残光の少女

倉井さとり

残光の少女

 夕日が街を照らしている。

 その一角の小さな公園で、ひとりの少年がふと我に帰る。

 目の前には、少女と犬。


 少女は、大きな犬に抱きつきながら、涙を流していた。

 犬は口を結び、しっぽさえ動かさずに、じっと少女に体をあずけている。

 その近くに、少年はポツリとたたずんでいた。

 困り顔。少年は、そんな表現がぴったりな顔をしている。


 少年は少しの間、その場で様子をうかがっていた。だが、変わらない状況に痺れを切らし、少年はゆっくりと少女に近づき、声をかけた。

「……ね、ねえ」


 少年はできることなら、泣いている少女になんて、声を掛けたくなかった。

 しかし、そうするより他になかった。何故かといえば、その犬は、少年の飼い犬だったからだ。


 少年は、まだ空が青いうちから、犬の散歩に出掛けていた。その途中、尿意に襲われ、公園に立ち寄り、犬を木に繋いで、用を済ませた。

 そして、犬のもとに戻ってみると、見知らぬ少女が犬に抱きついていたのだ。

 少女は色白で華奢きゃしゃだった。少年の頭に、お人形という言葉が浮かんだ。


 少女はゆっくりと顔を上げた。少年を見て、特に反応することもなく、涙をこぼし続けた。そして、少年がなにも言えないでいると、少女はまた、顔を伏せてしまう。


 少年は、なるべく優しい声を出そうとした。

「……」

 やりすぎてしまったのか、吐息だけが漏れた。


「……ねぇ、どうして泣いてるの?」

 ようやく少年はそう口にした。


「パパとママが死んじゃったの」

 少女のその言葉を聞いて、少年は何と答えたらいいか、わからなかった。少年にとって、両親はいて当たり前の存在で、いなくなることなど、想像さえできなかった。だから少年は、ただ素朴そぼくに、気になったことを聞いた。

「どうやって暮らしてるの?」

「伯父さんの家にいるの」

 それを口にした途端、少女の涙がとまった。少年はそれを見て、少しだけホッとした。それが伝わったのか、犬も少しだけ体を楽にしたようだ。


「伯父さんと伯母さんを、パパとママって呼ばないといけないんだ。パパはパパだし、ママはママなのにね」

 可笑しいよね、と少女はそう付けくわえ、そして実際に、少しだけ微笑んだ。


「あなたもひとりぼっちなの?」

 少女は微笑んだまま言った。それなのに少年は、何故かもわからず狼狽うろたえてしまう。

「……ぼく? どうかな……、ときどきなら、ひとりぼっちかも……」

「うらやましい」

 少女はポツリと漏らした。そして、じっと少年の目をのぞき込んだ。


 少年はその視線に耐えられなくなって、話題を変えた。

「どうして犬に抱きついてたの?」

「この子も寂しそうだったから」

「……寂しそう? なんで……?」

「そんな顔してるもん」

「そんなことないよ」

「私とおなじ、ひとりぼっち」

「その犬、ぼくの犬なんだ。家族だっているし、何より、……ぼくがいるんだもん、寂しいわけないよ」

 少年は必死になって、そう、まくし立てた。


 少女は慈しむように、犬を強く抱きしめた。犬は、少しだけ苦しそうだった。でも嫌がる素振りも見せず、むしろそれが自らの役目だというように、ただ大人しくしていた。

「可哀想に」

 少女はゆっくりと目を閉じた。すると、犬もおなじように目を閉じた。


 突然、木枯こがらしが吹き、辺りの枯葉かれはが舞いあがった。

 砂埃すなぼこりが目に入るような気がして少年は、一瞬まぶたを落とした。


 ほんの束の間に、犬は体中、枯葉かれはだらけになっていた。

 いっぽう少女は、不思議と、枯葉かれはのかけらひとつ、付けていなかった。

 少年はふと、肌寒さを感じた。粟立あわだつ肌はまるで、ずっと昔から寒いのを我慢していたように、ぶつぶつとこちらを見上げるように盛りあがり、さむいさむいと声高にうったえるよう。


 こんなにも赤みをおびた公園だけれど、見詰めるほどに、受ける印象とはたがえ冷えていくように、少年には感じられた。

 そんなに夜に近づいたのだろうかと少年は、こうべめぐらし夕日を見た。日は落ちかかり、その輪郭りんかくを街に寄せていた。


 少年は夕日から目を切るが、その光は視線を先回りするように後を付いてくる。

 夕日を見続けたせいか、少年の目には残光ざんこうともった。視線を動かすたびに、まるい残光ざんこうが付いてくる。

 視界が赤くぼやけた、それだけのことだというのに、少年は、頭の中にまで夕日が入りこんだような気がして、ほんのすこし意識が遠くなった。

 少女の顔が、ちょうど残光ざんこうに重なり、表情が上塗うわぬりされてしまう。白とも赤ともつかない、まるで言葉の枠から外れたような、不思議な色合い。抽象的ちゅうしょうてきで、だまし絵のように、へこんだり、こちらにせり出したり。


「ごめんね、ひどいこと言って」

 少女が言った。微笑んでいるとも、悲しんでいるともとれる声色こわいろだった。残光ざんこうのせいで少女の表情はわからない、そのかわり、こっちにきたり、あっちにいったり。

 少年は残光ざんこうを消すために目をこすった。しかしいくらこすっても、残光ざんこうは消えず、視界の中央から動こうとしない。


 夕日が沈む最後の瞬間、公園に二人ずれの影が通りかかった。少年の位置からは丁度、夕日が逆光ぎゃっこうになり、風貌ふうぼうえられず、そのシルエットしか見て取れなかった。


「パパー! ママー!」


 少女は、その人たちを見て取った瞬間声を上げると、まるで自分のはっした声を追うように、けていった。こちらにのびる長い影、遠ざかる少女の姿、それらが少年の遠近感えんきんかんを狂わせる。とまったように、ちかづくように、だんだんと遠のいていく。ひとつ影を踏み締めるごとに、少女の体は影をおびていく。まるで、少年の目にとも残光ざんこうが、ひいていくのに合わせるように、溶けると消えるが手を繋いだように。


 やがて少女はつぎめなく影へと変わっていった。2人の影は優しく少女を抱きとめたようだった。そっと抱きとめたせいなのだろうか、なんの音もさせずに。

 3人は溶け合うようにたわむれている、あんなにうれしそうに、だけど声も出さずに、身振りはあんなに喋るのに、あんなに遠くの木立こだちがさらさらいうのが分かるのに、少年の耳には、3人の仲睦なかむつまじさが遠かった。


 とつぜん3人の影がほどけ、少女の影がくっきりと現れる。逃げていく夕日がこんなに近く、すぐそこにいる少女の姿は遠い。それでも少女が手をあげて振ると、地面にのびるその影だけは、少年のすぐ近くまで迫った。


「話を聞いてくれてありがとう、バイバイ!」

 少女が言った。


 少年は何か言葉を返したかった、でも言葉が見付からなかった。だから自然と足が動いた。少女のもとにけ寄ろうと思って。


「ワン!」

 一歩踏みだしたと同時に、犬がおおきくえた。今まで聞いたことのないほどに。だから少年は驚いて、犬に振り返った。しかし、犬はただ平然と、行儀ぎょうぎよく座っていた。きょとんとした顔をして、むしろ少年が振り返ったことに驚いてさえいるようだった。


 辺りが急に、のしかかるように暗くなった。いよいよ日が落ちたらしい。少年はまた後ろを振り返った。すると、そこにはもう、誰もいなかった。


 3人は音も立てず、姿を消していた。


 見失ってしまった自分に驚いてしまう。少年は、これと似たものに心当たりがあった。野球をしていて、フライを見失ったときだ。

 少年は少年野球のチームに入っていて、ポジションは外野手だった。

 コーチがフライを次々上げ、ボールを懸命けんめいに追う。だけれどたまに、ボールが、雲や太陽にまぎれてしまい、その行方ゆくえを見失ってしまう。まるで大きな空の向こうに消えてしまったような錯覚さっかく。そして一呼吸置いて、思わぬ方向からボールの落下する音が聞こえてくる。


――ダン!――


 ボールを見失って焦っているものだから、ボールの落ちる音は、いつもより鋭く耳に届く。まるで人でも降ってきたんじゃないかと思うほど、大きな音に感じられる。


 少年は、少女を探そうとすべり台のはしごをけ登り、辺りをぐるりと見渡した。しかし、どこにも少女の姿は見当たらなかった。

 せっかくすべり台に登ったのに、少年は力なく、はしごで地面に降りた。


 少年はとぼとぼと犬のもとに歩いていった。少年と目があうと、犬はどこか嬉しそうにしながら、身を震わせて、体をおおっていた枯葉かれはを払いのけた。ちょうどそこに風が吹き、枯葉かれはが宙に舞った。

 夕日の残り火さえ消えてしまい、その代わりに公園の照明があたりを白く染め上げた。真っ白な光でできた影は、短くはっきりとしていた。それは少年と犬のすぐ足元で、彼らとすんぶんたがわぬ格好かっこうをとり、横向きにたたずんでいた。

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