第14節 -妖艶なるパトリアルクス-

 時計は午後1時を回ろうとしている。

 機構支部の第一会議室内にはハワードとマークת、イベリスの姿があった。これからヴァチカン教皇庁の使者との会合が始まる予定だ。

 室内では誰も言葉を発すること無く静かに着席して待機している。先方から持ちかけらた会合においてどんな話がされるのか皆それぞれが頭の中で考えを巡らせているらしい。


 時計の針が午後1時を指すほんの少し前に会議室の入り口扉が開く。リアムが2人を連れて来たようだ。

「どうぞ、中へお入りください。」

「失礼致しますわ。」室内に艶やかな少女の声が響く。

 会議室内の視線が自然と入口へと集中した。そして、直後に姿を現したヴァチカンの使者2人を見た全員が驚きの表情を浮かべることとなる。

 修道服に身を包んだ2人の女性。驚くべきことに彼女らの年齢は共に十代後半といったところで、あどけなさも残るような少女だったのだ。

 美しいストレートのプラチナゴールドの髪に透き通るような深みのあるオーシャンブルーの瞳の少女と、ローズゴールドの緩やかなウェーブのかかるロングヘアをしたレッドパープルの瞳の少女。

 察するに、鮮やかなプラチナゴールドの髪色をした人物が総大司教だろう。

 目の前で言えるようなことではないが、事前通達がなければとてもヴァチカン教皇庁の要職についている人物には見えない。清廉さよりも妖艶さの方が勝る不思議な雰囲気と精神の底から惹き込まれそうなほどの魅力を纏う少女達だ。


 玲那斗はイベリスへ視線を向ける。目を丸くして驚愕した様子を見せているところを見ると、昼食時に話をした人物本人で間違いないのだろう。

 自分の中でも彼女の姿を見た瞬間に鼓動を強く感じるような重たい感覚があった。

 その考えを確実なものとする行動をイベリスは取る。机の上に置いた手の指先で軽く机を2回ほど鳴らしたのだ。

 これは昼食時に2人の間で決めたルールである。もし、入室してきた人物が自身の知る人物で間違いない場合は小さな音を2回鳴らすという合図を決めていた。

 ひとつ意外だったのは、室内でフロリアンだけが彼女の姿を見て怪訝そうな表情を浮かべていることだ。

 客人に対してそうした表情を彼が浮かべるのはとても珍しい。むしろこれが初めてだろう。


 機構の全員が一斉に椅子から立ち上がる。そして2人の使者が近くまで歩み寄り自己紹介を始めた。

「機構の皆様、初めまして。ローマカトリック教会 ヴァチカン教皇庁の使者としてこの場に馳せ参じました、ロザリア・コンセプシオン・ベアトリスと申しますわ。」

「同じく、アシスタシア・イントゥルーザと申します。」ロザリアに続いてアシスタシアも名を名乗る。

「本日はわたくし共の要請にお応え頂き、このような場を設けて頂いたことに深く感謝申し上げます。この地で起きている事象に対するわたくし共の考えをお話させて頂きたく存じます。短い時間となりますがどうかよろしくお願いいたしますわ。」

 挨拶を終えた二人は十字を切りながら礼をし祈りを捧げる仕草を取る。その後ゆっくりと一列に並んだ機構の一同の元へ向かって歩き出し、一人一人と丁寧に握手を交わしていった。


 ハワード、ジョシュア、ルーカスと握手を交わし、フロリアンと握手を交わす段になってロザリアが言う。

「お久しぶりですわ。こんなところで再会出来るだなんて。おおよそ5年前にハンガリーの地で出会って以来となりますわね。主のお導きによる運命とでも申しましょうか?あの時は名を名乗ることも出来ませんでしたが、ここで再会したのも何かの御縁。改めて、宜しくお願い申し上げますわね?」

「はい。どうぞ宜しく。」柔らかく甘美な声に蠱惑的な表情を浮かべて言うロザリアに対しフロリアンはとても簡潔に素っ気なく返事をした。


 フロリアンは明らかに警戒の色を浮かべている。

 隣で玲那斗はそう感じていた。彼女達が入室した時の表情や今のこの対応を見る限り間違いない。それが一体どういう理由によるものなのかまでは分からないが。


 続いてロザリアは玲那斗に歩み寄って握手を交わす。

 握手を交わして視線を合わせた際に彼女は言葉こそ発しなかったものの、ふっと微笑んだのが印象的であった。

 言葉が無くとも意思を感じられるような、何か含みの有るような表情だった。握手を終えると彼女はすっと視線を逸らして前に進む。

 そして最後にイベリスの元に歩み寄りロザリアは手を差し出した。イベリスも無言で手を差し出して握手を交わす。

 にこにことした穏やかな表情のロザリアに対し、やや警戒をするような硬い面持ちのイベリス。そんな2人が握手を交わした時、ロザリアは意外なことを口にした。

「そう、貴女がイベリス様。お初にお目にかかりますわ。どうぞ宜しく。」

「初めまして、総大司教ベアトリス。こちらこそよろしくお願い致します。」一瞬だけ不意を突かれたような表情をしたイベリスであったが、すぐに切り替えて “初対面である” という体で挨拶をした。

 握手を交わして以後も柔らかな笑みを浮かべ続けるロザリアに対してイベリスは凛とした表情のまま変わらない。


 彼女達のやり取りを真横で見た玲那斗は内心で戸惑った。


 どういうことだ?


 イベリスの合図によれば目の前にいる少女が彼女の知るリナリア公国出身の人物と全くの同一人物であることは疑う余地は無い。

 さらにロザリアというこの少女は大統領へイベリスの存在を的確に、明確に伝えた人物のはずだ。彼女のことを知っていると自ら対外的に公言しているような人物が、本人を目の前にして “初めまして” という挨拶をしてくるのはやはり違和感がある。

 両者が知り合いであると確実に認識しているのはこの場において彼女らを除けば自分しかいない。

 故に他の皆にとっては特に違和感を感じるような場面ではないし、その挨拶こそが的確な挨拶とも言えるのだが…

 本当に彼女にとっては初対面であるという可能性も捨てきれないにしても、もうひとつ別に考えられるのは、この場において彼女がわざと嘘を吐いたという可能性だ。

 どういう目的があるのかまでは分からないが、何か考えがあってそのように振舞っているのではないか。

 彼女の行動が意味する事柄がこの会合で明らかになるのかについては定かではないが、どうやらロザリアは “自分のことについて” は委細をこの会合で話すつもりは無いらしい。



 全員と挨拶を終えたロザリアとアシスタシアは会議室中央に設置された机の周辺を回って機構の面々が座る位置の対面に座した。

 最後にリアムがハワードの隣に着席し、会議の始まりを告げる。

「それでは、これよりヴァチカン教皇庁と機構の会合を開始します。総大司教ベアトリス。まずは我々との会合における主旨、目的についてお話を伺いたい。」

「えぇ、まずは総論から申し上げましょう。わたくし共はこの国で現在起きている事象に関して対応に当たるため、機構の皆様方とは早急に緊密な協力関係を築きたいと願っています。その為にお声掛けさせて頂きました。」ロザリアは会合を求めた理由を端的に述べた。

「それは我々も同じ思いでいる。この状況下においてあらゆる機関と協力関係を結ぶことは調査を進める上で非常に重要なことだ。そして現状は情報自体が国外に出ていない為に騒ぎにはなっていないが、件の少女が起こす奇跡についてカトリック教会総本山であるヴァチカンがどのような認識を持っているのかをまずは確認したい。」ハワードはロザリアの意見に賛同の意を示しつつ、ヴァチカンが今回の事象に対してどういった認識を持ち、どのような立場を取るつもりなのかを冒頭で確認する。

 質問に対してロザリアはすぐに回答した。

「当然、その為のお話合いですもの。まず、結論を申し上げればアヤメさんが起こす事象をヴァチカンは未だ “奇跡” だと認定しておりません。太陽の異常な活動、あらゆる病を治癒する水の現出、これらは過去に起きたファティマやルルドの地で起きた事例に限りなく近い例と言えましょう。しかし、大きく異なるのは目的がはっきりとし過ぎていることであり、それが我々にとって容認しがたい内容であるということですわ。」

「特定組織に対する殺害予告とも受け取れる内容のことだな。」

「その通りですわ。教会は一連の事象に強い懸念を抱くと同時に即時に彼女の行為を停止させたいと考えています。彼女の行為は我らの主たる神のお導きとは言うに及ばず。彼女自身の持つ力による作為的なものと断言致しましょう。我らの神の名を騙り、あのような言葉を使っての蛮行を見逃すわけには参りません。教会が認める奇跡とは “人の救いの為に必要な行いが聖霊により示されること” を指します。どんな罪人であれ、人を殺める為の一連の行為が認められることはありません。聖霊によらない一個人の意思に基づいたこれらの事象を教会法による真偽判定にかけることもありませんし、国外に情報が出回る前に第五、第六の事象を止めたいというのが真なる我々の希望ですわ。」

 ロザリアは教会の意向を代弁し、どういった結末を希望しているか答えた。

「現状、第五の奇跡までは時間がない。その中で奇跡の停止にこぎつけるのは限りなく難しいとお伝えせざるを得ない。しかし、今しがた貴女は奇跡について彼女の力による作為的なものとおっしゃったが、どのような仕掛けで起きている事象なのか把握しているとでも?」ハワードが気になった点を指摘する。

「それを調べるのは貴方がたのお役目となりましょう。奇跡と認定せず、事象を認めない意向を持つわたくし共は彼女の力の詳細に関わるつもりがありません。」

 彼女の言い分に室内の空気が一気に悪い方へ傾いたことをその場の誰もが感じ取った。

 自分達の言いたことだけを述べ、あとは関わるつもりはないから丸投げすると公言したに等しいロザリアの物言いに対しルーカスが口を挟む。

「言い切る割には随分と歯切れが悪いですね。先程からの話を伺うに、貴女がたは教会の体裁を守る為に我々を小間使いしようというような内容をお話されているように感じられるのですが。」

「少々お慎みをもたれた方がよろしいかと。」最大級の皮肉を込めた言葉を放ったルーカスに対しアシスタシアが牽制する。

「おやめなさい、良いのです。元より本日は我らが伏してお願いを申し上げる立場なのですから。そう言われても致し方ないこと。」ロザリアはアシスタシアを制止した。表情ひとつ変えることもないが、先ほどの言葉を詫びながら話を続ける。

「少々物言いが過ぎたことはお詫びいたしますわ。されど全世界で20億人。この数が何を示すかは御存じですわね?」

「キリスト教を信仰する人々の数です。」リアムが答える。

「はい。仮に教会がどういった立場を取るのか明確にした場合、奇跡と認める認めないどちらにせよ信徒たちの間でかつてないほどの軋轢を生む結果しかもたらさない。それこそ大惨事を引き起こすというもの。そのことについても貴方がたは重々理解しておられるはずです。」

「我々の間でもそのことについては意識を共有しています。だからこそ、対外的に貴女がたが本心ではどのようなお考えを持つのかこの場で確認したかった。その為の会合ですから。」リアムが答える。

「わたくし共は機構の皆様方やミクロネシア連邦政府に対し、一連の事象を奇跡と認めないと改めて申し上げます。加えて、即時に行為を停止させたいという意向はもつものの、先のような理由によって我々の対応は基本的には静観であるとも。ただ、貴方がたが必要だという情報などがあれば協力は惜しむつもりはありません。情報のパイプ役程度であればこなして見せましょう。」

「教徒の感情を刺激しない為に、今の状況が分かっていながら敢えて何もしない。貴女ご自身はそれで良いと?」彼女の言い分に納得いかないルーカスが食い下がる。

「人の心の内に秘める感情の在り方について、この中で貴方ほど詳しい方もいらっしゃらないでしょう?先にも申し上げましたが、わたくし共が迂闊に関与を示して信徒たちの間で混乱が広がることは避けなければならない。これが道理だということはご理解頂けまして?それに、分かりやすく申し上げれば最初からわたくし共には “奇跡を止める術” などないのですから、それ以外にしようがないというのが実情ですわ。」ロザリアは穏やかな微笑みを浮かべたまま真っすぐにルーカスの瞳を見つめ挑発的な言葉を放った。


 ルーカスは強く歯を噛み締めてそれ以上何も言い返さずにいた。

 いや、 “言い返すことが出来ない” のだ。

 過去に研究者としてドイツ企業で高度なAI開発の研究に自らが没頭していた時、人間個人の感情の動き方というものには嫌と言う程触れて来た。

 機械の示す理想と人間が示す理想の在り方の間で葛藤し、心を曇らせそうになったことだってある。

 今この場でロザリアは自分のそういった過去を的確に見抜いて返答をしたみせた。

 世界中に散らばる信徒達が一連の現象を見た上で、教会がどういった立場を表明すればどのような混乱を引き起こすことになるのか…その結末は自分には容易に想像が出来る。

 彼女の言う通り、敢えて静観するという立場が道理であることも認めざるを得ない。

 教会としては現段階で奇跡と認定することも否定することも実際のところは出来ない。殺人の肯定も出来なければ、過去のルルドやファティマの事例に限りなく近い事象の否定も出来ない為だ。


 認めれば殺人を含めた行為を “奇跡” として肯定するのかと信徒は憤りを覚えるだろう。

 認めなければ過去に起きた “奇跡” の事象を否定するのかと信徒は悲嘆にくれるだろう


 だからこそ、超常的な部分に関わる真偽判定は教会ではなく機構が引き受けろという話を彼女達はしている。

 権力や権威を持つもの特有の一方的な物言いが酷く気に入らないが、最初から立場としての筋はしっかりと通しているのだ。


「昔から変わらないな。」ルーカスに代わってジョシュアが言う。信仰による権威性を前面に押し出す教会に対する皮肉だ。

「あら、貴方はお優しいですわね?自らの部下の気持ちを守る為にご自身の信仰心を一時的に擲つ覚悟がお有りになるとは。貴方とて我らと同じ主を共に信仰する御仁でしょうに。」柔らかな微笑みの裏に薄っすらと垣間見える狂信を湛えてロザリアは言う。

「俺は信仰ライト層でね。貴女がたのように “神にこの身を捧げる” とは決めていないんだ。人の世を動かすのは常に人であるべきだ。よって、こういった場合は神ではなく人の心に寄り添いたいと思っている。」

「まぁ、それは尊きお考えですわね。 “信仰ライト層” なる斬新な響きの言葉はさておき、素晴らしき人格をお持ちのご様子。まさに我らが尊ぶべき心の在り方。しかして否定をしているようで神の教えに従う心の在り方。わたくしは貴方に敬意を表しましょう。」


 ジョシュアとロザリアの視線がぶつかっている。

 まずい状況だ。これ以上に無駄な言葉を積み上げれば会合が破綻しかねない。玲那斗は室内に充満する空気の悪さを感じ取ってそう直感していた。

 この状況においては何を言うかではなく誰が言うかが問題だろう。

 ルーカスや隊長がこれ以上に言葉を発するわけにはいかない。だが、隊のメンバーではない少佐やモーガン中尉が言葉を発すれば、以後のやり取りでルーカスや隊長が発言しづらくなる。

 そう考えた玲那斗は根本から話題を逸らしにかかる。いずれにせよ聞いておかねばならない重要な内容を改めて尋ねることにした。

「総大司教ベアトリス。一つ私からも聞いてみたいことがあります。」

「ロザリア、で結構ですわよ?貴方様は。」

 満面の笑みを湛えながら甘美な声で彼女は言う。そんな発言に玲那斗は話の腰を唐突に折られたような錯覚を覚えた。まるで意識してない時に後ろから膝を突かれたような脱力する感覚だ。

 慈悲に満ちた微笑みを浮かべた彼女は何の脈略もなく、話を聞く聞かないを示すことも無くそう言った。

 呆気にとられた様子の自分を見て満面の笑顔を浮かべたロザリアは言葉を続けた。

「失礼致しました。聞いてみたいこととは何でしょう?」

「いえ、すみません。」なぜ自分が謝っているのだろうか。何とも言えないやり辛さを覚える。しかし心を強く保ち、気を取り直して彼女に質問をする。

「貴女はイベリスのことをどこでお耳に入れられたのでしょうか?」言葉を捻ることもなく、ただストレートに聞きたい質問を投げかける。

 その質問を聞いたロザリアはきょとんとした表情を一瞬浮かべた。その後、怪しく微笑みながら言った。

「風の噂、とだけ申し上げておきましょう。リナリアの国を支えるはずだった王妃様。花のように美しい御仁。光を操り、多くの奇跡的事象を成し遂げる存在。貴方がたマークתの皆様が事件解決と共に彼の島より救い上げた魂。そのようなお話を耳にしたというだけのこと。今日、直接お会いできたことを光栄に思っていますわ。」

 答えているようで何も答えていない。機密とされる内容をここまで知っていると公言するのであればこちらも隠し立てする必要は無いだろう。

 きちんとした答えを聞き出すために踏み込んだ話をする。

「彼女の情報は我々の機密です。その内容はとても “風の噂” というものだけで知り得るような事柄ではありません。どこかで聞いて耳にしたというよりは “最初から知っていた” というような印象を受けますが。」

 詰問の言葉に対し、ロザリアはにこにこと微笑みを浮かべたまま返事をすることは無い。

 厄介な人物だ。ふわふわとしていてまるで掴みどころがない。その癖、自らが相対する相手に対しては “一番突かれたくないこと” を的確に撃ち抜いてくる。まるで相手の過去や経験に基づく心の内を全て見透かした上で会話しているような印象すら受ける。

 今の状況であれば “聞かれたことに対して言葉を発しないことが最善” という選択肢を的確に選んでいることになるだろう。

 僅かに会話しただけで相手の精神や感情にここまで強い働きかけをする人物など今まで見たことがない。

 尚且つ、会合そのものが破綻しない絶対ラインというものも的確に見定めている。要は自分達の要求と要望、伝えたいことが100パーセント通る状況をうまく作り上げているのだ。

 会合が始まる以前にフロリアンが彼女を酷く警戒していた理由がここにきてようやく理解出来た。


 玲那斗が何も返事をしないロザリアに困り果てている時、今までずっと口を閉ざしていたイベリスがふと口を開いた。

「そういえば…」皆の視線がイベリスに集まる。

 イベリスは自分に向けられたロザリアの瞳を真っすぐに見つめながら言葉を紡いだ。

「遠い昔、今から千年より前。私がまだ肉体を持ってこの世に生きていた時に貴女とよく似た知り合いがいました。彼女はリナリア公国を治める七貴族の一家の令嬢で、神に対する信仰が厚く、また人を惹きつける魅力に溢れ、聖典の内容を教え導く才能に溢れる人物でした。ある時、彼女は類まれなる才能を見込まれて当時のローマ帝国〈サンピエトロ寺院〉へ招かれ、以後はその地で神に仕える道を選んだと聞いています。私自身は彼女と言の葉を交わしたことはあまりありませんでしたが、あの当時に強い志を持って公国を出るという決断をした彼女のことを大いに尊敬したものです。今日、この場で貴女のお話を聞いているとなんだか当時を思い出して懐かしい気持ちになります。」

「それは僥倖。わたくしのような者を見て、貴女様が尊敬された御仁を思い起こされるとは筆舌に尽くしがたい喜びを抱きますわ。」

「えぇ、とても尊敬していましたよ。 “当時を生きた” ロザリアという少女のことを。」


 イベリスの言葉を聞いたロザリアの表情が初めて崩れるのが見て取れた。

 すぐに笑顔で取り繕ったが、そのほんの僅かな一瞬を玲那斗は見逃さなかった。

 イベリスの言葉は彼女の心に大きな揺さぶりをかけるものだったのだろう。


 今、目の前にいる総大司教は自分の尊敬したロザリアという少女ではない。故に “今この場にいる貴女は尊敬する対象とはなり得ない” というメッセージを暗に発している。

 これで先程の自分の質問に答える気になるかどうかは別として、向こうの反応を見る限りではなかなかに効果的な話だったようだ。

 ロザリア自身がイベリスに対してどういった思いをもっているかによって対応が変わるだろうが、先程の狼狽えた表情を見る限りではイベリスの揺さぶりは大成功だと言っていい。


「特に関連のないお話をしてしまってごめんなさい。どうぞ、お話を続けてください。」

 今もってロザリアは無言だ。ただし自分と会話をしていたときと違って意図的な余裕をもって無言を貫いているというわけでは無さそうに見える。

 相手に何も言い返させることも無く、余裕の表情を浮かべてイベリスは話を終わらせた。


《当時のような崇高な心を未だにもつのであれば全て話せ。》という強力な圧力がイベリスから放たれている。

 いつも無邪気に笑う可愛らしい彼女からはなかなかに想像できないプレッシャーだ。


 これが基本的な貴族同士の日常だったのだろうか。それとも王妃となるものが備えなければならなかった資質というものなのだろうか。

 なかなかに胃の痛くなるような殺伐とした空気感が漂っている。


 玲那斗が場に満ちて澱みきった空気の悪さを肌で感じていた時、しばらく黙り込んでいたロザリアがおもむろに口を開く。

「姫埜様のご質問はどこでイベリス様のお話を耳にしたのかということでしたわね。良いでしょう。わたくしがお答えできる範囲でお話致します。」先程までの掴みどころのない微笑みは消えている。

 玲那斗は驚いた。どうやらイベリスの言葉は掴みどころがないと思われていた彼女の琴線に触れたらしい。

「皆様は機密文書館と言う施設をご存知でしょうか?」ロザリアが問う。

「ヴァチカンに存在する歴史上の重要な書物を所蔵した図書館だったか。」ジョシュアが返事をした。

「はい。地球史における重要な書物や各種原典を保管すると同時に、人の目に触れることがあってはならないと指定された機密文書を保管している場所です。わたくしは教皇猊下の他に世界中で唯一機密文書館の鍵を預かり、その区域への立ち入りを申請する者の是非を区別する権利を有する身です。」

「そうなのか。教皇以外では首席枢機卿が鍵を持つものだとばかり思っていたが。」ジョシュアが言う。

「やはり貴方はお詳しいですわね。先程は神に寄り添うつもりはないとおっしゃられましたが、尊ぶべき信仰心は誰よりも深く持っておられるご様子。機会があれば共にお話させて頂きたい気持ちが湧き上がりましたが…今は置いておきましょう。おっしゃる通り、通常であれば枢機卿団の中でも上位に位置する司教枢機卿、さらにその筆頭である首席枢機卿を担う方が鍵を預かっていると考えるでしょう。ただ、司教枢機卿の親任を得て司教職叙階の後に総大司教から司祭枢機卿の階位を得ることもあれば、東方教会や正教会などの諸会派によっては司教枢機卿の階位を与えられることもあります。わたくしはそのどちらとも異なり枢機卿の階位を与えられている者でもありませんが、諸々の理由により猊下より鍵を預かるという大任を仰せつかった身と申し上げておきましょう。」

「色々あるのね。」小声でイベリスが呟く。

 それを聞いたロザリアはイベリスに向かって穏やかに微笑んだ。そして安堵のような小さな溜め息をついて話を続ける。

「話を戻しますが、そんなわたくしの元へ今からおおよそ5年ほど前、ある人物が機密文書館への入館申請を出してこられました。相手がどういった人物であれ、むやみに許可を出すことは出来ませんのでしばらくの間はそのままにしておいたのですが…度重なる熱心な申請にいよいよもって根負けしたわたくしは、身辺調査を含めた正式な入館審査の手続きを行い機密文書館へその人物を招きました。」

「流すようにおっしゃるが、文書館への入館審査自体は世界中のどこよりも厳しい審査のはずだ。そもそも正式な入館審査へ移行することすら有り得ないレベルと言っても過言では無い。となると、その人物はかなり社会的信用を得ている人物と推察するが。」ロザリアがあっさりと入館を認めたという話に対してハワードは言った。

「ここまで申し上げておいて言うのも憚られますが、そうした情報をわたくしの口から申し上げるわけにはまいりませんので、ここでは “かなり高い地位を持っておられる方” とだけ。ただ、そうですわね…強いていうなれば灰色の枢機卿とでも申し上げておきましょう。」ロザリアはハワードとジョシュアの両名だけに視線を送りながら答えた。

 その単語を聞いてハワードとジョシュアは眉をひそめた。灰色の枢機卿とは政治的黒幕を指す際に使われる表現だからだ。

「その方が何をお調べになったかについても申し上げることは出来ませんが、わたくしに “個人的に” お話してくださったことだけをお話しすると致しましょう。その人物が調べ物を終えた後に個人的にお茶を共にする時間を共有したのですが、その席で “彼女は” リナリア公国のお話とイベリス様のお話をわたくしにしてくださいました。」

 ロザリアは〈彼女〉という単語を発した際に今度はフロリアンへ強く視線を送った。

「歴史にとてもお詳しい方ですので、一般的な歴史書などには記載が無い事項についても詳細にご存知でした。世界で有名な七不思議のひとつであるリナリアの怪異や、そこで目撃されたとされる少女のことなど一般的に出回っている情報はもちろんのこと、リナリア公国の王家の家系についてのお話も含めて。わたくしがイベリス様のことを深く存じ上げているのはそういった事情あってのことだと申し上げましょう。」

「貴女が彼女のことについて耳にした経緯は分かりました。しかし、リナリアの事象を起こしていた存在が彼女であることや、彼女の持つ力のこと、さらに機構に現在彼女が所属していることなどはそれだけでは知り得ないお話のはず。それをご存知であった理由を私はお伺いしているのです。答えるべきところをまだお答えになっていない。」玲那斗はロザリアへ詰め寄る。

「これは手厳しいですわね。うわべだけのお話では見逃して頂けないご様子。さすがは世界に名だたる調査機構。」無邪気に笑いながらロザリアは言った。

「ロザリア様、宜しいのでは?これでは協議がまるで進みません。」彼女の隣に座るアシスタシアが嗜めるように言う。

「えぇ、そうですわね。大変失礼いたしました。わたくし共としてもこの会合における協議が流れ去ってしまうのは本意ではありません。事象解決の為にイベリス様の持つ特別な力がどうしても必要だということを承知しているからです。我らと協定を結ぶ上で、姫埜様がご質問なされた情報がどうしてもお知りになりたいとおっしゃるのであれば包み隠さずお話いたしましょう。ただし、その内容が意味するところについてどうお考えになるかは貴方がた次第にございます。」ロザリアは今までの話は全て前置きだとでも言うように話す。

「我々としても出所の分からない情報を握る第三者と協力関係を結ぶという点において、信用という観点から明らかにしなければならない内容であると認識している。」ハワードが返事をした。

「良いでしょう。では、申し上げます。イベリス様の情報に関しましては他ならぬ “貴方がた機構よりヴァチカンへもたらされた情報” にございます。」

 イベリスを除いた全員の表情が険しくなった。

 機構から情報が提供されていた?機密扱いの情報が第三機関に対して?

「どういうことだ?機密事項が漏洩しているとでも?」ハワードが問う。

「いえいえ、そのようなことは。よくお考えになってくださいまし。わたくしは先程 “機密文書館に所蔵されているものがどういった分類のものであるか” をお話いたしました。皆さま誤解をなさっているかと存じますが、それは何も本として形ある文書ばかりではありません。貴方がたが取り扱う調査データの内、機密区分に分類されるようなデータも場合によっては機密文書館にデジタル媒体として所蔵されるのです。漏洩ではなく、正式な手順に基づき蔵書されたデータですわ。」

「リナリア調査記録が機密分類も含めて文書館に存在すると?」

「えぇ。お茶の席で個人的にお話を頂いた内容に関連する事柄でしたので、興味深く “全てを” 拝見させて頂きました。」

 今まで謎であった情報の提供元が他ならぬ機構であるということに驚きを禁じ得ない一同であったが、その話であれば彼女達が自分達と同等の知識を得ているということには合点がいく。

「しかし、機密扱いと認識している内容を一国の大統領に対し、いとも簡単に情報提供したことについては疑問符を付けざるを得ない。」ハワードに代わってジョシュアが言う。

「先に申し上げたように、わたくしは教皇猊下より世界でただ一人機密文書館の鍵を預かり管理を任されている身なれば。文書館自体に関する入館対象者の選定権限以外に、所蔵される書物や文書の取り扱いや開示に関する権限も全てわたくしの一存に置いて判断しても良いと仰せつかっております。そも、文書館へデータが納められる際には明確な取扱いに関する規定が両者の間に結ばれますが、今回の件に関しましてもその条項に基づいた上での情報提供をしたまでのこと。責めを受けるいわれなどございませんわ。」

 全てを正直に話しているにも関わらず、各面々からあまりに強く問いただされることに少し不満を抱いたのか、ロザリアはやや強めの言葉でジョシュアを牽制した。

「さて、わたくしからお話しできる内容としては以上となりますが…互いに手を取り合い協力して頂くことは出来まして?」

「最後にひとつだけ確認させてください。貴女はつい先程 “事象解決の為にイベリスさんの持つ特別な力がどうしても必要だ” という旨のお話をされました。それはアヤメという少女が起こす奇跡に対応する為に必要だという認識を私は持っています。しかし、会合の冒頭で貴女はアヤメと言う少女が持つ力の詳細に関与するつもりが無いともおっしゃられた。これは矛盾しているのではありませんか?」ロザリアの確認に対してリアムが問う。

「 “対外的に向けた対応” としてアヤメさんの動向に対して関与することが出来ないという意味合いと取って頂ければ。」

「では、この場で協力関係を結ぶことを明確にすれば、彼女についてご存知の情報を全て提供して頂けるという認識で宜しいですね?」

「あくまで…彼女のことについてはわたくし個人の所感よるものが多いので、それが調査のお役に立つかは分かりませんけれど、全てお話すると約束致しましょう。我らの主に誓って。」

 ロザリアの返答を受けたリアムが全員の顔を見渡す。誰も異議を唱えるものはいない。

「承知いたしました。先程受領した協定書をセントラルへ送信し、本日中にヴァチカンと機構の間において正式な手続きを完了させるように連絡を入れましょう。」

「感謝いたしますわ。」リアムの返事にロザリアは短く謝意を伝える。

 会合の終わりが近付いてきたことを誰もが感じ取る。

「では、わたくし共はこれにて失礼いたしますわ。正式な協定が結ばれ次第、わたくしから皆様に彼女についてのお話を改めてさせて頂くことにしましょう。」

 ロザリアとアシスタシアが席を立ちあがり部屋を退出しようとする。その時、イベリスが彼女を呼び止めた。

「ねぇ、ロザリア?」

 名前を呼ばれたロザリアは後ろを振り返りイベリスへ視線を向ける。

「遠い昔、ヴァチカンへ去ってしまった彼女と私はもっと互いに話をするべきだったのかしら?」

 イベリスの問い掛けにロザリアは優しい笑顔を湛えながらただ一言返事をした。

「全ては神の御心のままに。」

 その後、ロザリアとアシスタシアは扉の前で一礼をした後に退出した。


 会議室には沈黙が続く。

 ヴァチカンの使者との協議は、互いの協力関係を構築するという方向で一致を見せたことになる。

 しかし、会議の内容についてはなんともすっきりしない思いが全員の心に残ることとなった。

 時間にすれば短い会合であったにも関わらず、その場の全員が妙な脱力感に似た疲れを滲ませている様子が窺い知れる。

 そんな中、努めて爽やかにリアムが言う。

「マークתの皆さんとイベリスさんは午後4時のテンドウ夫妻との話し合いまで特に予定はありません。3時半の集合時間まで各自自由行動とします。引き続き宜しくお願いします。」そう言うと彼はハワードを伴って部屋から退出した。


 玲那斗は周囲を見回す。ジョシュアとルーカスはそれぞれが何か考え事を巡らせているようだ。

 フロリアンはやはり彼女のことが気になるのか珍しく落ち着かない様子を見せている。

 次にイベリスへと視線を向ける。特に変わった様子があるわけではないが、その視線は何を捉えるでもなく遠くへと向けられたままだ。


 どこか釈然としない感覚を残しつつ、こうしてヴァチカン教皇庁との使者との会合は終わりを告げた。


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