その花園にあの子が踊っていた

咲倉露人

本編

 飛び降りた白川雅の遺書には、これまで自分を大事に育ってくれた両親と部活の仲間たちへの詫び以外には、ほとんどなにも綴られていなかったので、両親も部活の友達も、彼女がどうして自殺したのか分からないままだった。

 死体の第一発見者は、園芸部の女子生徒だった。白川雅が飛び降りた時、その体は奇しくも園芸部が管理している花壇に直撃した。園芸部が大事に愛情を注いで育てたシオンの花は、無残にも死体の下敷きになり、下敷きになる運命から免れた花も、血で気味の悪い黒色に染められて展示できなくなった。

第一発見者の女子生徒は、朝に花壇の手入れをしに来た。彼女の悲鳴を聞いた先生たちが駆けつけてから、すぐさま登校してきた生徒たちが集まったが、死体が運び出されると、それまでの人だかりが一瞬で散り、現場には死体の輪郭に沿って描かれた不気味な白い線だけが残された。

 白川雅の死は自分のせいだ。小山実栗は雅の死を受け、部屋に何日間も引きこもっている時間を利用してその結論を導き出し、今でもそう確信している。

白川さんってどんな子なの、と幼馴染の雅について、一度演劇部の先輩に聞かれたことがあった。その頃の実栗は、とにかく部内での自分のイメージを維持することに必死で、ありのままの醜い自分を隠さずにはいられなかったので、その時に思いつける雅の良さを無理やりに引っ張り出し、

 「まあ、いい子ですよ、雅は。優しいし、真面目です」

 と答えた時に、歯痒さとも悔しさとも言えないどっちつかずの気持ちを感じたし、ある種の安心感も覚えた気がした。先輩が納得してくれたので、その安心感が一瞬だけ満足感に昇華したように仄かに感じてしまったから、その日はそのあとずっと後ろめたさで顔が引き摺っていたと実栗が思う。

 「部活もう決めた?あたしは、実栗と一緒の部活がいいな」

と雅が言ったにも拘わらず、演劇部に入部したことを、雅には黙っていた。雅が嫌いだからではない、と実栗は自分に何回も言い聞かせた。実栗はただ、幼馴染だから何でも一緒にしなければいけないという押し付けから、少しぐらいのプライバシーや解放感が欲しかっただけだと思う。雅を裏切った自分には罪悪感を覚えないわけではない。実栗はまだ幼馴染との友情をすっぽかして知らん顔ができるほど堕ちていないつもりだ。しかし、雅がいないグループにいて、雅と違う人たちと仲良くなることの贅沢さに、実栗はノーと言えなかった。

自分がいたいグループに受け入れてもらうためなら、周りにはいくらでも媚びて愛想笑いをすることができるし、いくらでも偽りの自分を演じることができる。それが実栗の信条だった。それでしんどい思いをしたこともあったが、それでも雅がいない演劇部で過ごした時間は、実栗にとってはまるで天国で過ごしている日々のようだった。勉強以外の時間はほぼ全て部活のために費やしたし、他の部員と週末に一緒に遊んだりもした。SNSに写真を載せる時には雅に気づかれないように注意を払う必要があったが、放課後みんなで一緒に寄り道してタピオカを買いに行った時に撮った写真が、他の部員のSNSに投稿され、自分の名前がタグ付けされて日の夜、実栗は自分のベッドで何度もそれを見てにやけていた。

「実栗ちゃんってめっちゃいい子だね。入部してくれてよかったよ、本当」

と先輩に言われたときには嬉しさのあまりに絶頂しそうになった。そういった知識や経験には乏しいが、性的快感を得た瞬間もこれと近い感覚かな、と思った。

だから、雅がある日の部活中、入部したいです、とまるで道場破りのような勢いで演劇部にやって来た時、実栗は一瞬目眩がしてその場に尻餅をつきそうになった。

せっかく手に入れた居場所が、と心の中で何度も絶叫した。

しかし、実栗はあくまでその叫びを表には出さなかった。出せなかった。部活の仲間たちにはそんな自分を晒してはいけない。だから、雅の入部に対し、実栗は恰も喜んでいるようなふりをし、

「もう、本当雅はしようがないんだから」

と入部した雅にこう言った。

 雅のいる演劇部は、みるみるうちに実栗にとって、ストレスの溜まり場になった。

 雅は他人に合わせて自分を曲げたりはしなかった。他人の夢や理想を聞いて頷いたりするより、自分の夢を躊躇わずに語ってチヤホヤされるのが好きだった。雅は自己主張が強いくせに、他人の話にはあまり耳を傾いたりしなかったし、相手を否定する時には、その場の空気と力関係など構わずにそうした。嬉しい時は全力で笑い、少しでも悲しさを感じた時はすぐさま泣き出した。実栗からすれば、その全ては雅の子供っぽさであり、その子供っぽさに抱く苛立ちが年々募り、ここ最近はいよいよ臨界点に達するのではないか、と実栗は雅と会話を交わすたびに感じていた。

 「雅、たまにはちょっと空気読んでよ」

 と雅に注意したことがあった。口調こそ荒げなかったが、この言葉を発した時点で、実栗の堪忍袋の緒が切れる寸前であることに気付いてほしいのに、雅は、

 「えっ?だって、空気ってのは、作った人が勝手に作ったものでしょ?勝手に作っといて読まれないと怒るとかさ、めちゃくちゃ理不尽じゃん?あたしからしたら、それは空気を読まないことより失礼だと思うけどな。読むか読まないかだってこっちの勝手だし」

 と真っ直ぐに実栗の目を見つめながら、少し皮肉っぽい笑みを浮かべて言い返してきた。その瞬間から、雅に対する苛立ちが、胸を締め付ける嫌悪感のようなものへと変わり、唇がわなわなと震えそうになった。

 もういい。そこまで言うなら、雅のことなんかもうどうでもいい。どうせすぐに部活の皆に嫌われて孤立する、と半ば雅に呪いでもかけるような思いに浸り、そうなったら真ん中に自分が立たされることになってしまうと困るから、一日も一刻も早く雅にこの空間から消えて欲しかった。

 そんな実栗の焦燥を嘲笑うかのように、雅は案外、部活の皆と上手く付き合っていた。自分の方がずっと雅より部活に時間と精力を費やしているつもりだったが、雅も結構気に入られていた。呼び方もいつの間にか白川さんから雅ちゃんになっている上、遊びにも当たり前のように誘われていた。先輩が雅に写真を見せて笑いあうたびに、実栗は舌打ちしそうになった。

 息苦しい。部活にいるのが息苦しかった。雅という存在がいると、生きることの全てが息苦しかった。私はみんなのために、みんなのために部活に頑張っているんだ、と心の中で唱える度に、自分の首が握りつぶさんばかりに締め付けられている気がした。

 お願いだから、雅を見ないでよ。

 「雅ちゃん、ちょっと園芸部さんのところに、この間言っていた花壇の写真を撮ってきてくれない?」

 と先輩は自分ではなく、雅に頼んだ。実栗が、私も一緒に行きます、と言い出すと、先輩は戸惑ったような表情になったが、行かせてくれた。

 園芸部が管理している花壇の前に立つと、雅が急に実栗が好きなレモンティーを差し出した。

 「実栗大丈夫?最近疲れてるみたいんだけど、なんかあった?あたし、聞くよ?」

 違う。違う。どうしてあなたが気を遣う方なの?どうして私があなたに気を遣われている方なの?頼むから、いつもの空気の読まないあなたでいてよ。

 「は?別になんもないけど」

 「そう?実栗はすぐ自分のことばっかりになるから、たまには周りにもちゃんと見ないと」

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。気が付くと、目の前には花壇に押し倒された雅の唖然とした顔があった。

 「あんたに何がわかるの?大嫌いなのよ!大っ嫌い!もう本当死ね!」

 そう言い捨て、実栗はその場を立ち去った。雅と交わした会話もそれが最後だった。

 雅が飛び降りた前の日の夜、雅の母が、雅が帰って来ないんです、と慌てた様子で実栗の家のドアを叩いた。翌日、生徒が飛び降りたって、とクラスメイトたちが騒ぎながら花壇に集まっているのを見るや否や、あっ雅だ、と分かった。

 雅、あなたの死はきっと私のせいよね。私は、あなたという太陽が放つ眩しい光に、容赦なく地面に落とされた影である自分に絶望したから。でも、光がないと影は生まれない。影が消えるのは、太陽が落ちて辺りに影しかなくなってからだよ。影は貧弱で卑しいんだから、他の影と連なって溶け合った時や、誰かの後ろで光から身を隠している時ぐらいしか、確かに存在するものにはなれないのだ。しかし、その影が太陽の眩しさを呪った。私は、あなたがいなくなることを願った。そして、あなたが落ちた、私があなたを落とした、あの花園に。

 でもね、雅。私は謝らないよ。あなたは死という行為で私の赦しを乞うつもりなら、私も吹っ切れるよ。光がいなければ、影たちは連なって生きればいいだけのこと。雅、ありがとう。もう私は、あなたから卒業する。

 実栗が次に登校した時、学校で雅のことを話題にする人はもうすっかりいなくなってしまった。

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