第六章 くゆる戦火に青光は落ちて 3
闇夜に浮かぶ細月を、少女はただ見つめていた。だんだんと欠けて無くなっていく月は、そのまま葛良の刻限だ。
「父様……私は、何としても任務を遂行して見せます。例え、どれほどこの手が汚れても」
ぎり、と唇を噛みしめて、震える声で少女は呟く。十を過ぎた頃、お前は偉い方のお子なのだと言われ、何もわからぬまま村を出た。連れて行かれた先は、まるで
大城山の邪悪な妖。それが「山を守護する神」なのだと言うことは、あらかじめ聞かされていた。帝が統べる土地に、帝以外が統べる場所があってはならない。だから「神殺し」をするのだと、そう言われた。そのためには、お前が適任なのだ。この村にすむ人々の──神が守護する人々の血が混ざった葛良でなければ、出来ない任務なのだと。そうして父に言われるがまま、葛良はこの地へ赴いた。命に背けば、その瞬間葛良は用済みになり、居場所を失ってしまうだろうから。
「市伊さん……どうか、私の非道を許して下さい。私は、どうしてもこれを成功させなければならないのです」
幼い頃、何度か言葉を交わした覚えのある青年。故郷に戻ってきてもほとんど顔見知りなどいなかった少女の、数少ない知り合いである。葛良の任務の助力をすると言ってくれた彼は、恐らく敵方の人間だ。普通の人であればわからないほど、彼は上手く葛良の味方であるように見せかけていた。適度に葛良に情報を流して安心させ、けれど核心を突く情報は何も渡さない。葛良の任務の期限は一ヶ月しかないのだ、と話せば、調査を引き延ばすような情報を出す。数多くの裏切りをうけ、騙され罠にかけられてきた葛良でなければ見破れないほどに、彼の情報戦は巧みだった。
けれど、そんな生ぬるい駆け引きももう終わりだ。葛良は明日「神殺し」を行う。そのために、彼には案内役になってもらわなければならない。
「かーごめ、かごめ……」
ふと口をついて出たのは、ある童謡だった。月士の中で歌い継がれる歌。それは正式な月士にのみ口伝で受け継がれるもので、いわば合言葉のような歌である。
「かごのなかのとりは……いついつでやる……」
月士という籠の中に囚われた自分は、その世界から離れることは出来なかった。少なくとも籠の中にいれば、自分の居場所はあると気付いてしまったから。連れてこられてすぐは村に帰りたいと泣いたこともあったが、いつしかそんなことも忘れてしまっていた。
歌を途中で止め、少女はぎゅっと心細そうに自分の肩を抱いて身を縮こまらせる。怖い。一歩踏み外せば奈落の底に落ちてしまう。そんな恐ろしさが常に葛良にはつきまとっていた。
払いのけても払いのけてもなおまとわりつく恐怖心。そんなものに負けてはいけない。自分はどんな手を使っても、任務を成功させなければならない。例え、それが自分の命と引き換えになっても。そう心を決めたのだと自分に言い聞かせて、自分を鼓舞する。そうでなければ、恐怖に負けて泣き出してしまいそうだった。
「どうか、神さま……罪深い私を──」
細月を見上げて呟かれた贖罪の言葉は、そっと闇夜に溶けて消えていったのだった。
今日の捜索はこれまでにないほど大規模になります。そう葛良から告げられて、市伊ははっと顔を上げた。いくつか、都から追加で黒子の部隊を呼んだのだという。月士の任務の補佐を行う黒子は探索に優れている。倍に増えた黒子部隊に忙しく指示を出す葛良をみながら、市伊は今後とるべき行動をいくつかはじきだしていっていた。
「市伊さんは、私と共に峠の道へ来て下さい。ただし、これは夜を徹しての調査になります。それでも来ていただけますか?」
「わかりました。ただ、俺が夜まで家に戻らないと家人が心配します。一度家に戻り、支度をしても良いでしょうか」
「ええ、かまいませんよ。妹さんも心配されるでしょうから、どうぞ行って下さい。我々には、後から合流して下されば良いので」
快く市伊を送り出した葛良に一つ頭を下げ、その場を辞す。表向きはああ言ったが、葛良のもとを一時離脱したのは、この大規模な捜索を柚良たちに知らせるためでもあった。
探索のための道具を何やら運び込む黒子たちの脇をすり抜け、市伊は家へと急いだ。大きな棺のようなものを運ぶ彼らの傍を通ったとき、ちりりと焦げ付くような痛みが胸を焼いた。五感の全てが「いよいよなのだ」と告げている。最後の詰め将棋を指し間違わぬよう、慎重に。そして迅速な判断を以て、行わなければならない。
「──天狗たち。葛良が動いた。護りを固める準備を」
そう呼びかければ、木に隠れて追従していた天狗たちが次々に飛び立っていく。その背を見送り、山の麓にあつまる木霊たちへ言づてを託す。
──山の全ての妖たちよ。総力戦でもって、柚良を守護せよ。これは、山の命運を分ける戦いである。
そうして、戦いの火蓋は切って落とされた。
手早く伝えるべき事を伝えた後、市伊は言葉通りに自分の家へと戻った。これからしばらく家をあけることを瑞季に伝えなければならない。だが、朝早くにこやかに市伊を送り出してくれた妹は、家のどこにも居なかった。
「瑞季、どこへいった……?」
じりり、と『警告』が胸を焼く。今日は家にいる、と言っていたはずの少女がいない。いいや、きっと少し誰かに呼ばれて家を出ているだけでは。そう思い直して、近所の家をいくつか訪ねた。だが誰一人として瑞季の姿を見たものはおらず、逝く先はようとしてしれなかった。
逸る心を抑え、最後の望みを託して市伊は機織り所へと向かう。村の女たちの集会所としての役割もあるそこは、情報を集めるのにうってつけだった。男が立ち入るのにあまりいい顔をしないまとめ役に事情を話し、瑞季となじみの女たちへ事情を聞く。ほとんどの女たちは首を振ったが、一人だけ心当たりがあると言う女がいた。
「最近、新入りの子が入ってね。その子と山へ薬草を摘みに行くのだ、と言っていたよ」
「新入り……? どこの家の娘だ?」
「そう言われれば、知らない子だったよ。おーい、あの子はどこの子だったかね」
はて、と不思議そうな声を上げた女が周りに居る女たちへと問いかける。だがまとめ役も含めて、その新入りの娘がどこの家の子どもなのか、知っているものはいなかった。
(術で、意識をそらしたのか)
人の意識を操る術があると、前に天狗に聞いたことがあった。隠密のものが潜入調査をし易くなるように使う術だという。知らない者に対しての警戒心をほんの少し緩め、親しみを抱きやすくする。そうすれば輪の中にすぐ溶け込むことができ、出身がわからぬ娘でも怪しまれることはない。そういうことを可能にする術だった。
「新入りは、どんなやつだった?」
「そうさね……細っこくて遠慮がちな子だったよ。たしか、瑞季ちゃんと同じぐらいの歳だったような……」
市伊は言葉を最後まで聞かず、機織り所を飛び出した。間違いない、瑞季は葛良の手のものにさらわれたのだ。思えば、あの融とのいざこざも葛良が仕掛けたものだったのかも知れない。市伊の大切なものをあぶり出し、あえて融と意見を違えることで、瑞季に手出しをするような人間ではないという意識を植え付ける。そうして、瑞季を騙してさらっていったのだ。
瑞季に対して、どうして話してくれなかったのだ、と言う思いがぐるりと胸で渦巻く。そのことを聞いていれば、決して関わるなと固く止めたのに。そうすればきっと、こんなことは起こらなかったはずだ。
──いや、だからなのだろう。瑞季が市伊に話さず、内緒にしておいたのは。話したら、必ず関わるなと止められてしまう。せっかく出来た友達が居なくなってしまうから、瑞季は話さなかったのだ。
ぐらりと足元が大きく揺らぐ。足がもつれて、派手に砂利へ体がたたきつけられた。くそう、と市伊は叫んで悔し紛れに地面を叩く。見破れなかった自分が不甲斐ない。妹にそう思わせてしまった自分が情けない。全ては市伊の甘さが招いたことだった。
あなたの天秤はどちらに傾くの、と問いかけた紫金の声が脳裏にひびく。柚良か、瑞季か、その心は決まらぬまま。ただひたすらに、市伊は峠の道を目指して走り続けたのだった。
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