終章 眠れる女神に永遠の約束を 1

 家の戸を開けると、すっかり暑さの抜けた涼やかな風が舞い込んだ。見上げれば、青一色の秋晴れの空が広がっている。いつもの通り獲物を仕留める用の弓矢を背負い、薬草を集めるための皮袋を腰に結わえ付けて、市伊は家を出た。だが幾ばくもしないうちに、後ろから追いかけてくる足音が聞こえてきた。


「市伊兄さん、忘れ物!」

「……瑞季? ああ、すまないな」


 差し出されたのは、昼に食べられるようにと瑞季が作ってくれていた軽食だった。竹の葉でくるまれたそれを受け取って懐に納め、妹に別れを告げて歩き出す。忘れ物を渡してもなお何か言いたそうな彼女の様子は少し気になったが、今日家に帰ったあと聞けばいいと自分を納得させて、市伊は山の中へと入っていったのだった。


 木漏れ日の差す森の中に、時おり枝を踏みしめる足音が響く。ふと足元で可愛らしい紫の花が咲いているのを見つけ、市伊は手を伸ばしてそっと一輪を折り取った。鐘のように根本が膨らんだ花をいくつもつけているそれは、竜胆りんどうである。また冬になったら薬を作るために根を掘りにこよう、とその場所を頭の中に刻んでから、他にも花がないか見回しながら歩き出す。


 あの戦い以来、どことなく山は賑やかさを失っていた。鳥も、動物たちも、いつも通りの声を響かせてはいる。それでも、山を統べる女神の眠りを妨げぬよう息を潜めているような、そんな雰囲気があった。


 峠に向かうまでの道でもう少し花を集めてから、市伊は神域の入り口をくぐった。ひんやりと心地よい濃霧が体を包む。以前であれば市伊を惑わせるものであったその霧も、すっかり慣れ親しんだものになっていた。


「いらっしゃい」

「紫金どの。今日も……柚良さまのお側に参ってもよろしいでしょうか」

「許可はとらずともよい、と何度も言っているでしょう。この山のもので、あなたを神域へ入れることに反対するものなど、一人もいないのよ」


 金狐にたしなめられつつ、市伊は神域の中心にある小さな湖へと向かう。目指すのは、湖のなかに浮かぶ小島だ。紫金がひらりと手を返せば、湖の岸から小島まで丹塗の橋がかかった。神域を守護する神獣にのみ使える秘術らしく、この橋を渡らなければ決して小島にはたどり着けないのだという。


 橋の袂で見送る紫金に一礼してから、市伊は橋を渡って小島へと向かう。湖面をわたる風が、どこからか甘い香りを運んできていた。神域でいつも変わらず咲く花の香りに、市伊は口許をそっと緩める。柚良の神力を受けて永久とこしえに咲く山梔子くちなしの花の存在は、彼女がまだ神であることを証明してくれる唯一のよすがだった。


 神のやしろが立つ小島に足を踏み入れると、清らかな霊力が市伊を出迎えた。以前渡から受け取った御神体――大城山の前守護者である桜の古木から削り取られた勾玉が放つ結界に守られた社のなかに、彼女は居る。柏手をうち、深く二礼してから顔をあげると、さあっと霧が晴れるように横たわる柚良の姿が現れた。


 いつもの通り、彼女が身に纏うのは寒椿の着物。ほんのり色づく頬に、桜色の唇。簪だけは身を傷つけないようにはずされて、豊かな黒髪はゆったりとからだの横で波打っている。何一つ変わることのない柚良の姿がそこにあった。


「……柚良さま。今日のお加減はいかがですか。竜胆と撫子なでしこの花が咲いていました。もうすっかり秋ですね」


 社の外におかれた小さな薬壺に、市伊はそっと花をさす。柚良からのいらえはなく。ただ、ぽつぽつと話しかける市伊の声が響くばかりだった。


「もうすぐ秋祭りの時期です。今年は木の実も稲もすごく豊作で……みな、柚良さまのおかげです」


 あの戦いのあと。持てる神力をほぼ使い果たした柚良は深い眠りに沈んだまま、一度も目を覚ましていない。紫金によれば、神格が損なわれる寸前まで力を使ったために目覚めるだけの力が残っていないのだという。これから長い時間をかけて神力を蓄え、体を癒せば目覚める可能性は十分にあるものの、それがいったい何十年、何百年後になるかははっきりわからない、とのことだった。


 力の回復に一番適する場所が神域の湖にある社であったため、神獣たちは柚良をこの場所に運び幾重にも守護をかけた。もう二度と彼女を狙う不届き者の手が届かぬよう、神獣たちの誰かが必ずそばに控えている。面会が許されるのはほんの一握りの者たちだけだ。本来であれば現世のおりを持ち込む市伊の面会は、彼女の回復を妨げるものである。だが神獣たちが立ち会うこと、社の結界の中には入らないことを条件に、月に一回だけこうして会うことを許されている。


「西の都より、葛良から融へ手紙が届きました。来春になったら神木村へ戻れる、と書いてあったそうです」


 聞こえているかどうかはわからないけれど。そう思いながらも、市伊はゆっくりと言葉を綴る。あの戦いの後、ぼろぼろになった体に鞭を打ち、葛良は月士として神木村へ攻め入った者たちを退却させた。柚良に命を救われた手前、全ての落とし前をつけてくると言い、先に帰京させた軍勢を追うように西の都へ戻ったのが半月前である。


『大城山の守神の討伐は月士の手に負えるものではない。日下隼人の死は神の怒りを買った報いである。侵攻を止めないのであれば、次に怒りの矛先が向くのは、帝自身だ』――神からそう告げられたと上奏するために、葛良は都へと向かったのだ。


 一歩対応を間違えれば、葛良自身も責任を問われて処刑される可能性もある危険な任務だったが、全てがうまく行ったと報告する手紙がつい先日融のもとへ届けられたのだという。月士を辞し、日下家とも絶縁する許しを帝に得ることができたので、移動のしやすくなる春になったら神木村へと戻るらしい。ようやくこれで祝言があげられる、と話す融はひどく浮かれている様子だった。


「……あと一ヶ月もすれば、大城山にも雪が降るでしょう。神域は常春の気候で暖かいでしょうから、また山の様子をお話ししますね」


 赤や黄に色づく木々も、山に雪の積もる様子も、草木が一斉に春に芽吹く様子も。本当は全部、貴女と一緒に見てみたかった。そう口には出さずにただ微笑んで、市伊はそっと立ち上がる。長居は柚良への毒となるため、許される時間はほんのひとときのみ。気づけば、そろそろ別れの刻限が近づいてきていた。


 ちりん、とひとつ。鈴の音のような音と共に、柚良の姿が霧に包まれて消えるのを見届けてから、踵を返して橋を渡る。橋の袂でずっと待っていてくれた紫金に感謝の言葉と近況を告げたあと、市伊は山を降りていったのだった。

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