――セイラ・アウス・シュテルベンを構成する主要な色で覆いつくされている光景を目の当たりにした。森の中で増えに増え続けたセイラの数は何百、何千、いやそれ以上にまで及ぼうとしていた。森の隅々からヨークを見つめ、愉快で楽しそうな表情を見せる無尽蔵のセイラから聞こえる大量の笑い声が、最後まで彼を動かし続けていた『心』を侵食していった。


 そして、つまみ上げられた彼の体は、柔らかい地面のような何かの上にそっと置かれた。そこからは、傷だらけ、血だらけ、屈辱だらけのヨークの肉体をやさしく包むような暖かさが溢れていた。そして、そこから放たれるほのかな『光』は、まるでヨークのズタズタになった心身を癒していくかのようであった。少しだけ気力が戻った彼は上半身を持ち上げ、自信を囲む状況を確認しようとした。そして、彼の視界いっぱいに入ったのは――。


、ヨーク様♪」



 ――ヨークを遥かに凌ぐ大きさを持つセイラの美貌だった。肥え太ったその体を閉じ込められそうなほどに巨大な左眼を閉じ、可愛げにウインクをするその『顔』に驚愕の表情を見せたまま横を向いてしまった彼は、自分自身がどのような状況に陥っているのか、僅かに残された気力で把握してしまった。ヨーク・バルートの体が乗っている柔らかい地面のようなものは、肌色の樹木のように聳え立つ5本の指に囲まれた、あまりにも巨大すぎるセイラの美しい『掌』だったのである。


 走りに走り続けたヨーク・バルートが辿り着いたのは、『帰らずの森』を覆う漆黒の巨木たちよりも何倍も、何十倍も巨大な姿になったセイラ・アウス・シュテルベンの掌の上だった。天に届きそうなほどに高い背丈、人間など呆気なく潰してしまいそうなほどの巨大な脚、体に合わせて途轍もないサイズに膨れ上がった柔らかい胸、そして全身をわずかに包み込む純白のビキニアーマー――『逃げ場はない』という言葉が示す本当の意味を、ヨークは最後に残された『心』で認識した。



「あ……あ……あ……ああああああああああああああああああああ!!!!!!」



 そして、唾液や血を巨大なセイラの掌の上にまき散らしながら絶叫したのを最期にヨークは倒れこみ、そのまま意識を失った。掌から暖かな『光』が注ぎ込まれ、その肉体を回復させようとしても、巨大なセイラにその体を指でつまみ上げられても、彼は一切の反応を示さなかった。


「「「「「「「「「「「あらあら……全く……♪」」」」」」」」」」」」


 そんな彼の姿を見て、セイラ・アウス・シュテルベン――巨体を持つ彼女ばかりではなく、『帰らずの森』を果てしなく覆いつくす無尽蔵のセイラたちは、一斉に呆れの表情、憐みの目線、そして同情の笑みを見せた。度重なる恐怖、常識を逸脱した出来事、そして自身に向けられるセイラ・アウス・シュテルベンという名の狂気の前に完全に崩壊した彼の心がもう二度と回復する事は無い事を知っていたからである。

 ヨーク・バルートを始めとする宗教幹部たちによって純白のビキニアーマーを纏わされ、日々こき使われた結果、その日々の生活に疑問すら感じることがない程にまで心を壊され、女神エクスティアの力をもってしても回復に半年以上を費やすほどの状態にまでさせられたのは、他ならぬセイラ・アウス・シュテルベンその人だったのだから……。

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