終章 眠れる女神に永遠の約束を

幕間 夢のはざまで

 夢の中で、誰かを呼んでいた。

 行かないで。ずっとそばにいてほしかったのにと、そう叫んで。声が擦り切れるまでずっと、一人を呼び続けていた。


 自分ではない誰かの感情が、どんどん心の中へと流れ込んでくる。胸を焦がす強い感情に、ひどく心が揺さぶられた。


(これは、いったい誰の記憶だ……?)


 たゆたう意識の中で、ぼんやりと思考する。叫ばれる名前はなぜか言葉としての認識ができず、音がただ響くだけだった。愛しいと叫ぶ感情の中に、自分の無力さを呪う感情が混ざる。丁寧に耳を傾けてやると、激情は少しずつ意味をなすものへと変化していった。


 愛しい娘――自分の許嫁である彼女がどうして、山神に選ばれなくてはならなかったのか。身寄りのない、力の強いこども。その生い立ちゆえに彼女はすべてを犠牲にして、ヒトからカミになることを決められてしまった。


 水城神社の後継である自分ですら、それに異を唱えることができなかった。統べるカミを失くした山は、もはや荒廃していくだけである。人の中から誰かを立てねば、山もろともこの村は滅んでしまう。身寄りのない少女一人を犠牲にして大勢を助けるのか、村ごと犠牲にするのか。大人たちがどちらを選ぶのかなど、明白だった。


 何度も、何か違う方法はないのかと父に訴えた。だがそれ以外に方法はなく、何より少女自身がそれを受け入れたのだと一蹴され、意見は聞き入れられなかった。何より己の無力さが情けなくて、苦しかった。


 彼女を山神に奉じると決められてから、ほとんどの人間は彼女に会うことを禁じられた。儀式までの一か月間、人との交流を立って精進潔斎を行い、体を清めなくてはならないからだ。許嫁に別れの言葉すらかけられないのか、とひどく絶望した。もう一切彼女にかかわるなと何度も父に釘を刺されたのは、自分が彼女の手を引いて駆け落ちすることを恐れてのことかもしれなかった。


 駆け落ちするという手段を考えなかったか、と言われれば嘘になる。だが、この村を守る役目を任された水城神社の後継としてそれは許されるべきではない行為であり、そうするほどの勇気は自分になかった。


(ごめん。許して)


 自らの心を切り裂くような悲鳴と共に、謝罪の言葉がどんどん蓄積していく。勇気のない僕を。全てを犠牲にして君を救うことのできない僕をどうか。許しを請う声はやがて細くたなびく無数の糸になって、魂を包み込んでいく。


『玉の緒を ほどき結べよ 来世のえにし 継ぎ継ぎ転じて とどまり給え――』


 現世で添い遂げることができないなら、どうか来世で。いつかまた、必ず君のそばへいく。今度こそ、君を幸せにするために。祈りを込めた言葉はしゅとなって、魂に刻み込まれていく。


(これは、柚良さまの……)


 いつかはわからない、いにしえの記憶。かつて南木柚良と言う名をもった少女に、ただひとり寄り添った男の記憶だ。そう理解した瞬間、彼の魂はしゅるしゅるとほどけて光の粒となり、市伊の中へと吸い込まれていく。


 ――来世の僕へ。

 どうか、今度は。彼女がひとりぼっちで寂しくならないよう、そばにいてあげてほしい。彼女の全てを瞳に映せるように。彼女と言葉を交わせるように。僕の持てる力全てを、君に託す。


 ふわり、と。胸のうちに託された願いが響いた。彼女のためだけに紡がれ、綻ぶことなく残された願いだった。だが是とも否とも答えぬまに、市伊の意識もほろほろと崩れて消えはじめる。夢と現の狭間にある夢殿に居られる時間の刻限が来たのだ。


(俺は――……)


 その答えを、彼に伝えることができないまま。

 世界は白い光で塗りつぶされ、市伊の意識もまたその中へと溶けて消えていったのだった。


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