第11話 

 あれはまだ、主君が「天狼当主」ではなく、「継承権者」だった頃。圭吾が護衛部隊に入隊して数年が過ぎた頃のことだった。

 深夜、警笛が屋敷中に鳴り響いた。

「逃すな! 必ず殺せっっ!」

 部隊長の号令に隊員達が猟犬のように散っていく。圭吾もまた、黒い霧に包まれた庭園を駆けまわっていた。

(ついに始まったのか……!)

 天狼一門の跡目争いが。継承権者同士の血で血を洗う潰し合いが。

 ならば、覚悟を決めなければならない。

 この跡目争いは非情な戦だ。一切の温情はなく、情けをかけた者から死んでいく。他の継承権者とその配下を徹底的に潰し、自らの主君を当主の座に着かせる他、生き残る道はない。分家である実家もまた、それを望み、再び迎え入れてくれるのは、凱旋か死体になった時だけだ。

 霊気も姿も眩ませる霧の中に、微かな呪物の匂いが混じった。この幻術の術者が近くにいる。

(そこか……、呪物ごときで逃れられると思うな……)

 気配を断って近づき、刃を繰り出した。

 ――死ね……!

 重い手ごたえが手に返った。

 深々と突き立てた刃が肉を貫き、背後の硬い幹に食い込んで止まった。

 白く光る刀身から霊気が立ち上り、破邪が呪物の力を切り裂く。

(な……に…………?)

 露わになった「刺客」の姿に息を呑んだ。布の隙間から覗く緑の眼は天狼では珍しい。刺客の男もまた、驚愕した表情を浮かべていた。

「圭……吾……?」

「兄上……?」

 震える手が顔を隠していた布をむしるように取った。

 久しぶりに会えた兄の顔には、くっきりと死相が浮かび、もう助からないことを告げている。

「腕を……上げた……な……」

 緑の瞳が懐かしそうに細められた。

 ――これは……、悪夢か……?

 目の前にいる兄の顔も、自分の手が握りしめている刀の感触も、遠ざかっていく。

 夢であってくれることを、ただ願った。

「おま……え……、なぜ――」

 緑の眼が穏やかに笑った。幼い頃と同じように。

 血まみれの手が伸びた。

 頬に触れる温もりと強烈な血の臭いが、これは現実だと告げた。だが、感情はまるで追いつかず、ともすれば叫び出してしまいそうな自分を押さえるしかできなかった。

「―――――――」

 ずるりと手が滑り落ちた。

 半ば見開かれたままの瞳は暗く沈み、もう何も映していない。

「兄上……、なぜ……っ」

 聞いたことがないくらい声が震えた。

 部隊長が声をかけてきたが、耳に入ってこなかった。

 ――なぜ……、ここに来られたのですか……!?

 どうして、想像できただろうか。

 母も後ろ楯もなく、父が望むままに戦闘訓練に明け暮れるしかなかった自分を、唯一、弟扱いしてくれた異母兄を、この手で殺める日が来るなどと……。



「なぜ……、私を殺したのだ……?」

 身を起こした男は兄と同じ顔をして、同じ声をしていた。

「あれほど……目をかけてやったというのに……」

 幽鬼のように青白い顔をし、狩衣を自らの血に染めた兄は血が滴り落ちる刀を手にしてる。まさに、地獄から報復のために戻ってきたかのような姿に背筋が凍りつく。

「兄上……ッ」

 恨みに満ちた眼に後ずさり、血が溢れる腹を抑えた。

 集中しても、乱れた霊気では思うように傷が塞がらない。黒い装束に温い染みが広がっていくが、それさえ遠い。

「私が……、父上に推してやらねば……、お前のような忌み子……、有力者に仕えることなどできなかったものを……っ」

 天狼当主の代替わりでは必ずと言っていいほど跡目争いが起こる。

 継承権者が多い天狼では、継承権を持つ兄弟、親族間で骨肉の争いが繰り広げられ、暗殺の刃をかいくぐって生き残った者が次期当主となる。

 穏便に後継者を決める太狼や幻狼と異なり、天狼は権力闘争や粛清、暗殺によって最後の一人になるまで潰し合う。天狼が「血塗られた一門」として恐れられている所以だ。

 そのため、分家の当主は正妻以外とも多くの子をもうけ、見込みのある継承権者に自らの子弟を送り込む。圭吾のような身分の低い側室の子であるばかりか、曰く付きの子供は、力の弱い継承権者の元に、万一の為の捨て駒として送り出されるのが常だ。

「……お前が、殺されていればよかったのだ……!」

 緑の眼が憎しみと怒りに輝いた。

 振り下ろされた刃をかろうじて受け止める。

「……わかって……、おります……」

 あの時のように声が震えた。

 敵対する継承権者同士に兄弟姉妹が分かれ、鉢合わせてしまうのも珍しくない。斬り捨てた刺客が兄弟だったという話も、護衛部隊ではよくある話だ。

 だから――、送り出される時、兄とは決別の挨拶を済ませた。戦場で出遭った時は一切の情を捨て、笹貫家の者として恥じない戦いをしようと。固く約束して、家を出たはずだった。

 それでも、兄にだけは出遭わないことを祈らずにはいられなかった。仮に遭うようなことになれば、自分が斬られようと――。

「今、ここに在る俺は、兄上のお力添えあってのこと……。俺を斬ることで、兄上の魂が満たされるのならば、甘んじてお受けしましょう……」

 刀に霊気を込めて払い、力の限り突いた。

 あの夜のように――。

「お前が……! 本物の兄上ならばな……!」

 狩衣の胸の真ん中を貫いた刃が白く光り、兄の姿を切り裂いた。手に蘇る生々しい感触を押さえ込んで霊気を込める。

「消えろ……!」

「圭吾……、貴様……! 一度ならず、二度も……! この兄をぉ……!」

 恨みに満ちた断末魔を耳から追い出し、刃を薙いだ。

 幻影が妖気へと変わる寸前、ギロリと睨んだ緑の眼に大量の汗が伝った。

「……妖獣風情が……、舐めた真似をしてくれる……」

 周りはまだ屋敷の庭園を映している。

 刀を持つ手が怒りに戦慄いた。

「汚らわしい……ッ」

 押さえつけてきた感情のタガが外れていく。振りかざした刀から白い光の塊が生じた。

“刃よ……”

 百近い刀身が出現し、周囲へ飛び去った。

 闇の中に吸い込まれて消えた刃の先には悲鳴はおろか、何かを貫いた気配もない。

 舌打ちして再び刃を翳し――、咄嗟に身を捻った。

 背後から飛来した十を超える白い刃が脇腹を貫通して飛び去った。かわすのがあと少し遅れていれば、急所を貫かれていただろう。

(おのれ……どこから撃った……?)

 襲撃者の姿はなく、新たな攻撃もない。

 幻影に斬られた腹と、刃が貫通した脇腹と。霊気を集中しているのに血が止まらないのは、妖気のせいだろう。

 木々がざわめき、周囲で妖気が膨れ上がった。襲撃者に備え、刃を握りしめる。

 止血できない現状では、長期戦は厳しい。

(一撃で終わらせてくれる……)

 気配が動いた。

 前方に巨大な大樹が出現する。

(あれは……、)

 ドクリと鼓動が跳ねた。

 ――兄上が……、果てた大樹……

 ぞわりと殺気が渦巻いた。度し難い怒りに傷の痛みが消えていく。

「この期に及んで……!」

 腹と背中から血が溢れて散った。

 視界が暗くなるのも構わず、渾身の力と霊気を込めて刃を振り下ろす。

「消えろっっ」

 重たい音が響いた。

 刃は大樹に触れることなく、宙で止まっている。何らかの力が働いているのだろう。

「っ……、おのれ……、妖獣が……!」

 灰色の霧が動き、再び狩衣を形作っていく。耳を滑っていく音がやけに耳障りで仕方ない。

――黙れ……! 黙れえぇっ……!

 ふと、涼やかな風が頬を通り過ぎた。


「眼ェ開けろ、圭!」


 眼前で碧が弾けた。

 強烈な一喝と共に、碧風が全身に吹きつけた。

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