第34節 -第五の奇跡-

「コード:POC C2K 0002 ベートより中央管制へ伝達。識別名エヘイエー 艦隊旗艦メタトロン及び追随艦艇2隻の配置良し。観測システム異常無し、各種ソナー稼働、モニタリング良好。上空のトリニティとプロヴィデンスの接続維持を確認。指定ポイントよりナン・マドール遺跡にて予定されている第五の奇跡の観測を開始する。」

『ミクロネシア連邦支部中央管制より。貴艦らの指定座標への展開を確認。観測の開始承認。状況を継続されたし。』

 通信員と中央管制のやり取りが完了する。

 ナン・マドール遺跡から40キロメートル離れた太平洋上ではハワードの指揮する3隻の艦艇群が間もなく始まるであろう第五の奇跡の観測準備に入ったところだ。


 ハワードが乗艦するのは機構の誇る最新鋭観測艦【メタトロン】である。

 36対の翼と36万の目をもつ炎の柱と語られる大天使の名を冠するこの船は〈無数の目を持つ天の書記〉と呼ばれ、海上から気象データを基本とする環境データ採集と分析などありとあらゆる事象の観測を可能としている。

 トリニティと同じようにプロヴィデンスとの双方向通信を可能としており、採集したデータを元に風向、風速、波の高さや気象状況の移り変わり、特に台風の高精度予測はもちろん、各種ソナーによる海中探査やGNSSを用いた海底地殻変動観測までを超高速で行うことが出来る。

 また、メタトロンは自らが採集したデータを元にした未来予測による自動船体制御や自動航行能力も世界に類を見ないほど優れた性能となっている。その為、乗艦する隊員たちは船の姿勢維持などに気を回す必要も限りなく少なく、真の意味で《観測》という調査行動に意識を向けて注力することが出来るのだ

 今回は第五の奇跡による気象の状況変化を遠く離れた海上から観測することを任務とする。


 当該地点からの観測は数日前に行われたフロリアンからの進言により敢行されることとなった。

 第四の奇跡において、ナン・マドール遺跡から半径30キロメートル地点に接近した艦船が雷撃により悉く攻撃を受けた件を考慮し、本来は第五の奇跡においては海上からの観測ではなく衛星からの観測を行う予定としていた。

 しかし、衛星からのデータだけではなく実際に遠く離れた海上からナン・マドール遺跡のある方角を目視した結果と上空から観測した結果が必要だということで急遽計画を策定し直したのだ。

 彼の言葉を借りれば “目に見えることだけが全てではない” ということであったが、その推測が正しければ奇跡の正体がこれで明らかになるという。

 ちなみに40キロメートルという距離は前回の雷撃観測ポイントである半径30キロメートル圏内からさらに離れた安全圏ということで決定されたが、海上からおよそ50メートルの高さにあるメタトロンの艦橋からでは25キロメートル先の水平線までしか見通せない為、ナン・マドール遺跡を直接目視することは叶わない。

 そこでメタトロンを基点として上空約200mの高度へ数機のトリニティを展開させることで奇跡が起きている状態のナン・マドール遺跡を記録するという方法を取ることにした。

 行動半径が限定的なトリニティを広大な海上で継続的に運用可能と出来るところもメタトロンの長所で、空で活動するトリニティの航空母艦的な役目も務めることができる。

 もちろん、遺跡から30キロメートル離れた地点-メタトロンから10キロメートル地点の観測は艦橋から目視で確認出来る為、そこも併せて確認を行う予定となっている。


 フロリアン曰く、おそらく海上からでは “何も観測することが出来ない” という結果になるはずだそうだが、果たして現実はどのような結果になるのだろうか。

 リナリア島で艦船の電子機器やネットワーク、航行システムが全てダウンした時の苦い経験から、万が一のことも想定して雷撃を回避する為の策も用意しているが今回は使用することもないだろうとハワードは直感している。

 艦隊の観測態勢を整えたハワードは奇跡が起きるのを座して待つのみとなった。


 鬼が出るか蛇が出るか。出来れば彼の言う通り、そのどちらも出てくることなく平穏無事に観測が終了してほしいものだ。


 ハワードはそう思いながらナン・マドール遺跡の方角をじっと見据えた。


                 * * *


 既に数万に及ぶ人々が集うナン・マドール遺跡から約800メートルほど離れた場所、ペイニオットに玲那斗とイベリスを除いたマークתの面々の姿があった。もちろん、これから始まる第五の奇跡の観測を行う為である。

 つい先程地上から放たれた数機のトリニティがまるで鳥のように大空を舞う。

 ルーカスが組んだ自動観測プログラムによりトリニティは高度を数段階に区分けして飛行する予定で、それぞれ高度200メートルから4,000メートルの間を巡行するように設定されている。


「トリニティ各機、目標高度への到達を確認。自動観測プログラムに基づいた飛行経路を維持しつつ観測を開始します。」トリニティによる観測準備を終えたルーカスが言い、その報告を聞いたジョシュアは支部へ連絡を入れる。

「コード:AOC C1M 0022より、POCミクロネシア連邦支部へ。マークתのブライアン大尉だ。テムウェン島付近、ペイニオットにて観測準備を完了した。」

 少し間をおいて支部から報告受領の報せが入る。

『ミクロネシア連邦支部中央管制より。テムウェン島上空にて展開するトリニティ各機の信号を確認。プロヴィデンスとの連動ステータスに異常無し。モニタリング良好。観測を継続されたし。』

「了解。状況を継続する。」

 管制とのやり取りを終えたジョシュアがフロリアンに歩み寄って言う。

「これで準備万端だな。フロリアンの言う通りであれば各高度毎に観測できる事象に何らかの変化が起きるはずだ。」

「はい。きっと “内側” と “外側” で分かりやすい変化が起きるはずです。」フロリアンが返事をする。

「メタトロンより入電。遠洋に展開する少佐の艦隊も観測準備を完了したようです。」たった今受信した報告をルーカスがジョシュアへ伝える。

「承知した。いよいよだな。玲那斗とイベリスの準備はどうだ?」

「玲那斗から連絡が入っています。準備は整っているとのことです。」

「では、あとは彼女が奇跡を行う様子を観察するだけか。イベリスが無理をしなければいいが。」ルーカスの報告を聞いたジョシュアが呟く。

「中尉が傍にいるので大丈夫でしょう。それに、これは第六の奇跡に向けた検証の一環ですからほんの僅かに干渉するだけで良いとイベリスには伝えてありますから。」

「そうだな。その通りだ。」フロリアンの言葉を聞いてジョシュアは深く頷いた。


 低高度からナン・マドールを観測するトリニティからの映像データを確認すると、そこには想像以上に多くの人々が詰めかけているのが見て取れる。2万、3万人はいるだろうか。

 木々の隙間から確認出来るだけでも島という島を埋め尽くすように人々が大挙して押し寄せている。

 遺跡の中で現在アヤメは静かに佇み祈りを捧げる姿勢をとって動かない。その様子を人々が固唾をのんで見守っているという状況だ。

「やはり凄まじいものだな。別の意味で玲那斗が心配になってきた。」映像を見やったジョシュアが言う。

「イベリスが傍にいるから大丈夫でしょう。いざとなれば彼女は “どんな手段を使ってでも” 玲那斗は守るでしょうから。」

「あぁ、そうだな。物騒な言い回しだが誠にその通りだ。間違いない。」ルーカスの言葉を聞いてジョシュアは再度頷いた。

 今しがた行ったやり取りとそっくりのやり取りに三人は自然と笑みが漏れる。

 噂の主である玲那斗とイベリスは今頃一般の人々に紛れてナン・マドール遺跡で待機しているはずだ。

 決して自分達には真似が出来ない “あること” を試すために。それこそが今回の奇跡に対する機構の切り札になると信じて。


                 * * *


 入り組んだ遺跡の岩の上で玲那斗とイベリスは海辺に佇むアヤメの姿を見つめる。

 彼女からは距離にしておよそ100メートル離れた位置といったところだろうか。2人ともあえて機構の制服ではなく私服を着て、この地に集まる多くの人々に紛れている。

 彼女を間近で観察できるように隊の他のメンバーとは別行動でずっとこの場所で待機していたのだ。

 ナン・マドール遺跡には数万を超える数多の人々が集まっているというのに恐ろしいほどの静けさが周囲を包み込む。

 皆が固唾をのんでアヤメが奇跡を起こす瞬間を待ち侘びているようだ。彼女と同じように祈りを捧げる者、真っすぐに彼女を見つめる者、崇めるように手を合わせる者など様々である。中には高々と次のようなプラカードを掲げる者までいる。


“裁きの時は来た”

“我らの未来は大いなる神の聖名と共に”


 緑の木々に囲まれ、岩と水路から成るこの地形は決して足場が良いとは言えない。

 それでも彼女の起こす奇跡をその目で見届ける為に、彼女の言う “災いを持ち込む愚かなる罪人” への神罰を見届ける為に島中の人々と言っても差し支えないほどの人がこの地に集まっている。

 静かな熱量が満ちているとはこういう状況のことを指すのだろうか。

 周囲の雰囲気に気圧されて玲那斗もイベリスも互いに言葉を発することは無い。

 他の人々と同じく目を逸らすこと無くアヤメの姿に視線を送る。


 今回の2人の担う役目はアヤメの引き起こす奇跡を間近で観察すること以外にもう一つある。

 簡単に言うとイベリスの力でアヤメの起こす奇跡に干渉してみるということだ。

 フロリアン曰く、まずは彼女の起こす奇跡と言うのは内なるものと外なるものに分かれているという。

 ドームスタジアムの内側にいる観衆からはドーム内で起きる出来事が見えるが、外にいる者には中で何が起きているのか見ることが出来ないという例えをしていた。

 彼女の起こす奇跡による異常気象とはただの幻影であり、例えるならばドームの内側壁面に “そう見えるように映し出された幻” であるというのだ。

 故に自然現象では有り得ないような光景や現象が現地に集まった人々-つまりドームの内側にいる人々の目には移り、衛星や遠洋からの観測-ドームの外側からでは何も捉えることが出来なかったということらしい。

 その考察の証明をする為に今回はおよそ500メートル離れたペイニオットからジョシュアとルーカス、フロリアンがトリニティを用いた観測を行い、40キロメートル離れた地点からはハワードがメタトロンを旗艦とする艦隊を率いて観測を行う。

 水平方向の半径以外にも垂直方向、つまり上空におけるドームの天井となる境界線を探るためにペイニオットから飛行させているトリニティは高度200メートルから4,000メートルまでの幅を持たせて数機で観測する計画だ。

 フロリアンのこの仮説は玲那斗とイベリスが休日に見たプラネタリウムがヒントになったという。

 球状のプラネタリウム館内から星空を眺める人々を現地に集まった人々だと仮定したとき、プラネタリウム館外にいる人々にはプラネタリウムが映し出す幻の星空は見えないという視点から考え至った考察らしい。

 加えて、 “目に見えるものが全てではない” という警察で言われた一言もきっかけになったということだった。


 イベリスにはフロリアンが言った言葉に思い当たる節があった。

 アヤメ…厳密にはアイリスが確か同じ言葉を言っていた。


 “目に見えるものだけが全てだと思わない方が良い” と。


 それは彼女自身が起こす奇跡のことを言い表していたのだろうか。それとも別の何かを暗喩する言葉だったのだろうか。

 アイリスもロザリアも自分達の知らない何かを知っているような節があったが、結局今のところはそれが何なのかもわからない。

 その答えが今から明らかになるのだろうか。イベリスは答えの無い問答を頭の中で繰り返す。

 しかし今はそのことが大事なのではない。自身が彼女の起こす奇跡にどこまで “触れる” ことが出来るのかが重要だ。

 可能性の話ではあるが、フロリアンの推測では “内側から見える奇跡” に対して自分だけはあらゆる形で干渉をすることが出来るはずだという。

 究極を言ってしまえば彼女を主役の座から引きずり降ろして “奇跡の上書き” として別の奇跡を作り出すことまで出来るかもしれないと言っていた。

 理屈としては、プラネタリウムの星空を投影する為の映写機の役目をアヤメが果たしているというのなら、彼女の代わりに自分がそれよりも強力な映写機になることで奇跡の上書きが叶うという内容である。

 今回の第五の奇跡において、それがどの程度出来るものなのかを探るというのが自分に与えられた任務だ。

 もし、彼女の起こす奇跡に干渉が出来るという事実をここで掴みとることが出来たなら、最後に待ち受ける第六の奇跡において手の打ちようがある。つまりはそう言うことだ。

 この島に来てから何度も『奇跡には奇跡をぶつけるしか方法が無いように思う』と言われ続けてきたが、まさか本当にそのような状況になろうとは。

 玲那斗は気負わないように軽く彼女の奇跡に触れたら良いと言ったが、正直なところ異能のぶつけ合いなどというのは当然初めてのことなのであまり自信は無い。触れるという感覚がなかなかイメージできない。

 しかしそれでもやるしかない。イベリスは彼女に向けていた視線を外すと一度目を閉じて大きく深呼吸をした。

 吸った息を吐きだした後、再び目を開けて彼女を見据える。きっと答えはすぐに出る。何もかも…



 アヤメが遺跡の向こうに広がる太平洋へと向けて祈りを捧げ初めてからおよそ1時間が経過しようとした時、彼女に動きがあった。

 祈りを捧げる為に組んだ両手をほどいて手を下ろす。

 そして遺跡に集まった人々の方向へ向き直り両手を空に向けて大きく広げながら彼女は第五の奇跡の始まりを告げたのだった。


                 * * *


 2人の少女が見てきたもの。

 2人の少女が感じてきたもの。

 それらは記憶という箱の中に “思い出” という名前で収められているものに違いない。

 少女の中にはその箱が二つある。

 ひとつはアヤメ・テンドウの箱。

 もう一つはアイリス・デ・ロス・アンヘルス・シエロの箱。


 2人とも、十数年という歳月しか生きていないが箱の中には数えきれない程の思い出が詰まっている。

 ひとつは両親との思い出、友人との思い出、知識を得た喜び、景色を見て感動した喜び、良いことも悪いことも全て愛おしい経験として詰め込まれている。

 もう一つは同じく両親との思い出、貴族として生きていく上で教え込まれた知識の数々、大自然に囲まれた中で得た感動、憧れた人の存在。そして、お姉様と過ごした時間、共に見た星空…その全てが千年の時を経ても愛おしい記憶として詰め込まれている。



 アイリスは自身の過去の記憶を思い返した。

 自分にとっての最後の記憶とは親愛なる人を奪われた記憶であり、世界の醜さに絶望した記憶であり、誰も幸福になれなかった結末の記憶だ。

 お姉様が “何の変化も無い日常は幸せだ” とおっしゃっていた意味が今なら理解できる。

 全てを奪われる未来は何よりも残酷だ。今の自分はそのことを知っている。

 そして、今自身の中にいる少女。肉体の持ち主であるアヤメにとっての未来はこれからも続いていく。そんな彼女の未来には自身と同じ結末など有ってほしくないと心から願う。

 だからこそ彼女の願いを叶えなければならない。彼女の望みを叶えてあげたいと思う。

 そこにはもう、迷いなんて無い。



 一方のアヤメは自身の未来を考えた。

 自分にとっての未来とはなんなのだろうか。常々そんなことを考えてきた。

 生きる意味、人生の価値、自身の存在理由、存在の証明。

 ある時からずっとそんなことを考えて探し続けてきた。あらゆる本を読み知識を得て、あらゆる人々と会話を重ね交流を深め、あらゆる体験を通じて経験を積んでも尚その答えは分からないままだ。

 友人は多くいる方だと思う。学校生活でも自然と周囲に人が集まってくることが多いし、勘違いでなければ皆からは慕われているのだろうと思う。きっと先生からも真面目で活発な良い子だと思われているに違いない。

 しかし、それが何だと言うのだろう。自分の探し求める答えはどこにも見当たらない。

 そんな時だった。彼女が自身の中に目覚めたのは。

 彼女の存在に気付き、最初に彼女に話し掛けたのはただの興味本位だった。自身の中に別の誰かがいるなどということを多くの人は恐怖だと思うかもしれない。だが自分は違った。

 “なぜ?” と問われるとよく分からない。不思議と何の違和感を感じることも無く彼女の存在を受け入れることが出来た。

 それは元々自身の心が空っぽだったからかもしれない。そんな空っぽの自分の中に突如として表れた彼女は眩しかった。

 彼女とは色々なことを話した。主に彼女の過去の話を自分はたくさん聞いた。アイリスが生きた時代のこと、見てきたもの、感じてきたもの、そのどれもが自分にとっては輝かしいもののように思えた。

 何より、彼女が語る “お姉様” という存在に強く惹かれた。たった一人の人の為にそんなに強い情熱を持って語り明かすことが出来るだなんて、自分の人生には無かったことだ。

 嬉しそうにお姉様のことを語る彼女の様子から、自分に足りないものはこういったことなんだろうとさえ思った。

 彼女は自分の知識の豊富さを知って生き字引のようだと何度も褒めてくれたが、私にとってのそれは生きる意味を探す上で必要だっただけのことに過ぎない。

 どこか満たされない心の隙間を埋める為の薬が知識や知恵というものだったのだ。

 でも本当に私に必要だったものは彼女がお姉様と慕うような “心から大切だと想うことが出来る存在” だったに違いない。

 両親とは違う意味でそう想える存在こそが足らなかったのだ。それが今はよく分かる。

 空っぽだった私の心に満ちる決意と情熱は全て彼女の為にあるもの。生まれてからこんなにも “誰かの為に何かを成したい” と思ったのは初めてだ。

 だからこそ彼女に肉体を差し出した。彼女の方が自分よりもよほどしっかり “生きる” ことが出来ると思ったから。それほどまでに私はアイリスの存在を眩しく感じてしまっている。

 彼女という存在こそ私が探し求めていたたった一つの光。心の隙間を埋める最後の欠片。

 そう、私は何としてでも彼女の願いを叶えなければならない。そして願わくば、私も彼女のいうマリアお姉様という人物に会ってみたい。

 アイリスが心を焦がすほど求める人物に一度は会ってみたいと願う。

 この国の未来と多くの人々の笑顔と平和を願う思いは嘘ではない。けれどもそれ以上に、アイリスの願いを叶えることこそが自分の望みだ。

 そこにはもう、迷いなんて無い。

 

 これが私達2人の願いの形。私達2人が望んだ奇跡の形。

 アイリスとアヤメという、同じ花が抱いた想いの形。


 アヤメは数多の人々が待つ方へ向き両手を空に伸ばし刻限を告げる。

 第五の奇跡を、此処に。


                 * * *


「告げる。これは聖母の御言葉である。」

 その場にいた誰もが彼女の声を耳にした。まるで脳へ直接語り掛けているかのようだ。

 両の手を天に伸ばしながらアヤメがそう言うと俄かに周囲の雰囲気が変化したように感じられた。

 先程まで微かに聞こえていた打ち返す波の音が聞こえなくなり、吹き抜ける風の音も止む。太陽の光は相変わらず大地を照らしているはずであるのに、その熱を浴びているという感覚もしなくなる。

 やがて空の色は青色から少しずつ夕日のように鮮やかなオレンジ色に染まり、ゆっくりと不気味なほどの赤色へと変化した。

 おおよそ現実世界で起きる気象変化とは言い難い現象が数万人の人々の目の前で起きている。

 アヤメの姿は空の色の変化と共にゆっくりと空へと昇り、地上二十メートルほどまで上昇して停止した。




「こちらマークת所属、姫埜中尉より中央管制及び周辺で観測する全ての部隊へ。ナン・マドール遺跡にて第五の奇跡の開始を確認しました。」

 玲那斗はヘルメスから周辺に展開しているマークתの仲間と遠洋で観測をするハワードの艦隊、そして中央管制に向けて奇跡の始まりを告げた。

『こち…ミクロネシア連邦支部中…管制。貴官の報告により第…の奇跡の開始を確認。ペイニオットに展開中のト…ニティ…映像に…観測を…。』奇跡による電波障害が既に発生しているのだろうか。途切れ途切れではあるが中央管制からの応答が最初に届く。

『こちら洋上観測艦隊旗艦メタトロン、ウェイクフィールド少佐だ。報告を確認した。現在の所、洋上に展開する本艦及びトリニティより周辺状況の変化は確認出来ない。当該ポイントより事象の観測を継続する。』海上からの通信はほんの僅かにノイズこそ乗っているが、現状はほとんど影響がないように聞こえる。

『マークת、ブライアン大尉より各部隊へ。ペイニオットからも第五の奇跡の開始を確認した。こちらからは周辺環境の変化を確認している。引き続きトリニティによる観測を継続する。』最後にすぐ付近で観測を行うジョシュアからの応答を受信する。

「ナン・マドール遺跡より姫埜中尉。各部隊の状況確認しました。奇跡の状況を見つつ介入の可否について確認を行います。」

 そう言うと玲那斗はイベリスへ視線を向け軽く頷く。イベリスも同じように一度だけ頷いた。

 アヤメの起こす奇跡と呼ばれる現象に対して、能力を用いた介入が可能かどうか。その確認をこれから行う予定だ。

 しかし、焦ってはいけない。タイミングというものが重要となる。もっと奇跡による変化が強くなってからでなければならない。

 アヤメが最大強度でその力を振るう中でどこまで干渉が出来るのかについてイベリスが感覚を得ることが何よりも重要なのだ。

「大丈夫。落ち着いていこう。」玲那斗はイベリスへ優しく語り掛けた。その言葉にイベリスは再度頷き、視線をアヤメの方へと向け直した。




「刻限はここに。聖母よりこの場に集まりし全ての人々へ天上の意志を伝える。裁定の時は来た。長きに渡る苦しみから解き放たれ、我らが求める自由は神の聖名においてこの地に再び与えられようとしています。この地に満ちる貴方がたの祈りが奇跡を起こす力となりましょう。」

 アヤメは空から語り掛けながら再び両手を左右に広げながら言う。

「今や貴方がたの周囲に沸く水の全てが奇跡の力を持っています。病める者は水を飲みなさい。怪我をしている者は水を浴びなさい。大いなる力が全ての苦痛を癒します。」

 人々の周囲にある遺跡の水路や水を貯める石造りの建造物からは絶え間なく水が溢れ出ており、多くの人々が水を飲み、体に浴びた。

 それまで静かだった遺跡に万雷の喝采が鳴り響く。大地を揺るがすかのような大歓声だ。

 加齢によって杖がなければ歩けなかった老人は自力のみで歩けるようになり、腕に骨折の怪我を負っていた若者は固定具無しで自由に腕を動かし始める。

 薬物依存により禁断症状を起こしていると見られていた人々も落ち着きを取り戻し、家族や友人たちと抱き合いながら喜びを爆発させていた。




 “この光景はまさに奇跡と呼ぶにふさわしい。”

 直接目にすればどんな人間でも認めざるを得ない。それ以外に形容の仕方など無い。

 自然現象や現代科学では到底説明することなど叶わない一連の現象を眺めながらイベリスはそう思っていた。

 数多くの人が集い、病や怪我といった苦しみからの解放に喜びを示している。しかし、問題はこの後だ。


 “悪意をもたらす災厄の元凶に裁きを下す。”


 今回の第五の奇跡でどこまでのことをするのかは分からないが、前回のように人知れず島へ近付こうとした組織の関係者を始末するといったものより圧倒的に分かりやすいものを見せしめるに違いない。

 フロリアン曰く、今回の奇跡では核心をついた場所や人に対する攻撃は無いだろうのことだった。理由はアヤメ自身が言い放った “2か月の猶予” だという。

 彼女は第六の奇跡で全ての出来事に終止符を打つつもりでいることはその言葉からも読み取ることが出来る。

 前回よりは核心に近く、しかしその中心は外す。これがフロリアンの予想だという。

 だとすればポーンペイ島のどこかにある施設などに対してあの雷撃を落とすのだろうか。

 何を基準にして?

 それが分からない。罪のない人々を巻き込まず、確実に組織に関係する者や場所だけを狙ってそんなことが出来るのだろうか。

 考えても答えは出ない。彼女以外に答えを知る者などいないのだから。とりあえず理屈は後回しだ。

 とにかく彼女の “奇跡” に対して自分がどこまで干渉できるのかを試さなければならない。

 そして注意すべきは “絶対に全力で干渉してはならない” ということだ。彼女が干渉に気付いたとしても意に介さない程度のものにしなければ。

 目的は今回の奇跡を止めることでは無く、この次に待ち受ける “第六の奇跡” を止めることなのだから。


 イベリスはそう考えながら精神を研ぎ澄ませ、この後に来るであろう例の雷撃の瞬間を待った。




 幾万の人々が歓喜に震えている。響き渡る大歓声が地鳴りのように轟く。

 あらゆる意味でこのようなことが自分に出来るなどとは数年前まで思ってもみなかった。アイリスもアヤメも同じ気持ちだ。

 その内のひとつが今目の前で起きている奇跡。奇跡の水。万物の傷や疾病を癒す奇跡の水である。

 病気、怪我、薬物依存などを抱えていた人々の多くが先の奇跡で癒されていく。

 これで良いんだ。これが人々にとっての幸福、喜び。

 健康というものは人が生きる上で欠かせないものであるにも関わらず、全員が同じようにそれを享受できるわけではない。

 生まれつきの障害で苦しむ者、後天的な障害で苦しむ者、怪我や病気に苦しむ者、そして心の迷いから一時の快楽欲しさに手を出した薬物によって苦しみを受け入れてしまった者。理由は様々ではあるが、自由な生の謳歌を妨げる壁を抱え込んでいる人々は大勢いる。

 ある者はそれを受け入れて生きることを選ぶが、ある者は受け止めきれずに破綻する。まるで違う道を選んでいるように見える両者に共通するのは一種の諦めがそこに存在することだ。

 過去の自分達と同じように人生における大きな何かを諦めてしまうこと。それがとても悲しいことだと知っている。

 しかし、今の自分達には力がある。多くの人が抱える壁というものを無かったこととして “ゼロ” に戻すことが出来る。

 厳密には語弊があるが、いわばアポトーシスと呼ばれる細胞の自然死とは異なる、自然外の因果によって引き起こされるプログラム細胞死であるネクロプトーシスを “無かったことにする” のが自分達2人が得た力だ。

 アイリスの感情共有やアヤメの雷撃を操る力、天の裁定とは別に、2人が揃っている時のみ具現化することが出来る力。時間の巻き戻しにも見えるが、時間の経過と共に同じ状況にならないという点でそれとは異なる。

 がん細胞への変異を無かったことにしたり、骨折という事象そのものを無かったことにしたり、老化や悪い生活習慣の積み重ねによって起きる事象を無かったものとする。

 当然、薬物によって細胞が破壊されたという事実すらも無かったものとしてしまう。

 唯一、先天的に生まれ持った障害だけは時間の巻き戻しによる “ゼロ” の基点が生前にしか存在しない為に “無かったものに出来ない”。

 しかし、唯一の弱点であるそれさえ除けば、後天的事象に対する治癒は完璧なものであり、現代科学はおろか、未来の科学でもこの力を解明することなど出来るはずがない。する必要もない。

 しかし、それよりも…


 少し離れた先に玲那斗とイベリスの姿が見える。ということは機構の他のメンバーもどこかにいるはずだ。

 先程から空を飛び回っているよくわからない機械も機構の所有物なのだろうか。

 この奇跡を解明するために今に至るまであらゆる手を尽くしているのだろうが無駄というものだ。

 そして何より、人々の幸福の為にこの奇跡を “解明する必要が無い” ということを彼らは理解していない。

 多くの人々はただ与えられるままにこの奇跡を享受してくれれば良いのだ。その先にある幸福を手にすれば良い。それが万人の為、世界の為である。

 直後に行う裁きも同じこと。この国に巣食う病巣を取り除き、何も無かったゼロの状態へ戻す。元からそこには何も無かったように。それがこの国の為になる。


 神の聖名において裁きを下す。


「人々よ、その耳を傾けなさい。聖母マリアによるお告げである。我々を苦しめる厄災への神罰の刻が訪れようとしています。それは遠雷の轟をもって再び貴方達に示されるでしょう。」


 赤い空が徐々に暗くなっていき、曇天となる。

 光すら反射しないような黒い雲が周囲に立ち込め、色とりどりの流星が空から垂直に落ちるように水平線の彼方へと降り注いだ。


「天を見上げなさい。神の威光は我らの目に見える形となって現れます。全ての人々よ、祈りましょう。偉大なる聖母への祈りが我々を蝕む苦痛から自由への道筋を作るのです。」


 奇跡の水に夢中になっていた人々の視線は再びアヤメへと戻され、皆が両手を胸の前で組みながら祈りを捧げる姿勢を見せる。

 ある者は目を閉じて俯き、ある者はじっとアヤメを見据えて十字を切り、ある者は【With You. A】(貴女と共に。アヤメ。)と記載されたメッセージカードを掲げている。

 その他にも【 “The future starts today, not tomorrow.” 】(新しい未来は明日から始まるのではない。今日から始まるんだ。)というローマ法王ヨハネ・パウロ2世が残した言葉まで掲げられていた。


 人々の眼差しを一身に受けたアヤメは片手を天高く上げ、単語一つ一つを聞き取れるようなゆっくりとした口調ながらも怒りを込めたように言う。


「Get out of here」(ここから居なくなれ)


 その瞬間であった。

 遥か彼方の太平洋上、垂直に落ちた流星の代わりに視界の端から端まで埋め尽くすほどのレッドスプライトが煌めき炸裂する。

 景色全体が真っ白に染まり、遅れて数秒後に耳を劈くような爆音が轟く。


 ゴベルナンテ・セレスティアル《天の裁定》。

 アヤメの持つ雷神の加護。その力。万物を電撃によって焼き払う威力を持つ天の裁き。


 レッドスプライトから数秒後、続けてナン・マドール遺跡があるテムウェン島から離れた位置、丁度人々の背後に次々とフラッシュのような光の柱が一瞬立ち上がる。コロニア市内やパリキールの方角だ。さらに左に視線を移した先にあるエニペインにも光の柱が大地へと突き刺さった。

 何が起きたか分からない人々のどよめきが広がる。

 アヤメは天に掲げた手をゆっくりと前へ突き出し、コロニア市とエニペインの方角を示しながら言った。

「我らの祈りは神罰となりて地上へと注がれました。神の怒りに燃える建物は災厄の元凶、愚かなる罪人をかくまう罪過の象徴。天上の意思はお前達を捕えているものと知りなさい。これは聖母マリアを通じて与えられる最後の警告である。これより1月ほどの猶予の内にこの地を去りなさい。」

 そしてアヤメの背後では再び流星群が海へと降り注ぐように煌めき始めた。

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