終章 眠れる女神に永遠の約束を 3

 赤や黄に色を変えた木々が葉を散らし、山に雪が降り積もる。深雪に覆われた大城山を登り、峠の道へ行くのは容易ではない。それでも月に一回市伊は欠かさず柚良の元へと通い、季節の花々を贈っていた。


 すこしずつ。ほんの少しずつだが、市伊は柚良が目覚めないという事実を受け入れつつあった。何度呼び掛けても。どれほど話しかけても、彼女は微笑みを浮かべたまま眠っている。胸に巣くう虚無感と、少しずつ心を凍らせていくような絶望感。事実を受け入れれば受け入れるほど心の中で大きくなっていくものに目を向けないようにしながら、市伊はただ時が過ぎるのを待っていた。


 それでもいつか。願わくば、自分が生きている間に目覚めてほしい。そんな儚い願いを抱きながら、雪を被った寒椿を薬壺にさす。彼女の着物と同じ、鮮やかな韓紅からくれないの花。山梔子くちなしが柚良の好きな花であることは知っていたが、それ以外に好きな花は何だろうか。そう考えたとき、自分は彼女のことを何も知らないのだということに気づかされた。


 何事もなく彼女と過ごせた日々はほんの一瞬で、あとは葛良の目をかいくぐるように時々逢瀬を重ねるだけだった。もっと彼女と過ごす時間を大切にしておけばよかった、と何度後悔をしただろう。あの時、彼女に行くなと言えていたら違う結末が待っていたのだろうか。そう自分を責めても、柚良が目覚めない事実が覆ることは決してないのだ。


「市伊。雪の中をここまで登ってくるのは大変だろう。帰りは私の背に乗って帰るとよい」

「大……ありがとう。じゃあ、言葉に甘えてそうさせてもらおうかな」


 鼻づらを押し付けて背に乗れと促す白鹿に苦笑しながら、市伊はその言葉へ素直に頷いた。神獣たちの中で一番過保護なたちの大は、その庇護欲を市伊にもいかんなく発揮している。


 『柚良さまから面倒をよく見てやれと頼まれた以上、お前を放っておくわけにはいかぬ』というのが彼の主張だった。時に三歳の子供を心配するような過保護っぷりに閉口するときもあるが、心配されるより心配する立場のほうが多かった市伊は彼の気持ちも理解できるので、むげに突っぱねることはできなかった。


 神域の守護を大鼬の佐井に任せた大は背に市伊を乗せて、雪道を下る。軽やかに雪の上を駆ける大鹿の体躯は雪をものともせず、あっという間に山の入口までたどり着いた。大の背にのせてもらうのはこれで三度目だが、過激な言動に対して彼の早駆けは非常に穏やかだ。背にしがみついて振り落とされないようにと気を遣うこともなく、安心して背に乗っていることができた。


「……市伊よ。柚良さまは以前、お前の悲しむ顔は見たくないと言っておられた」

「俺の、悲しむ顔……」

「お前はなぜ、悲しんでいる?」

「それは……俺が生きているうちに二度と柚良さまと言葉を交わせることはない、と言われたから……何も、あの人にしてあげられなかった自分が、悔しくて……」


 ぐ、と唇をかみしめながら市伊が心中を吐露する。彼女は神で、自分はただの人間だ。時の流れの違う人間がいくら彼女を想っても、幸せな結末は決して訪れない。そうわかっていても、ほんの少しだけ与えられるはずだった泡沫の時間さえ消えてしまったことが何より悲しかった。


「ならば、お前も柚良さまのお傍へ来ればよい。そうすれば、あのお方の目覚めを待つことができるだろう」

「柚良さまのお傍へ行く、とは……どういう意味だ?」

「お前は今まで何を見てきた? 妖の中には、元は人間だったものもいるだろう。短い人の一生であれば叶わぬだろうが、妖として生きればいずれ柚良さまとまみえることも出来よう」


 人間としてではなく、妖として生きる――その言葉に、市伊ははっと目を見開いた。脳裏に山伏天狗たちの姿が浮かぶ。彼らは皆現世での生活を捨て、厳しい修行を積んで妖として生きることを選んだ者達だった。彼らのように、市伊も妖として生きることができたなら。人よりも長い生を手に入れることができたなら、もう一度彼女に会える日が来るかもしれない。思ってもみなかったその言葉は、すとんと市伊の心の底へと落ちていった。


「大……教えてくれ、どうすれば妖として生きることができる?」

「我は知らぬ。だが、大天狗どのであればその方法は知っているだろう」

「そうか、父さんに聞けばいいのか。ありがとう!」


 白黒だった世界に、ほんの少しだけ色がついたような。真っ暗だった世界に一条の光が差し込んできたような、そんな気分だった。市伊は大に何度も礼を言い、その場を後にする。少し表情の明るくなった青年の背を見送りながら、大鹿はそっと息を吐いた。


「人としての生より、妖としての生を選ぶのはたやすいことではない……が、あやつならそれを選んで見せるかもしれぬな」


 ひとりごちるように落とされた言葉は市伊に届くことはなく。降り積もる雪に吸い込まれるように、静かに消えていったのだった。



「駄目だ。お前にその方法を教えることはできない」


 開口一番、かつて大天狗だった男――翠鳳は市伊の願いを一蹴した。なぜだ、と食い下がる青年に厳しい表情で言い諭すように紡がれた言葉は、天狗としての矜持と父としての情が入り交じるものだった。


「天狗の修行とは、深山幽谷でありとあらゆる難行苦行を積むことだ。あまりの荒行に命を落とす者、修行を終えるまでに寿命を迎える者も多い。そうやすやすとなれるものではないのだ」

「分かってる……それでも、俺は一縷の望みがあるのならそれを掴みたいんだ」

「そのためにすべてを捨てる覚悟はあるのか? 一度修行に入れば、もはや家族に会うことさえ許されぬ。お前は、瑞季を捨てていけるのか」

「それは――」


 ぐっ、と市伊が言葉に詰まる。父が傍にいるとはいえ、体の弱い妹を置き去りにして修行をするなど到底自分にはできない。かといって何十年もかかる修行は今始めなければ、一人前の天狗になれるまでに命が尽きてしまうかもしれない。ほんの少し見えたはずの希望の光は、あっけなくその輝きを失っていく。瑞季か、柚良か――人の世か、妖の世界か。そのどちらか一つしか、選ぶことはできないのだ。


「……本当にお前が柚良さまを選ぶというのなら、私も止めはしない。だがよくよく考えるが良い。お前はどちらを選ぶのか」


 それだけを言い残して、翠鳳はその場を立ち去った。『二つのどちらかを選ばないといけないとき、あなたの天秤はどちらに傾くの』と、かつて紫金に問われた言葉が蘇る。あの時は柚良に助けられてそれを選ぶ前に戦局は動いたが、こんどこそその問いに答えを出さねばならない時が来ていた。


 ぎゅっとこぶしを握り締めて、灰色の空を見上げる。春はまだ遠く、分厚い雲の合間からは一筋の光も見えない。白く凝る息を吐き、市伊は足取り重く帰路についたのだった。

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