第33節 -決意の夜-

 支部の会議室ではマークתのメンバーとハワード、リアムが緊急のミーティングを行っている最中である。

 ジョシュアに連れられ警察から戻ってきたフロリアンから今日起きた一連の出来事についての報告を聞く為だ。

 そして、つい今しがた本人の口から午後に起きた事件の詳細についての報告が終わったところであった。


「遅かれ早かれ、こういった事態に彼女が巻き込まれるであろうことはこの国の誰もが予見していたことです。しかしこのイベントの日に限って。」報告を聞き終えたリアムが言う。

「いや、こういった日だからこそだろう。事の次第を聞く限り、彼女を狙った犯人は九分九厘にマルティムのメンバーだろう。そして、彼女がイベントに参加すること、警察や政府の護衛を撒いて逃げる可能性が高いこと、その為に裏通りを通ることなどを予め予見した上で用意周到な準備をしていることから並々ならぬ意気込みと明確な殺意を汲み取ることが出来る。」ハワードも自分の意見を述べた。

「奴らの唯一の誤算はフロリアンがその場に居合わせたということか。お前さんのおかげで彼女が命を落とさずに済んだことは間違いない。」

「しかし、そうなると気になるのは桃色髪の制服を着た少女の存在でしょうか。そんな人物は支部にいませんし、話を聞く限りその少女は明らかにフロリアンを誘導する目的の為に行動をしているような意図が垣間見えます。」ジョシュアとルーカスもそれぞれ意見を言う。

 各人の意見を聞きながら、フロリアンは警察にも聞かれなかった為話さなかった事実を全員に打ち明けた。

「実はその少女とは今朝も支部の廊下ですれ違っているんです。自室から出て外出用のゲートへ向かう途中に彼女と挨拶を交わしました。顔は見ていませんが、珍しい髪色とやたらと元気な挨拶だったので特に印象に残っています。」

「何?支部の中に少女がいたというのか?」驚いた様子でハワードが言った。

「モーガン中尉、今朝の支部内の監視モニターの内、フロリアンが通過した場所の映像だけをピックアップできるか?」すぐにジョシュアが確認を求める。

「はい。彼のIDから通過したルートを確認しましょう。皆さんのヘルメスに当該モニターの映像データを送信します。」リアムはそう言うと、フロリアンが自室から機構を外出するまでに通過したポイントに設置された監視カメラがモニタリングしたデータを抽出して全員のヘルメスへ転送した。

 機構では各個人に割り当てられたIDとヘルメスの位置情報によって、誰がどの時刻にどこを通過したのかであったり、どの端末をどういった目的で操作したのかなどの情報が全て記録されている。

 そのIDとヘルメスの位置情報を元にして、監視カメラに当該IDの通過記録の抽出を指示すれば今回のように特定個人が辿った道筋を一瞬の内にデータ化して抽出することも可能だ。

 尚、通過記録やアクセス記録などの抽出を指示できる権限を持ち合わせるのはセントラルや支部の責任者、各チームを取りまとめる隊長などに限定されている。

 支部の中でこの権限を持つ代表としてリアムが抽出し、転送した映像データをその場の全員が自身のヘルメスでチェックしていく。

 そして、全員がほぼ同じタイミングで問題の桃色髪の少女の存在が記録されていることを確認した。

 すると、玲那斗のヘルメスで映像データを一緒に眺めていたイベリスが声を上げる。

「この子は…玲那斗、数日前にプラネタリウムを見た後に露店でココナッツジュースを買っていた子を覚えてる?」玲那斗の顔を見ながらイベリスは言った。

「あの時の…やたらと元気の良い子だったな。学生服と軍服を合わせたような服装をしていたと思う。特に意識してなかったから顔までは見てないけど不思議と印象には残っているよ。」

「私もすれ違う時に妙な違和感を感じたのだけれど、その時はそれが何なのかは分からなかった。顔もはっきりとは見なかったから。でもこの映像を見て違和感の理由がよく分かったわ。言いづらいのだけれど…簡単に言うと知り合いね。」

「なぁ、まさかとは思うがそれはつまり…」イベリスの言葉に対してルーカスが言う。この時点でその場にいる全員が結論を悟っていた。

 全員が自分の言葉によって既に確信的な答えを得たと承知の上でイベリスは話した。

「彼女は私やロザリアと同じようにリナリア公国で生まれ育った子。公国の中における絶対の法を司る一家の令嬢。名をアンジェリカ。アンジェリカ・インファンタ・カリステファスというわ。」

「ということは、イベリスや総大司教様のように彼女にも特別な力が備わっているとみて間違いないんだな。」やはりという表情でルーカスが言った。

「えぇ、そうね。セキュリティが頑丈な機構内に簡単に忍び込んでいることからもその認識で間違いないと思う。でも私も生前にそれほどの面識は無かったし、ロザリアと違って何か特別な才能を発揮していたというわけでもないから、それがどのようなものなのかについては詳しく分からないの。ただ…」

「ただ?」

「それほどの面識がない理由に関しては彼女がほとんど外に姿を見せなかったというのが理由よ。貴族の全員が集まるような大きな会合の場でしか見たことが無いから。そういった場でもただ隅の方にじっと座っているだけで、当時からとても大人しい子だったと思うのだけれど。」

 イベリスの答えを聞いて、玲那斗は自身がその子に対してなぜ特別印象に残ったのかの理由を悟った。

 最初はその圧倒的に目立つ容姿と元気の良さが理由だと思っていたがどうも違うらしい。本当のところは自身の中に存在するもう一人のレナトの知り合いであったからというのが正確なところだろう。

 しかし、イベリスと同じく特に親しかったわけでも無かったということだろうか。ロザリアと出会った時のような強い衝撃は感じられなかったし、どちらかというとなんとなく知っているだけといったぼんやりとしたイメージだ。


 リナリア公国の生き残りというにわかには信じがたい話ではあるが、イベリスという存在やロザリアという存在、加えてアヤメという奇跡の少女を目の当たりにしている以上、その場の誰もが既に情報の真偽を疑うということはしなかった。

 桃色髪の少女の正体がイベリスの言う通りの人物だとした上で、次に確認すべきことは “どのようにして機構内に侵入したのか” についてである。

 その点についてジョシュアがリアムへ確認を行う。

「モーガン中尉、データ抽出対象をその少女に変更して検索をかけられるか?」ジョシュアが言う。

「はい。既に試みましたが、名前での該当データは当然なくIDも存在しません。ヘルメスの位置情報も探知できないことから彼女が正式な機構の人間で無いことは間違いありません。しかし、映像には存在が映ってはいるもののセキュリティに引っかかった形跡もまるで見られないことからどのようにして建物内に侵入したのか、またいつ出たのかも不明です。」

「映っているのに認識されていない存在ということになるのか。まるで幽霊だな。」リアムの返事に対してジョシュアが言う。

 やや不謹慎な言い回しではあるがジョシュアの言うことは間違ってはいない。

 セントラルや支部を含めて機構のセキュリティというのはプロヴィデンスから派生したAIが基本的に統括管理をしている。

 セントラルや支部へ立ち入る為には専用のID発行を行う必要があるのだが、入館に際してID発行がされていない人物が支部内を歩き回ると “その場に存在する” というだけで通常は緊急通報が流れる仕組みになっている。支部内に立ち入る以前に入り口を通過した時点でアラートが鳴り響くことになる。

 映像に映り込むのにセキュリティが感知できない存在となるとそれはまさしく幽霊だろう。

「その少女については新たに追っていく必要がありそうだな。防げるのかどうかは別として、次の侵入を許すわけにもいくまい。ましてや、今回の件でヘンネフェルト一等隊員を誘導したことからもあからさまに事件に関わりがあると匂わせている人物でもある。目的は分からないにせよ、警戒すべき対象と位置付けることに議論の余地は無い。」ハワードが言う。

「セキュリティシステムに彼女の特徴を細かく登録しておきましょう。映像で彼女の姿が感知された時点で通報されるように登録をかけておきます。」リアムが答える。

 アンジェリカについては要注意人物として警戒対象にすることに加え、支部内のセキュリティを強化することで話がまとまった。

「さて、話を戻そう。今回の一件でヘンネフェルト一等隊員が無事であったことは何よりだった。一歩間違えればアヤメ・テンドウも含めて2人の命が落とされていた事件だ。よく彼女を守り抜いたな。」改めてハワードがフロリアンにねぎらいの言葉を掛ける。

「ありがとうございます。あの時出会った相手が誰であってもそうしたと思います。」

「人として尊ぶべき信念の在り方だ。加えて、自らの命を守ることも忘れないようにな。」フロリアンの言葉にハワードは頷きつつ、自分を大切にするようにと念を押す。

「承知しています。」フロリアンは穏やかな表情で頷いた。

「今後もマルティムは彼女の命を狙うでしょうか。」玲那斗が言う。

「企てが失敗したことでしばらくはマルティムも大人しくなるでしょう。警察や政府の監視体制も厳しくなることが予想されます。しかし、こうなった以上は彼女と直接話が出来る機会はもう望めないかもしれません。」警察や政府の動向を予測しながらリアムが返事をした。

「となると、あとは奇跡当日までに俺達が出来ることは今まで集めた情報を再精査しながら調査を進めるだけか。厳しい状況だな。」ジョシュアがぼやく。

 その時、フロリアンが心の内で巡らせていたある考えを話すべく切り出した。

「これはあくまで想像上の話になるのですが。」

「構わん。何でも良いから意見が欲しい。続けてくれ。」全員の視線がフロリアンに集まり、ハワードが話を続けるように促す。

「はい。第五の奇跡がナン・マドール遺跡で起きる当日に観測してみたいことがあります。僕の予測が正しければ想定した通りのデータが得られるはずです。」

 そうしてフロリアンは自身の考えを全員に伝え、第五の奇跡で得られるであろう結論についての予測を話したのだった。


                 * * *


 後は流れに身を任せるだけ。それは警察や政府、機構やアヤメに限ったことでは無い。自分達も同じことである。

 教会の主祭壇前でロザリアは一連の奇跡による結末が近いことを感じ取っていた。

 4日後の9月13日に起きるとされる第五の奇跡。その1か月後に起きる第六の奇跡。その2つの奇跡をもってこの国で起きている事件は全て終焉を迎える。

 国連に所属する彼女のように未来を読み取ることは出来ないが、ここまでくれば過去の記憶しか読み取ることが出来ない自分でもあとの結末は容易に想像がつく。


 出来ることはやった。出来ないことは託した。

 “目に見えるものが全てではない。”

 その言葉の意味に機構の面々が気付いてくれるかどうか。

 いや、彼らなら必ず気付くだろう。


 両手を胸の前に合わせて目を閉じ、祭壇に跪きながら主への祈りを捧げる。

 もう間もなく今日という日も終わりを迎える。太陽が西の彼方へと沈み、夜の静寂が訪れる。

 嵐の後には凪が訪れるというが、この国にこれから訪れようとしているものは紛うこと無く再度の嵐だ。

 数日後から再び巻き起こる嵐を乗り越えた先、数か月に渡り積み重ねてきたことが実を結ぶように。

 多くの人々が信じた一粒の麦が死すとき、この国は新たなる豊かさという実りを享受することになるだろう。

 己を愛するものはこれを享受できず、自らを憎むものはその生命と引き換えに永遠の命へと至る。

 

 狭き門から入るがよい。

 滅びに至りし門は大きく、その道は広い。

 しかし、その門をくぐりし者は多い。

 生命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者は稀なり。



 彼らならきっと、その道を見出すはずだ。その道を照らす “光” も伴っているのだから。

 ロザリアは目を開き祭壇の像を見上げ、行く末の決した運命に思いを馳せた。


                 * * *


「以上が本日の事件の詳細と事後対応結果です。」

 大統領執務室に流れる沈黙。目に見えるほど疲弊した様子のジョージは机に視線を落とし重ねた両手を眉間に当てて俯く。

 ウィリアムは既に疲労が限界まで溜まっているであろうジョージの姿を見て言う。

「大統領、本日はもうお休みください。連邦議会への提出書類も含めて後の事務処理は私が全て引き受けますので。」

「すまないな、ウィリアム。君にはいつも苦労を掛ける。」

「いえ、大統領のなされている職務に比べればどうということもありません。」


 薬物密売組織が国内に流入してきたことが明らかになって以来、この国の舵取りは困難を極めた。

 この件に関する協議や対外国首脳との会談などにおいて大統領が背負ってきた重圧は凄まじいものだったに違いない。過去の記憶を思い返しながらウィリアムは思った。

 事の始まりは小さなものだった。

 最初はブウやシャカウによる興奮作用、又は鎮静作用によるものだろうと思っていたそれが、実は薬物使用による症状だったと判明した時は相当な衝撃だったことを記憶している。

 外国からの観光客を狙った悪質な薬物密売を始めとして、いつの間にか国民の間にも蔓延していたそれは、気付いた時には歯止めがかけられない制御不能状態に陥っていた。

 政府と警察による調査により、薬物密売組織マルティムという存在があることを突き止めはしたが、それが国内のどこを拠点に活動をしているのか現在においても不明なままであり、正直なところ国民に警戒を呼び掛ける以外に手の打ちようもない状況だ。


 その中で起きた奇跡。アヤメ・テンドウによる聖母のお告げ。太陽の奇跡の再来。

 どれほどの時間が経っても解決の糸口を掴めない閉塞感を打破するこの事件は多くの国民に希望の光として映ったに違いない。

 第一から第四の奇跡までを経て、彼女の繰り出す力強い言葉に数多の国民は縋った。


“彼女こそ我らが求めた希望の光、神の御使いである” と。


 たとえその言の葉が紡ぎ出す希望が流血を伴う殺戮的解決策の提示だったとしても。

 国民の間に広がっていた感情は明確だ。【いつ自分が被害者になるか分からない。】

 そんな目の前の恐怖と苦しみから解き放つことを約束してくれた彼女の奇跡は、最後の瞬間まで国民にとっての心の拠り所となり続けるだろう。

 その先に待つ、苦しみからの解放と大いなる自由の享受を夢見て。

 こうした考えはこの国で暮らす国民にとってはおそらく正しい。もし、仮に自分が政府首脳の秘書官という立場で無かったとすれば、多くの国民と志を同じく彼女の奇跡による問題解決を願ったに違いない。

 いや、本当のところは今も心のどこかで『それで全てが解決するならそれで良い』と願ってしまっているのかもしれない。

 だが、目の前に待ち受けるものがどれほど困難な道のりであったとしても自分がその願いを受け入れることは許されない。神の名を用いた代理殺人による解決策を決して許すわけにはいかない。

 これを許してしまえば、もはや問題はこの国だけのものではなくなり、世界中に数億人と存在する教徒を巻き込んでの宗教争いを引き起こしかねない。

 かといって、アヤメという少女を罰して封じ込めることもまた愚かな間違いであることは明白だ。その行為は国民の希望を政府が自ら握り潰すという行為に等しく、薬物密売組織の存続に加担する行動にも等しい。

 この考えは大統領も同じはずで、だからこそ国民と世界と責任の狭間で葛藤しながら戦い続けてきた。


 これより4日後、いよいよ第五の奇跡が執り行われようとしている。

 奇跡を許容するわけにもいかず、奇跡を止めるわけにもいかない。

 もはや我々に出来ることは、これらがもたらす結末の行く末を見守りながら事後の対応に賭けて策を練ることくらいだ。

 唯一の希望と言えるのは機構の存在である。彼らが奇跡の正体を暴き、組織に対する天の裁きを止めた上で密売組織そのものの瓦解を導くことが理想だが、この可能性だけに賭けるわけにはいかないだろう。

 この国の未来は、この国で生まれ育った者やこの国に住まう者の手で守らなければならない。


 その為に自分に出来ることを成す必要がある。


「それでは、私は失礼いたします。どうかごゆっくりお休みください。」

 ウィリアムはジョージにそう告げると執務室を後にした。

 出過ぎた真似になるかもしれないが、この国の未来を憂い思う心の導きのままに。

 守るべきものを守る為の決意を新たにその一歩を踏みしめた。


                 * * *


 コロニア市に日暮れが訪れる。

 夜の帳が降り、星々の輝きに照らされた海と大地が淡く光る。

 アヤメは自宅の部屋で変わらず膝を抱えたまま静かに俯いていた。

 両親は帰宅した直後にアヤメのことを力いっぱい抱き締め、何を語るでもなく無事に戻ってきたことに安堵していた様子だった。

 そして、事件のことで元気を失っている自分を気遣って今日は多くの言葉はかけることなくそっとしてくれている。


 静寂が支配する空間でただ時間だけが刻まれていく。

 そんな中、暗い部屋の中で落ち込み続けるアイリスにアヤメが声を掛けた。

『ねぇ?アイリス、星を見ない?』

「気分じゃないわ。」アヤメの誘いをすぐに断る。

『そう言わずに、さぁ。私が星を見たいのよ。』

「ベランダには出るなって釘を刺されちゃったから、外には出られないわ。」

『カーテンを少しだけ開けて眺めるだけで構わないわ。』

 アヤメの言葉にアイリスは渋々立ち上がって窓辺へと立つ。僅かにカーテンを開き星空を見上げた。

 幻想的な柔らかい光が部屋に差し込む。真っ暗闇の中にずっといたからだろうか、その僅かな明るさすらも目の奥に響くような気がした。

「満足した?」

『いいえ、もっと見ていたいの。』

「そう。」

 2人の間にそれ以上の会話は無い。窓辺から空に煌めく星を見つめ続ける。


 5分が経過したくらいでアヤメがアイリスに言う。

『昔、マリアお姉様と貴女もこうして一緒に星を眺めたのよね。』

「え?」

 唐突な言葉に反応できずにアイリスが口ごもる。

『その時、お姉様は貴女にどんなお話をしたのかしら?良かったら聞かせてくれない?』

 アイリスは遠い昔のことを思い返しながら言う。

「そうね…よく口にされていらっしゃったのは〈変わらない日常は何よりも尊い〉ということだったかしら。昔の世界というものは、この時代と違って争うことばかりだったから。何の変化も無い日常を過ごすことが出来るのは幸せなことだと、そうおっしゃっていたわ。」

 そう言ったアイリスはマリアと2人で星空を眺めた時のことを思い出し自然と話の続きが口に出た。

「でも、変わることのない世界は何よりも退屈だともおっしゃっていた。当時の慣例やしきたりといったルールに則って、自らも最初から定められたレールの上を進むだけのような未来を過ごし続けることは退屈だって。」


 部屋の床にゆっくりと腰を下ろしたアイリスは、カーテンの隙間から見える星空を見上げながらその後もマリアと話した思い出をアヤメに語る。

 レナトとイベリスの婚約が正式に決まった日のこと。

 自分はいずれ他国へ嫁がされてありきたりな未来を過ごして生涯を終えるのだろうということ。

 そうしたありきたりな日常の中で、リナリアの美しい自然はいつまでも変わらずにあってほしいと願っていること。

 そして…気兼ねなくこういった本心を打ち明けられる自分と会話する時間がとても楽しいとおっしゃってくれたこと。

 長く話をする中で、アイリスは自身の頬を伝う一筋の雫に気が付いた。

 彼女との思い出を話している内に知らず、涙を流してしまっていた。


 マリアと過ごしたかけがえのない時間。

 遠い昔、両親以外で唯一自身に手を差し伸べてくれた優しい人。

 そんな彼女に苦痛を与え死に至らしめた憎き戦争。

 やり場のない怒りに震えた千年前のあの日のこと。


 あらゆる感情が入り乱れてアイリスの心ははち切れそうになる。

 やがて涙で声が震えて喋ることが出来なくなったところでアヤメが言った。


『アイリス。今から貴女に一つだけ質問をするからよく考えて答えて。』

 ふいに言われた言葉にアイリスは耳を傾ける。

『第五の奇跡と第六の奇跡、続けるのかここで止めるのか。貴女が選んで、貴女が決めなさい。私は貴女の意思に従うわ。』

 アヤメはアイリスに決断を迫った。

 今日という一日の出来事で心が折れそうになっていたアイリスにとって究極ともいえる二者択一だ。

「私は…」それ以上は言葉が出ない。何を言っているんだと言おうとしたが、それを言葉にすることは出来なかった。

 迷い。どうしようもなくわき上がってくる心の迷い。今日の出来事が自身の決断に暗い影を落としている。


 アヤメの問いを聞いた時、アイリスの頭の中にこれまでの記憶が走馬灯のように駆け巡った。


 時代を越えて現代に目覚めてアヤメと初めて出会った時のこと。

 何も分からなかった自分に彼女が色々と教えてくれたこと。そして自らも過去のことを色々と話したこと。

 彼女と共に2人の願いを叶えると約束したこと。

 この国の未来を守りたいという彼女の願い。

 親愛なる人にあの日伝えられなかった言葉を伝えたいという自身の願い。

 2人で決めて、2人で考えて、2人で成し遂げようと誓ったあの日のことを。

 そして最後にアイリスの脳裏に、遠い昔にマリアと星空を眺めた時に彼女に言われた言葉が響く。


 “アイリスは、たった一つだけ願いが叶うとしたら…何を願う?”


「私は…」

 一度言葉を区切り、目を閉じながら深呼吸をする。


 お姉様、私は貴女に会いたい。


 涙をぬぐい再び目を開け立ち上がると、真っすぐに目の前に広がる星空を見据えてアイリスは言った。

「…やるわよ、アヤメ。私達の願いは何も変わらない。」

『そう来なくっちゃ。』安心した様子でアヤメは返事をした。

「ごめんね、もう迷わないから。」

 立ち止まる必要などない。迷う必要などない。

 これは自分達2人で決めたことだ。そして、自分達2人が成さなければならないことだ。


 未来を思う願い。

 過去を想う願い。

 それだけが私の、 “私達の望み” なのだから。

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