第17話 

 大小の刃が雨霰と降りしきる中、碧が泰然と燃えていた。

 圭吾が大きく動いたのに対し、風狼斎は攻撃が始まる前と同じ場所に佇み、森の奥の一点を眺めている。

 灰色の刃が前後左右から途切れることなく襲いかかるのは同じだが、それらは全て、風狼斎に近づくと碧に煌めき、元の姿に戻っては落ちていく。

 解呪された木の葉と木の枝が降り積もった足元は見えないが、刃が突き上げている様子はない。

(金属性の妖気を解呪している……? いったい……、どうやって……)

 左手の木刀は先ほどと同じ、ぶらりと下げられたまま構えてさえいない。刀身が碧に灯っているが、何らかの術を使っている気配はなく、碧風も凪いでいる。

 残るは霊符だが、空いている右手は開かれていて何も持っていない。

(まさか……?)

 ごくりと喉が鳴った。

 ――霊気のみで……?

 天狗や霊獣は常に霊気に護られている。霊格が高くなればなるほど霊気の護りは強まり、臨戦態勢に入れば防御力は跳ね上がる。霊格に差があれば、霊気だけで術の中和や解呪、刃を弾くこともできなくはない。

 だが、相克の妖気によって紡がれた術を解呪するほど強力な霊気などと、聞いたことがない。

「…………圭、」

 一度大きく息を吐き、静かに風狼斎は口を開いた。

「いつも言ってたよな。『供に連れていけ』って」

 こちらに背を向けているので、表情は見えない。

 だが、太常越しに伝わる霊気はいつになく真剣で、思わず居住まいを正した。

「お前達が不満を募らせているのは知っていた。現まで来たってのに、務めを果たせねェんじゃ、当然だろう。だが……、どこに『奴』が潜んでいるのかわからねェ現状だ。戦場にしろ外出にしろ、オレの傍にいれば、いつかはこの姿を見ることになる……」

 風狼斎は体ごと振り向き、小さく息を吐いた。

「ッ!?」

 押し止められていた何かが鉄砲水のように押し寄せたと思った時には、背に太常の霊気と硬い膜の感触が当たっていた。無意識に体が退いたのだと遅れて気づく。

(何が……、起きた……!?)

 顔を上げて言葉を失う。

 太常に押し当てた背を大量の汗が伝った。

 そこにいたのは風狼斎であって、風狼斎ではなかった。

 碧の瞳は炎のように揺らめき、全身から立ち上る霊気が碧風へと変わり、守護者のように周りを渦巻いている。

 絶えず降り続いていた刃の雨が碧風に触れるなり碧の粒子に換わって消滅していく。

(あれは……、誰だ……?)

 御三家の嫡流?

 狼の霊筋?

 目の前にいるのは、そんな枠組みに当てはめることが馬鹿馬鹿しくなるほどの、強大な何か――、少なくとも自分達と同じ存在とは思えない。

「ッ……」

 太常越しだというのに、威圧感に息が詰まり、体がガタガタとみっともなく震え始めた。手から刀が滑り落ち、立っていることもできず、その場に崩れ落ちる。

(怯えているのか……? この俺が……?)

 修行で、任務地で、戦場で。

 死を覚悟したことも、負傷して生死の境を彷徨ったことも、一度や二度ではない。

 とうの昔に、恐怖や怯えなどと棄てたと思っていたのに――!

「……わかってくれたか?」

 碧の瞳が寂しげに笑った。

「今、何を考え、思ったとしても、恥じることはねェし、咎めるつもりもねェ。オレの護衛や直属の部下が御三家の直系や特定の霊筋から選ばれる所以だ。それでも慣れるまでに調整が必要だってのに……。いくら混乱の真っただ中だったとしても、説明もなしに初顔合わせで護衛させようなんて……、当主殿も随分とキツい任務を与えたもんだな……」

 最後は呆れと憐みが入り混じっていた。

 この青年にとって、何の縁もない天狼の護衛部隊員を配下として受け入れることが、どれだけあり得ない異常事態だったのか――、垣間見た気がした。

「オレの力に耐えられる素質があっても、実際に目にして逃げちまったヤツは大勢いた。『護衛対象に怯えて任務放棄』なんてことになったら、お前達、自刃しかねねェからな……」

 苦笑交じりの言葉に、冷水をかけられたように頭が冴えた。

(つまり……、俺達が選ばれたのは……、)

 当主の幼少期に結成される護衛部隊の中において、圭吾達は跡目争い開始直前期に入隊した若輩組だ。

 単独の任務を任される程度に信頼されてはいるが、突出した実績があるわけではなく、当主から直接声をかけてもらえる機会など数年に一度ほど。他の継承権者の暗殺を成功させて隊長に取り立てられた者や、護衛部隊結成当時からの古株に比べると、捨て駒に近い存在だ。

 しいて言えば、四人とも力のある分家出身だが、実力主義の護衛部隊では家柄などとさほど意味がない。

 だが、あの時、当主は最初から目星を付けていたように、自分達四人を迷うことなく指名し、直々に命を下した。

 選抜理由は知らされなかったが、おそらく、当主は圭吾達に何らかの「素質」を見出していたのだろう。

「班……、長……っ」

 喉に入り込んだ破邪に咳き込み、口元を押さえた。

『命令だ。耐えられなくなったら退け。いいな?』

 あの言葉の意味が、今ならばよく分かる。

 「耐えられなく」なるのは、妖獣の攻撃ではなく、臨戦態勢に入った風狼斎への恐怖――、圭吾が恐れのあまり我を忘れて逃走する可能性を見越しての命だったのだ。

 先に命が出ていれば、「臆病な逃走」は「主に従った退避」であり、班員も鞍馬の他の宵闇も圭吾を責めることはない。そして、圭吾自身も自らを納得させられる――。

 ――なんという御方だ……

 ほんの数刻前までの自分が、あまりにも小さくて愚かに思えた。こんな事態など、今の今まで想像すらしなかった。できなかった。

 この青年は、護衛部隊どころか、天狼軍が束になっても敵わない化け物を、何度も単騎で蹴散らし続けてきた英雄だ。

 少し考えれば、気づく機会などいくらでもあったというのに――!

「気づき始めているかもしれねェが、コイツは獣の仕業じゃねェ。状況を見る限り、現で起こる妖変としちゃ最凶級……、ここまで来ちまったら、お前の霊格でも厳しいだろう。戦いの間は太常内にて待機。自分の身を護ることに徹しろ――、命令だ」

 言葉を発したかったが、破邪にやれた喉から音は出なかった。

 代わりに、深く頭を垂れた。

(獣でなければ……、いったい何が……)

 森に到着してから、違和感をずっと抱いていた。

 霊獣を基にした妖獣が奥羽の主力全員に幻術をかけて操るなどと、「奴」が絡んででもいない限り、一介の妖獣にできるはずがない。

 だが、獣でない「妖獣」などと存在するのだろうか――?

(班長には、「妖獣」の姿が見えておられる、ということか……)

 風狼斎の傍で同じ場所を歩き、同じ景色を見てきたというのに、未だに妖獣の正体を掴めていない圭吾では、足手まといでしかないだろう。

 これほどまでの差を見せつけられれば、反抗心など欠片も沸いてこない。

 先ほどの体たらくでは、待機命令もしかたがないだろう。

 だが――!

 握り締めた両の手が震えた。

(なんと……、なんと、不甲斐ないのだ……!)

 あれほど、毎日のように供を申し出ておいて――!

 いざ妖変を鎮めようという時に、主を守るどころか、自らの防御で手いっぱいなどと、あまりにもお粗末すぎる――!

「今後の話は後で聞く」

 風狼斎は先ほどから眺めていた森の奥へと向き直った。

 有無を言わさぬ口調に何も言えず、その背を見つめた。

 急激に膨らんだ碧風が森の中を縦横無尽に吹き抜け、宙を舞う刃だけでなく、木々からも妖気を祓い落としていく。

 風の中心で、漆黒の装束をなびかせた青年が軍勢を指揮するように静かに木刀を掲げた。

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