第2話 アイロニカルとアイロニーとはなんぞや

「今日も暑っついね〜」

 スマートフォンのメッセージにその一言が送られてきた。それに対して、そうね〜って俺が返事して、またそこから返事が来ない。何の報告なのよ? 暑いのは知ってる。でも言いたくなるのが人の常。うん。


 ここは、神奈川県某所。とある町の、とある商店街。大き過ぎず、小さすぎない商店街で毎日のように夕方になると、どこからともなく人が集まってくる。おばあちゃん。おじいちゃん。おじさんにおばさん。小学生や中高生。小さなこの手を引くお母さんに、家路を目指すお父さん。たくさんの人模様。自転車のパンク修理をしながら俺はそれを見て肩で息をする。平和ボケしちゃうくらいに、平和。たまーにお祭り騒ぎするのは新しいお店ができた時くらいかな。


 それでいいのよ。それで。俺には、それぐらいがちょうどいいのよ。



「ねえ、あんた。客間の押し入れのダンボール箱をいつになったら片すんだい?」

「ああ、ごめんごめん。今日中にやるやる。俺が自分でやるからばあちゃんは腰悪いんだし、触んないでいいよ」


 店の奥の部屋からしゃがれた声がする。うちの父方の祖母だ。俺は適当にばあちゃんに声をかけると、額から首筋に流れていく汗をぬぐった。


 このサイクルショップは爺ちゃんがずっと一人でやってきた昔ならではの小さなお店だ。よく潰れないわね? って言われるタイプの商店だ。商店街の小さな電気屋や文房具屋さんが潰れない理由に似ている。うちはさすがに近所の小学校や会社に自転車を売って生計を立てているわけではないが、自転車教室の授業で貸し出しくらいはやっている。それから、お客様が買ってくれた自転車のメンテナンスなんかは呼ばれれば訪問して見るし、修理なんかもやったりする。そうすると、お孫さんのお祝いに自転車を買うなんてこともあれば、最近なんかは普通の自転車からアシスト自転車に買い換えるお客様なんてのもある。あとはまあ、色々だ。身近のお気軽にどうぞってアレに似ている。


 昼を過ぎると、あちこちの店の前で水を撒く。暑さをしのぐ昔ならではの行事。どこからともなく吹く風に乾いた笑い声が交じる。


「ペグ〜 アイスどっち食う?」

 そう言いながら現れたのは、小綺麗に揃えた髪に大胆な大きな赤い花の刺繍の入った薄黄色の開襟シャツにモスグリーンのバミューダパンツを履いた背の高い男だ。その男は、人差し指で眼鏡をクイッと上げニヤリと笑っていた。俺の目の前で、手土産に買ってきたであろうハーゲ〇ダッツの紙袋をぶらぶらとさせた。


「クリスピーサンドのカスタードみたいのがいい。サクサクでとろーりクリームが間から出てきそうなのがいい。っていうか、もう口がそれを所望してます」

 その男に俺は半笑いで答えた。


「ざーんねん。今回は、そういうのは入ってないのよね〜 あきらめて〜」と俺の前で満面の笑みをこぼす。この男こそがさっきのスマートフォンのメッセージの男だ。

 岡本 鐡治。俺とシャムが「テツさん」と呼ぶ、子供が大人の皮をかぶったような気さくな人だ。(ヤラシイ意味に聞こえる人は疲れてるよ。気をつけて) いつも余計なくらいにオシャレさんで、愛猫とほうじ茶ラテをこよなく愛する男。余談だが、イケメンなのに結婚は考えていないらしい。


「今回、なんで俺、呼ばれたんだっけ?」

 テツさんが間の抜けた声でパンク修理の作業している俺の頭に向かって話しかけてくる。その問いにしばらくの間、俺は黙ってしまった。


「……あれ? そういえば、なんでしょう?」

 作業を一旦止め、テツさんのいる方向を仰ぎ見ると、俺の顔を覗き込むテツさんの顔がほんの数センチの距離にあり、俺は手をばたつかせて驚き、尻もちをついてしまった。俺がそこまで驚くとは思っていなかったのだろう、テツさんが慌てたように手を差し伸べてくれた。その手に答えるように笑うとつられたようにテツさんが笑いだした。


「なんて顔してんだよ! こっちがびっくりするよ」

 そう言ったテツさんは、無邪気な子供が悪戯におどけるように白い歯を出すと大笑いする。大人の癖にこういう所が狡いんだ。大人の余裕? 出来る大人のふるまい? 何にしても自らが苛立つほどに憧れていた。テツさんには、言ったことはないけど、今後も言わないだろうけど。


「えーっと、今日はシャムが招集かけたんです?」

「んんんー、そうだっけ?」

 道具を工具箱に片しながら話の続きをした。


 空には太陽が真上に昇り、濃い影が足の後ろにベッタリと隠れてしまった。ますます気温は上昇していく。商店街のオシャレに造ったつもりのでこぼこの石畳が歩くのを躊躇させるのだろう。ますます人の流れが止まってしまったようだ。俺は少しでも涼しくしたくて桶に水を入れ、柄杓で打ち水をする。その俺の後ろ姿をガラス張りの店内からテツさんがアイスを頬張りながら黙って見ていた。


「真面目でしょ? うちの孫は」

 そう声をかけて店内のレジ横の小さなテーブルに冷えた麦茶をゆっくりと置くと、テツに折りたたみの椅子を祖母のタエがすすめた。


「そう、ですね。真面目で周りのことばかりに気を回して、いつも自分のことは後回しですよ。本当は不器用なくせに妙に人懐こいからつい甘やかしちゃうんですよね」

「小さなころからずっと変わらないのよ。鐡治さん、あの子と仲良くしてくれてありがとうね」

 タエは眩しそうに店の外を見つめながらテツさんに言う。


「それは僕もですから。お互いさまってあれですよ」

 すすめられた椅子に手をかけてテツが涼しげな目で外の俺を見ると、視線に気がついた俺はにっこりと笑を浮かべた。なにを二人で話しているのかなんて気にもしなかった。


「へいへい! お兄さん今夜はビール片手に神社の祭りに行きませんこと?」

「お馬鹿。今夜は商店街総出でしょう」

 シャムがパンク修理のちょうど終わった俺の横でアイスコーヒーをふたつ持って嬉しそうに立っていた。俺はシャムの言葉に呆れた声で返事する。


「あー」

「あああああぁぁぁ〜」

 俺とシャムは顔を見合わせて思い出した。それでテツさんが今日ここに来たってことを。


 時に状況や人によって、その境界の扉が開く時がある。本来は見えない聞こえないはずのもの、感じないはずもの。俺たちは自らゆっくりと歩み寄り、寄り添うことがある。歩き慣れたはずの商店街なのに迷子のように同じところを行ったり来たりぐるぐると廻って、気がつけば小さな赤い鳥居の前に立っていたことが子供ころに一度あった。そこは、昔から商売繁盛の神であるお稲荷さんが祀られている。じいちゃんに手を引かれて何度か行ったことのある場所だった。商店街の入口にこじんまりっとあって、誰かがいつも綺麗に掃除してお花とお供え物も置いたあった。

「困った時の神頼み」という言葉が象徴されるように人は何かに頼りたいのだ。


 俺だってそうだ。頼りまくってる。


 子供が生まれたら30日前後に氏神様にお参りする初宮詣をはじめ、七五三に成人式。人生の通過儀礼に神社に訪れる。もっと身近でいえば、正月の初詣。その年の幸福を願って七千から八千万人の人が訪れるのだ。地域の神社で祭りがあれば人が集まり、家ごとに違う生活を営んでいる方たちが、神社を通して地域共同体の一員であることに再確認することもある。それくらいに無意識に生活に溶け込んでいる。宗教などには特段興味なんてないけど習慣習俗として実感するものなのかもしれない。

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