終章 眠れる女神に永遠の約束を 4

 長く雪に閉ざされていた山は雪解けと共に、一斉に青く芽吹く。春が来たのだと歌い踊るように芽や蕾をのぞかせる木々は、喜びに満ち溢れていた。


 都から無事神木村に戻った葛良は改めて融の許嫁となることが周知された。村人との接触をほぼ絶っていたために、彼女の父が神木村を攻めたことを知るものはほんの一握りだ。またその者たちも戦後に葛良がどれだけ神木村の再興に心を砕いたかをよく知っており、彼女が融の伴侶になることへ異議を唱えるものはなかった。


 回りの人々はどんどん先へと進んでいる――ただ自分だけが、あの戦いが終わってからも先に進めず、同じところに立ち止まっている。最近、市伊はそんな風に感じることが多くなった。


 過ぎ行く季節のなか、ただぼんやりと生きている。いったい彼女とで会う前はどんな風に生きていたのか、もはやそれすらも思い出せないまま。時の流れに取り残され、未来を選ぶこともできず立ちつくしている。どうしたら前に進めるのか、いっこうにその答えは出せないままだった。


 そんなある日のこと。家の炉端で、意を決したような目をした瑞季に話があると切り出された。隣には行商の合間に神木村へ帰ってきた筑笆もいて、市伊はとうとうそのときが来たかと姿勢をただして二人に向き合った。


「兄さん。どうか、私と筑笆が一緒になることを許してほしいの」

「市伊。お前の妹を――瑞季を必ず幸せにする。だから、俺たちが結婚することを認めてほしい」


 真剣な目でそう頭を下げるふたりに、市伊はそっと目尻を緩めてうなずいた。幼い頃から二人が憎からず思いあっていたことは知っていたし、いつかそうなれば良いと思っていた。いささか思っていたよりも時期は早いが、瑞季ももう十六歳で立派に夫婦になれる年頃である。市伊に反対する理由など見つかりはしなかった。


「反対などするわけがないだろう。二人を祝福するよ」


 市伊の言葉に、二人はほっとしたように顔を見合わせて笑った。こうなったら、とっておきの酒で祝おうじゃないか。そう言って腰を上げかけた市伊を制止して、瑞季が言葉を継ぐ。それは、思ってもみない言葉だった。


「兄さん。私はもう大丈夫よ。だからどうか、自分の心に正直になってほしいの」

「何を、いっている……?」

「私ね、じじから全部聞いたの。兄さんが山に出掛けていた理由と、何を守ろうとして戦っていたのか。どうして、父さんが私たちの前から姿を消していたのかも」


 告げられた言葉の衝撃が大きすぎて、理解がついていかない。あの戦いに関して、市伊は瑞季に一切説明をしなかった。翠鳳が戻ってきたことに関しても「父は密命を帯びていたため突然村からいなくなり、それが終わったから村に戻ってきたのだ」とだけ説明をしただけだった。それなのに、彼女は全て知っていたと言うのだ。


「いったいいつから知っていた……?」

「戦いが終わってすぐよ。兄さんがあまりにも沈んだ様子だったから、じじに聞きに行ったの」

「そうだったのか……」


 市伊が山へ出掛けるたびに、物言いたげな顔をしていた瑞季の姿が思い浮かぶ。全部知っていて、それでも彼女は何も言わずに市伊を送り出してくれていたのだ。


「夏になる前くらいから、頻繁に出掛けるようになったでしょう。そのときの兄さんはとても……楽しそうな顔をしていたわ」

「……そんな風に、見えていたのか」

「父さんと母さんがいなくなったあと、ずっと兄さんは私を優先してくれて、自分のことは二の次だった。そんな兄さんにも大事な人ができたんだって……私、すごく嬉しかったの」


 ぽつぽつと思いの丈を話す瑞季に、市伊は言葉を失った。妹が自分のことをそんな風に心配してくれているなんて、思ってもみなかったのだ。まだまだ子供だと思っていたのに、彼女はいつの間にかもうしっかりした大人になっていたのだと改めて気づかされた。


「兄さんの大事な人は今、戦いのせいで眠りについてしまったとじじに聞いたのだけど……本当なの」

「人の一生が終わるくらいの長い年月をかけて力を蓄えれば、また目覚めるとは聞いているが……それが、いつになるかはわからない」

「そんな……どうにか兄さんが生きている間に目覚めさせる方法はないの?」

「ない。あるとすれば、俺が人ならざるものになって寿命を伸ばすことだけだ」


 その答えに、瑞季と筑笆は息を飲んだ。柚良のことを知っているならばもう隠しだてする必要はないと思ってありのままに答えたが、二人にとってその事実は思ったより衝撃が大きかったようだった。


「それでも……それでも兄さんは、その人のそばにいたいのでしょう?」

「だが、お前をおいていくなんて……」

「大丈夫よ。私には筑笆もいるし、父さんだっているわ。もう兄さんが心配するような子供じゃないのよ」


 瑞季がそっと市伊の手を両手で包む。きっぱりと言って見せた妹の瞳には、うっすらと涙の膜が浮かんでいた。一度葛良に気を付けろと注意をしたときにも言われた言葉だ。もうとっくに妹は羽ばたく準備ができているのに、ぐずぐずとその時を先延ばしにしているのは市伊の方だった。


「そうか……そうだな、もうお前は立派な大人だ」

「ええ、そうよ。だから兄さんは何も心配せず、大事な人のそばに居てあげて。兄さんともう会えなくなるのはとても寂しいけれど……死ぬ訳じゃないのなら、大丈夫だわ」


 瑞季の瞳から一筋こぼれた涙をそっとぬぐってやると、彼女は何度も大丈夫だと言って笑って見せた。言葉とは裏腹にほたほたと涙を流す妹をそっと引き寄せて抱き締める。胸が一杯で何も言えず、ただどうにか一言市伊が絞り出した感謝の言葉に、瑞季は泣きながら頷いた。


「市伊。瑞季のことは俺に任せておけ。お前の分まで、瑞季のことを幸せにする」

「頼んだぞ、筑笆。もしこいつを泣かせるようなことをしたら……ただじゃおかないからな」

「馬鹿野郎。たった今瑞季を泣かせてるお前に言われる筋合いはねぇよ」

「はは、全くその通りだな……」


 照れ隠しのようにひとつ、ばしっと市伊の背中を叩いた筑笆の目にもまた、うっすらと涙が浮かんでいた。幼い頃からずっと、自分達兄妹を支えてくれた親友がこれほどまでに頼もしく見えたことはない。


 彼らがそうやって背中を押してくれるなら、市伊は柚良の傍に居ることを選ぼう。人の世に別れを告げて、妖の世へ足を踏み入れる。そうして、彼女の傍に居るのだ。


(柚良さま。ずっと貴女のお傍にいます。もう一度、笑ってくれるまで――)


 二人にありがとうと伝えてから、市伊はぐっと顔を上げる。前を見据える瞳に、もう迷いはなかった。

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