世界の中心に愛は不要?

「巽くんさ、セックスしたいって思ったりする?」

「ぶふっ」


 いつもの放課後。晴れも曇りも雨も雪も雷も関係ない我が文芸部は、今日も狭い部室で学校祭に発表する冊子制作に向けて、一生懸命各々がやりたいことをやりたいようにやっていた。具体的には、俺がアガサ・クリスティーの推理小説にぼんやりと視線を落とし、無口ゆえに半ば文芸部の置物と化している鶴見鶴子はノートパソコンで何かをタイプし、部長である成宮鳴海に至っては退屈そうに視線を宙に泳がせていたという具合だ。

 そんな非生産的で静かな空間に身を委ねていた俺からすると、成宮鳴海のその一言はさながら青天の霹靂、予測不能な災害にも等しかった。


「………一応確認するよ。今なんて?」

「だから、セックスだよセックス。巽くんもやっぱり女の子とセックスしたいって思ったりするの?」


 成宮鳴海が口にしているのはあくまで学術的な言葉であり決して彼女がふしだらな女性というわけではない。多分。とはいえ、この歳の高校生なら口にすることに恥じらいを覚えるであろうその言葉を躊躇なく、しかも仮にも異性に対して発言するとは。初めて、この女子高生のことを凄いと思った。


「———それは、あれかい?成宮さんとすることには興味があるよ、とでも言って欲しいの?」

「巽くん、質問に質問で返してる上に私の問いに対する回答になってないよそれ。ゼロ点を通り越してマイナス五十点って感じ」


 ———同級生の女の子に生殖器のことを聞かれて冷静でいられる男子高校生がいるか?いや、いないだろ。


 そう言い返したくなったが、それを言ってしまうといよいよ立つ瀬がなくなるような気がして、俺は喉まで出かかった言葉をグッとこらえる。

 同じ部屋にいる鶴見鶴子をチラリと横目に見るが、成宮鳴海の爆弾発言すら意に介していないらしく、変わらずノートパソコンのキーボードを叩き続けている。というかそれ、何を打ち込んでるんださっきから。議事録を担当している彼女がいる以上、ここから先の成宮鳴海との会話は過去最大級に細心の注意を払う必要があるかもしれない。下手をすれば中二病以上に傷の深い黒歴史がネットの海に残ってしまうかも。そう考え、俺はなるべく平静を装いながら成宮に言葉を返した。


「いや、いきなりだったからつい」

「まぁいいけど。で、どうなの?」

「興味は……まぁ、あるけど」


 最後の一言は若干声が小さくなった。


「ふ~ん。まぁ健全な若人ならそうだよね。学生だろうが親だろうが先生だろうが総理大臣だろうが人間である以上三大欲求には逆らえないし。」

「どうしたのさ急に」

「今日さ、クラスで噂になってたじゃない。学園のマドンナみたいな三年の先輩に告白された二年の男子が、付き合って一週間で相手を振ったって話」

「あぁ」


 その話は俺もなんとなく耳にしていた。クラスの男子の何人かはうらやまけしからんとばかりに血涙を流していたりしたっけ。もちろん比喩表現であって実際には血の涙なんて流してないが。


「一週間で別れるなんて、なんで付き合おうと思ったんだろうねその人」

「それは男の方?女の方?」

「男の方」

「まさか、身体目当てだったとか考えてるわけ?」

「いやまぁ、可能性の一つとして?私は当事者じゃないし面識もないから、二人に何があったのか分からないしさ。そもそも人はどうして———」

「恋をするのかって?」


 もうそこまで聞くと彼女が何について考えていたのか予想はつく。成宮はやけに神妙な面持ちで頷いた。


「うん。私はそういう経験ないからさ、よく分からないんだよね」

「そりゃ―――」


 意外だ、と口にしそうになった。

 贔屓目に見なくても成宮鳴海は少なくとも見た目は可憐だ。言い寄る男子の一人や二人いてもいい気もする。が、おそらく言い寄るよりも先に彼女の人となりを知ってしまい誰も寄り付かなくなることは想像に難くない。

 というか、成宮は誰かに好意を持ったりすることがあるのか?

 それが気になってしまい、俺はもう少しだけ彼女の話に付き合うことにした。


「成宮さん、誰かを好きになったりしたことないの?」

「ないね」

「なんで?」

「なんでって、それは………なんでなんだろうね?」

「成宮さんにしては歯切れの悪い回答だね。いつもは自分のことも含めて割と客観的に分析できる人だと思ってたけど」


 客観的ではあっても論理が飛躍しすぎていることも多いが。


「巽くん、それは私を買い被りすぎだよ。私だって何でもかんでも理屈で割り切れるってわけじゃないんだよ?」

「まぁ、誰でもそうだとは思うけどさ」

「本題から逸れたけど、巽くんはどうして女性を好きになるの?身体目当て?」

「人聞きの悪い言い方しないでよ。そうだな……例えば、食べ物と同じだよ」

「え?女の子は食べ物?巽くんって意外とゲスいんだね」

「そういう意味じゃないって。好きな食べ物って誰だってあるでしょ?それがどうして好きなのかって言われたら、突き詰めれば“口に合うから”っていう理由に落ち着くと思うんだけど、人を好きになるのもそれと同じだと思うよ。なんとなく気が合うとか、そういうのじゃないかな」


 俺のその解答を聞くと、成宮はひどくつまらなさそうに椅子に背を預けた。


「う~ん。なんかスッキリしないな」

「抽象的じゃなくて具体的な科学的根拠が欲しかったの?」

「いやそういうわけじゃないんだけどさ。なんというか……苛々するんだよね」

「は?」


 苛々する?何にだ?


「巽くんの回答もそうだし、私がさっき言ったこともそうだけど、人間には三大欲求っていうものが備わってるでしょ?別の言い方をすればそれは本能ってことになるのかな。そういう動物的な生存本能ってさ、究極的には“種の存続”っていう目的に繋がってると思うんだ」

「まぁ、そうだろうね」

「つまりさ、私達が誰かを好きになるっていうことも結局は人間っていう種を残すため、悪く言えばそういう風に造られてるからってことだよね?」

「まぁ、そうなるのかな?多分」

「それが私は許せない」

「え、何が?」

「私の気持ちが、何か見えない大きなものに動かされてる感覚っていうのかな。私自身は別に次の世代に命を繋ぎたいとか人類が未来永劫地球の支配者であってほしいとかそういう望みはまったくないのに、そういう風に造られてるからっていう遺伝子の都合で誰かを好きになって、結婚して、子供を作るなんてさ。そんなの許せないじゃない。それこそ世の中には相手の身体目的で付き合って、一回セックスしたらポイするような人だっているんでしょ?そういう人って———」

「はいストップ、成宮さんとりあえずストップ。口を閉じて鼻で息して俺の話を聞いてくれ」


 途中から話が違う方向に進んでいるというか、成宮が一つ大きな思い違いをしているような気がして、俺は強引に彼女の演説を中断させた。


「要するに成宮さんは、本能とか身体目当てとかそういう“性欲”じゃなくて、“愛情”で誰かを好きになりたいってことだよね」

「うん」

「俺はさ、どちらも必要なものだと思う」

「え?」

「例えるなら、そうだな。“性欲”は土壌で、“愛情”は花とでも言えばいいのか」

「花?」

「異性に対して興味関心を持つために必要なとっかかりが“性欲”。それこそ相手の容姿とかスタイルとかね。その時点でまだ“愛情”はない。相手と関係性を築き始めた後に芽生えるものが“愛情”なんだと思う。だから本当の意味で誰かを愛するためには本能的な“性欲”も、相手を慈しむ“愛情”のどちらも必要なんじゃないかな」

「………」

「成宮さんは“愛情”で誰かを好きになりたいと思ってるんだろうし、それ自体を否定するつもりはないよ。もしかしたら世の中には本当に“愛情”だけで誰かを好きになる人だっているかもしれないし。でも、そういう動物的な本能みたいなものも、一概に嫌うこともないんじゃない?結果オーライっていうのかな。最終的に成宮さんが自分自身の意志で誰かを愛せるようになれば、それはきっと本能に強いられたものじゃなくて、成宮さん自身の気持ちってことになると思うよ」

「………」


 成宮はしばらくの間黙っていた。

 一通り話し終えて、思う。


 ———なに恥ずかしいこと言ってんだ俺。


 もしかしたらこの会話は、世間でいうところの『恋バナ』ではないか?内容がかなり哲学的だが、対話の相手が成宮と考えればまぁさほど違和感はない。むしろ逆に成宮が年頃の女の子がするような恋バナをする方が俺には想像できなかった。

 俺自身は成宮に対して何も思っていない。確かに見た目は可憐だ。内面にさえ目を瞑れば学年でも一、二を争うほどの美しさだろう。

 なのにどうして、この僅か数分の会話で心をかき乱されるのか。

 無意識で彼女を意識してしまっていた?彼女を抱きたいとでも?いや、ない。今自分が言ったことは彼女に対する反論というよりは、自分の気持ちを正当化したいがための言い訳にすら思えてきて、俺は心の隅に罪悪感を覚えた。


「———巽くん」

「えっ?」


 気付くと成宮は椅子から立ち上がり、俺の目の前にまで近づいていた。そしていつになく凛とした面持ちでこちらを見据え、ポンと俺の肩に手を乗せる。


「———クサい!台詞がクサいよ巽くん!!」

「はっ、はぁ!?」

「さては巽くん、私に惚れてるのかな?」

「話が飛躍しすぎだ!どこをどう受け取ったらそう解釈するんだよ」

「こう見えて私、着痩せするタイプなんだよねぇ~」


 成宮は上目遣いでニヤニヤしながら俺を笑う。胸を強調するように腕を組む彼女の姿を直視できなくて、俺は思わずそっぽを向いた。


「あっ、目逸らした。照れてるの?あ、もしかして巽くんってど———」

「誰がDTだ!!」


 童貞ではなくDTと呼称する時点で既に童貞くさい気がした。

 結局その日の話はそのまま有耶無耶になり、具体的な結論も彼女の納得も確認できないままにお開きとなった。

 ちなみに鶴見鶴子はと言うと、いつも通り表情を崩すことなくずっとパソコンをタイプし続けていた。


 後日談。


「二人とも!今日から部員が増えたよ!」

「……は?」


 いつもの放課後の部室でアガサ・クリスティーの小説に目を落とし、あわよくばそのまま意識を夢の世界に手放そうとまどろんていた俺を現実に引き戻したのは、もはや聞き慣れ過ぎて一種の環境音となりつつある成宮鳴海の大声だった。

 朦朧とした意識に不意に叩きつけられたその言葉の意味を脳が咀嚼するのには数秒の間を要したが、それよりも前に視神経がいつもの文芸部室に似つかわしくない異物の存在を捉えていた。男の俺から見ても端正な顔立ちと、爽やかで柔和な笑み。一見して落ち着きと誠実さを感じさせる美青年が成宮の隣に立っている。

 見慣れない顔が部室にいる時点で既に違和感しかないのだが、それ以上に気になる点がもう一つ。

 ブレザーのネクタイの色が違う。二年生の物だ。


「二年の小鳥遊貴志たかなしたかしです。よろしくお願いします」


 そう挨拶した二年の先輩の名前には、覚えがあった。以前成宮と話していた、三年のマドンナを振った男子生徒だ。直接面識があったわけじゃないし今日この瞬間まで顔も知らなかったが、名前だけはあの後風の噂で聞いていた。

 今話題の男子生徒がなぜ校内ヒエラルキー最底辺に近いこの寂れた文芸部に、という疑問がまず頭に浮かぶ。しかし同時に、小鳥遊先輩と一緒に視界に映り込んでいた鶴見鶴子を見て、もしかしたらと思うことがあった。


「小鳥遊さん、いろいろあって元いたテニス部を辞めることになっちゃったから、ウチの部活にとりあえず入れって顧問が言ってさ」

「いやぁ、すみません。恥ずかしい話なんですがいろいろあって部に居づらくなってしまって」


 居づらくなった理由というのはいくつか考えられるが、おそらく例の振った振られたの話が原因であったことは想像に難くない。我が文芸部には鶴見鶴子という前例が既にいる。

 もう一つ、自分の中である仮説が浮かび上がる。


 ———もしかして成宮、二人が別れた理由を本人に直接聞きに行きでもしたりしたのか?


 成宮のような厚顔無恥で自分の疑問に素直すぎる人間なら十分考えられそうな話だった。案外顧問もそれをいいように使って小鳥遊先輩をこの部で保護したのかも。成宮が納得する答えが聞けたのならいいんだが。

 

 ———なんか、はみ出し者のたまり場みたいになってないか?この部。


 ともあれ、我が文芸部に四人目の部員が加わった。

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成宮鳴海は考える 棗颯介 @rainaon

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