8050問題を機に考えた、支援者と困窮者のデリケートな関係

五速 梁

第1話 「弱者として扱われる」心構えについて


 ※ これはエッセイです。筆者は社会問題、福祉、医療の専門家ではありません。


 はじめに


 最近、ネットで「困窮者をサポートする人たちが、本人に拒否されて打つ手がなくなった」というニュースを見ました。


 とても残念だなと思うと同時に、以前からずっと小骨のように引っかかっていた「支援者と当事者のすれちがい」について書いてみたくなりました。


 私は支援職でも完全な引きこもりでもありませんが、それでもこれだけは書きたい、ということがあるのでこの場をお借りして記させて頂きます。


 まず、ここに書かれていることは全て私見で、問題の現状を正しく分析できているわけではないという事をお断りさせて頂きます。自分の考えや見立てと大きく異なる主張が苦手な方はすみませんが、お読みにならない方が無難かと思います。


 私は「8050」問題に関してはニュースで知っていること以上の知識はありません。支援のシステムや現状に関する知識もほぼゼロです。現状に詳しくないのに無責任な私見を書くな、というご批判があれば、しっかりと自戒を持って受け止めたいと思います。


 私がここで書きたいことは、私がわずかながら見聞きした社会的弱者と支援システムとの関係性について、「こうだったらいいのになあ」というただの願望です。

 問題提起ではなく、「そう考える人もいるんだな」と思っていただくための文章だと解釈していただければ幸いです。



 ⑴ 「弱者として扱われる」心構えについて


 ここからの文章は、完全に当事者寄りとなるので、その辺をご理解ください。


 当事者とサポートする側との関係は「双方が互いの立場を理解し合い、歩み寄る」というところまでが限界」と言うのが一般的な見解だと思います。一般寄りの視点からはサポート側の忍耐は理解できても、当事者の心境をわがことのように理解するのは困難だからです。


 ここで私が書きたいことは、「限界を見据えた上で、どういうアプローチをされたら有り難いか」という現実的な提案(個人的な希望ですが)です。つまり当事者に共感する代わりにこんな姿勢で接してくれたらいいかも?という一つのアイディアです。


 まず昨今、問題となっている(という風に私は思いました)「弱者が支援にたどりつけない」という問題についてです。個々の事例に関する正しい情報がない事をお断りしたうえであえて考えを述べさせて頂きますと、そもそも支援に抵抗を持つタイプの人がセーフティーネットからこぼれるのはある種、必然と言っていいのではないかと思います。


 最近はどうかわかりませんし、私が実際に見聞きした範囲での例ですが、支援の業務に従事されている方が支援者と接する際に「可哀想な人」という前提でサービス業務をされることがあります。「お前の思い込みだろう」とのご意見もあるでしょうが、ここはそのままお付き合い下さい。


 ここで私が何を書きたい書きたいかと言うと、「自分を可哀想と強制的に実感させられるのは、当事者が最も嫌がることの一つ」だということです。つまり、様々な手続き等のサービス以前に「尊厳を守る」という部分が抜け落ちたまま支援が始まってしまう、ということです。


 じゃあどうやって尊厳を理解すればいいの?という話なのですが、これには難しい問題――当事者に深く共感してはいけないというグレーゾーンの問題もあって軽々しくは論じられないのですが、この一文は私の『私見」を書かせていただく場なので、いくつかの問題は棚上げのまま論を進めさせて頂きます。


 サポートの人に「可哀想」扱いされることは、発達障害その他コミュニケーションが不得手な人たちに取って「いままでいくらでも自助できたろう。努力も妥協もしなかったあなたが悪い」と言われるのと同じくらいきつい場面であると私は考えます。


 では何がどうこじれているのか。こじれを引き起こす原因の一つは、ひきこもりを含む「自業自得系弱者(と一般から思われている人々)」は総じて真面目で理想が高いので「いままで決していい加減に生きてきたわけではないのに」という自分が周囲に合わせられない現実への怨嗟だと思うのです。


 もしかしたら「サポートを受けているんだから、贅沢言っちゃだめ。ワーカーさんや役所の機嫌を損ねたらおしまい」というコミュニケーションの失敗に対する恐れもあるかもしれません。おとなしくしていないと受けられるものも受けられなくなる、生命線を絶たれるという恐怖はサポート側にとってはなかなか理解しにくい感情なのではないでしょか。


 ここで少々、駆け足ながら最初の結論を述べたいと思います。それは、支援という行為が「とにかく不足している要素を補完しなければ」という考えが先立ち、本人が乗り気でないまま「こうすればいいんですよ、速やかに行ってくださいね」から入りがちという点(実情と異なっていたらお詫びします)です。


 それ以外に何があるの?と思われるかもしれませんが、起き上がる気力もない人が役所や仕事に行くには必要不可欠なものがあると思うのです。それが先に述べた「尊厳」です。


 現実的には、ほとんどガス欠のようになった人がいきなり「尊厳」を手に入れることは困難です。なぜかというと、社会において人を人たらしめる最も大きな要素は「他者から何らかの形で認められること」、平たく言えば「他人の手を借りず、自分の力だけで信用と自信を手に入れること」だからです。


 わかりやすい例で言うと、地域で自分の人となりを知って味方になってくれる人がいるかいないか、ということがあります。


 ピンチの時、知らない人にいきなり助けを求めても、かかわりになるのを恐れられて逃げられてしまうかもしれません。それはその人のせいではなく、認知が不足しているだけだと私は思います。つまり家の中にしか「世間」がない人がいきなり「信用」を得ようとしても、自分で自分の身元を他人に保証できるだけの「経歴」や、「つきあい」がないとどうにもならないのです。


 ここで問題を逆に見て行きましょう。最大の解決策は「自信を持つこと」ですが、「自信」は人に認められて自分で作るものです。認められるためには人となりや適性が誰かに知られていなければなりません。しかし過去のない困窮者に過去を作ってあげることは、いかにサポートと言えど無理です。


 ここで勇み足とも言えるのが、「この人を誰かに知ってもらうには、何でもいいから仕事をさせて「どんなに人が嫌がることでも嫌がらない我慢強い人」というレッテルを張ってもらうのが一番の近道だ」と判断することです。


 先に書いたように、このタイプの困窮者にはプライドが高い完璧主義者も少なくありません。それゆえに何も持っていないのですが、じゃあ人並み以上の自信をいきなり持たせてあげられるかといえば、これまた困難な話です。


 ずいぶんくだくだと書いてしまいましたが、じゃあ何からすればいいの?という結論は「本当はどうなりたかったのか、どこから初めてどこにたどり着きたいのか」という希望を聞いてくれ、理解してくれる人が身近にいることだと思います。

 

 ここでもう一つ、重要なことがあります、それは、なにがしたいかを聞く時に「いや、それって現実的じゃないでしょ」とか「もう少し、身の丈を考えた方がいいよ」とかたとえ心の中で思っていても決して言わないこと。

 特に「あなたいくつ?現実を見なさい」は事実であっても禁句と言っていいです。残念ながらこれはベテランのサポート従事者でも結構、やりがちなアドバイスだと思います。 


 別に何をしたいかくらい、どんな状況の人だって言っていいのです。お金が欲しい、友達が欲しい、彼女が欲しい。大いに言ったらいいと思います。最終的にはこのくらいの年収が欲しい、このくらいのところに住みたい、だって言って構わないのです。


 現実的かどうかは問題ではありません。重要なことは寄り添ってくれる人が「それで?何から始める?」と当事者の望みを身の程知らずの夢物語と馬鹿にせず、人生に置いて少しでも理想に近づくためにはまず、何からするかを一緒に考えてくれるということが重要なのです。


 そうした態度を支える側がとることで、実際には理想とは程遠い状況からのスタートであったとしても、「この人は「しょせん他人の人生」と思って見下してはいない」と感じるのです。


 当事者だって支援者が自分の人生に責任を取ってくれるとは思っていません。ただ、「こんなはずじゃなかった」という話ができるところまで、とりあえずは降りて来てくれる。

 サポート側が速やかに業務を行うためにも、「何が不足しているか」のさらにそのまた以前に困窮者から「ただの知り合い」として信用を勝ち得る事が最優先だと思うのです。


 そうして最初は不本意な仕事、不本意な生活だったとしてもやがてお金がたまり、友人の一人くらいはでき、自信がつけばデートだってできるかもしれません。大切な存在ができれば「もっと上の、やりがいのある仕事を」と、自分の能力をアピールしようという欲求も生まれるかもしれません。


 エネルギーを放出しきってガス欠状態のところに、本来、救うべき人たちが最初の最初に「そんな身の丈に合わない夢見てたってしょうがないでしょ、現実を見て」と言ったばかりにこれから光りたいと願う人間のやる気をそいでしまったら悲劇だと思うのです。


 今時、SNSで困窮者が贅沢を言ったらめちゃめちゃ叩かれるでしょう。だからこそ、支援者は「何言ってんだこいつ」と思っても、具体的な支援策を並べる前に、どんな自分になりたかったかを聞いてあげて欲しいのです。


 なんでそんな身の程知らずの話を聞かにゃならんの、との思いもありましょうが、ぐっと我慢して頂きたい。自分という檻から抜け出せなかったばかりに必要のない苦しみに長年、耐えて来た人が目の前にいるのですから、ここはお互いさまと思ってどうか広い心で接してあげてほしいと思います。


 長々と超身勝手な自説を展開してしまい、申し訳ありません。「甘えるな、甘やかすな!」という視点も当然、あるかとは思います。が、こうした些細なことでこじれが防げる可能性があるのなら……と思うと、書かずにはいられませんでした。


 もし内容に不適切な部分等がございましたら、コメントなどでご指摘いただければ助かります。十分な回答ができるかどうかはわかりませんが……


 それでは今回はこの辺でいったん、筆を置かせて頂きます。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


 〈⑴ 「弱者として扱われる」心構えについて 終わり〉


















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