尊くもくだらないもの

「巽くん!」


 退屈な授業をやり過ごし、少しオレンジ色に染まり始めている日差しが差し込む静かな旧・理科準備室もとい現・文芸部室。エラリー・クイーンの作品をあらかた読み終えた俺は横溝正史の作品を読み始めていた。今読んでいるのは、タイトルを明記することは避けるが、頭に懐中電灯を括りつけた男が刀と猟銃を持って村人を惨殺する事件が過去に起きた曰くつきの村で行われる連続殺人事件を取り扱った作品だ。世間的には小説よりも映画やドラマのイメージの方が強いかもしれない。俺自身過去にテレビで見たことがある程度の知識しかなかった。たまたま高校の図書室で見かけていなければ、あるいはこの文芸部に所属していなければおそらく読むこともなかっただろう。


「ねぇ巽くん!」


 普段からそんなに読書をすることがない俺だが、こうして文字の世界に触れるのは嫌いじゃない。長い人生、時にはこうして心穏やかに静かに無為自然に過ごす時間も必要だろう。


「巽くんってば!!」

「さっきから何、成宮さん?」

「何じゃないよ、人が呼んでるのに」

「こっちも今読んでるところなんだ」

「今はそれは置いておいて、私の話を聞いてよ」

「一応聞くけど、それは正解とかオチのある話?」

「正解もオチもない話だよ、多分」

「……」


 俺は何も言わず文字の世界に戻った。

 先日の“二十パーセントの『L』”の一件以来、俺はどうやら成宮鳴海にすっかり気に入られてしまったらしい。こっちとしては迷惑千万なのだが。普段休み時間や教室移動中にあからさまに話しかけられるようなことはないが、どことなく彼女の視線を感じることがここ数日増えたような気がする。


「無視しないでよ!」

「はぁ。わかった、とりあえず着けって」

「落ち着いてるよ」


 冗談が苦手な俺なりに精一杯ジョークを言ってみたつもりだったが通じなかったようだ。それとも目の前にいる成宮鳴海がそれに気付けないほど落ち着きがないせいか。多分両方だろう。

 正直なところ、彼女がこの後どういう話をするのかなんとなく予想はついていた。あの噂は俺の耳にも届いている。


「昨日、別のクラスの鶴見って子が自殺未遂したんだって」


 予想的中。


「あぁ、鶴見鶴子つるみつるこさんね」

「鶴子っていうんだ下の名前。仲良かったりするの?」

「いやそういうわけじゃないんだけどさ」


 別のクラスの鶴見鶴子という女子生徒が自殺を図ったというニュースは既に学年中の噂になっていた。理由は所属していた部活内での人間関係の不和が原因ではないかと言われているが、家族が止めたんだかそれとも運が良かったのか詳しくは知らないがとりあえず軽傷で済んだらしいと聞いている。

 ちなみに俺はその鶴見鶴子という女子と面識があるわけではない。であるにもかかわらず俺が鶴見鶴子のフルネームを覚えている理由は、また後ほど。


「なんで自殺なんてしたんだろうね」

「それこそ正解は本人しか知らないことでしょ」

「まぁその子が自殺しようとした個人的な理由自体にはあまり興味はないんだけどさ」

「意外と薄情だな。まぁ接点ないだろうし仕方ないけど」


 むしろこの変人として有名な成宮鳴海に世間一般で言うところの“友人”と呼べる存在がこの学校にもしいるのなら驚きだ。生徒会の広報担当に告げ口すればギャランティが発生するかもしれない。

 ちなみに俺は友人ではない。断固として友人ではない。


「巽くん、人間は何のために生きるのか考えたことある?」

「もしかして成宮さんって少年誌好きだったりするの?悪のカリスマの吸血鬼が同じようなセリフ言ってる漫画読んだことあるけど」

「話を逸らさないで。来月の文化祭で出す冊子のネタになるかもしれない話だよ」


 人間は何のために生きるのかというテーマで書いた冊子を全校生徒および不特定多数の文化祭来場者に配布するのは文芸部はおろか我が校始まって以来の恥を晒すことになる予感しかしない。成宮鳴海はといえばすでに部室の古びたパイプ椅子に座りながら机に両肘をつき、さながら某有名アニメ作品の司令官のように組んだ両手の甲に顎を乗せて睨みつけるようにこちらを見ている。美人の女子高生に見つめられるのは男冥利に尽きるがその相手が成宮鳴海だとこうも疎ましいとは。


「あるかないかで問われれば、あるけど」

「その結論は?」

「死ぬのが怖いから」

「とてもシンプルで分かりやすい結論だね」


 得心がいったように頷く成宮鳴海を見て俺は安堵することができなかった。人と議論するのが大好きなこの女のことだ、多分ここからさらに話を変な方向に持っていくつもりだろう。


「じゃあどうして死ぬのは怖いのかな?」


 文芸部入部以降、俺の読書のペースが明らかに落ちているのは十中八九成宮鳴海によるものだろう。割合的には成宮鳴海が提示する議論による部分が八十パーセント、それに付き合う俺という人間の寛容さプラス甘さが二十パーセントだ。

 今日も俺は溜息と共に持っていた本を閉じ、机の上に置く。祟りが起きた村の連続殺人事件の解決は明日に先延ばすことにしよう。殺されてしまった被害者は帰ってこないし犯人も探偵も文字の世界からは逃げない。


「それに回答するとすれば、死ぬときに体験する苦痛、裂傷に伴う出血や打撲、あと窒息などが怖い、かな」

「大部分の人はそうだろうね。じゃあ仮に巽くんが自殺したいと思ったとするよ。その時都合よく目の前に苦しまずに死ねる薬があったとしたら、それでも死ぬのは怖いと思うかな?」

「どうだろう。確かに物理的な痛みがない分恐怖も和らぐだろうけど、けどやっぱり心のどこかで怖いと思うんじゃないかな。死ぬっていうのがどういう感覚なのか、死んだ後に何があるのかは分からないからね」

「そう、まさにそれ。“分からないことが怖い”。人間っていうのは、いやもしかしたらこの地球上に存在するすべての生物がそうなのかもしれないけれど、分からないということに対して恐怖を覚えるものなんだと私は思うんだよね。これはきっと本能に近いと思う。自分に理解できないものを人は恐れる。そしてこの現代において地球という世界の大部分を開拓し尽くしてもなお人間が理解できないものの一つが“死”という概念なわけだよ」

「そりゃ成宮さんが好きそうなテーマだ。死がどういうものなのか解明することを成宮さんが生きる理由にでもしたらいい」

「皮肉が上手いね巽くんは。ここで、逆説的に考えれば世の中の大多数の人が生きる理由の一つは“本能的に死ぬのが怖いから”ってことになるよね。つまり世の中の大多数の人は生まれながらに、あるいは自我というものが芽生えた時点から既に生きる理由を持っているということだよ」


 熱心に語る成宮鳴海の姿は彼女の後ろにある部室の窓から差し込む淡いオレンジ色の日差しも相まってどこか神秘的だ。語っている内容からして既にスピリチュアルというかセンチメンタルだからか、それとも成宮鳴海の外見だけの美しさゆえか。


「それなのに、どうして自殺する人は後を絶たないんだろうね」

「ここまでの話の流れで考えれば、何らかの要因で死の恐怖を感じない人か、もしくは現状が既に肉体的・精神的に苦痛であるために死の苦痛を意に介することがない人種ってことになるんじゃないかな」

「そうなるよね、やっぱり」


 そこで一旦成宮鳴海は口をつぐんだ。どうやら彼女の中ではこの議題に関する結論はここで止まっているらしい。

 少し、話の流れを変えてやろう。


「死ぬことで現状の苦痛から解放されると思ってる人は多いよね。あの世とか天国とか煉獄とか地獄とか黄泉の国とかヴァルハラとかそういうものがあるかどうかは置いておいて、少なくとも死ねば今この世で味わっている苦痛を感じることはなくなる。俺は法律には詳しくないけれど、刑法で一番重い刑は多分死刑だっていうのも、逆に言えば死ねばこの世における自分のすべての罪は許されるって言ってるようなもんだし」

「死は救いであるという解釈?」

「むしろ自死を選ぶ人のほとんどはそう解釈しているから死ぬんだと思うよ」

「個人の視点から見たこの世における問題を解決するための最終手段が、イコール死ってことなのかな。生きる上で発生した課題を解決するために死ぬっていうのは、なんだか本末転倒な気がするよ。ロールプレイングゲームで例えるなら自分のHPをゼロにする代わりに大ダメージを与える技みたいなものだよねそれ」

「例えが少し微妙な気がするけど、そういうことなんじゃないかな」

「そう考えると、自殺っていうのは人間のすべての行いの中で最上級の勇気ある行動と言えるんじゃないかな」

「蛮勇っていう言葉が何のためにあるか知ってる?」

「まぁ、その他大勢の人から見れば蛮勇にしか映らないんだろうね」


 まるで自死を正当化するかのような成宮鳴海の発言は、蛮勇と言って切り捨てはしたがその実真理なのかもしれないと思う自分もいた。普通の感性を持った人間ならば死を恐れることが当然であるはずなのにそれでもなお自ら命を絶つという行動は勇気がなければできることではない。不謹慎ではあるかもしれないが、地球の歴史上でこれまで行われてきた戦争と呼ばれる悲劇においても自らの命を犠牲にして一矢報いた兵士たちを英雄と呼ぶことがあるように。

 成宮鳴海は死という重いテーマで話していることを微塵も感じさせないあっけらかんとした表情で部室の天井を仰ぎ見た。


「でも、いくら勇気ある行動だって仮に周りが認めたとしても、結局死んでしまったら他の楽しいことや嬉しいことも感じることができなくなるんだよね」

「自殺しない人のほとんどは、“本能的な死への恐怖”とはまた別に生きる目的とか夢とか楽しみを持ってる人ってことなんだろうね。結局のところ、人間が生きる理由なんてそれに尽きるんじゃないの?毎週楽しみにしているアニメがあるとか、発売予定のゲームソフトをプレイしたいとか、憧れの職業に就きたいとか、傍から見ればどうでもいいようなことを生きる理由に設定してる人の方が多いんじゃないかな。中身がどんなにくだらないとしても本人がそれを生きる理由だって思っていればそれだけで世の中の苦痛に耐えることもできるし、明日を生きる力に変えられるんだと思うよ」

「つまり、“人間は何のために生きるのか”という最初の命題に対する解答を一言で提示するなら“往々にしてくだらないことのためである”という答えになるわけかぁ。この間もそうだったけど、世の中っていうのは本当に些細なことやくだらないことに溢れているんだね」


 視線を部室天井の染みからこちらに向けた成宮鳴海に俺は会話を締めくくるにふさわしい結論を告げた。


「くだる、くだらないを判断するのはその人の価値観によるからね。」

「なんというか、その結論に至るまで随分遠回りした気分だよ。答えは前回既に出したものだったのに」

「むしろ成宮さんはそういう無駄な遠回りが大好きだと思っていたけど?」

「まぁそうなんだけどね。でもさ、考えたらそういう趣味とか夢とか好きな人とか、生きる目的に相応しい些細なことやくだらないことを持っていない人っていうのは、イコール自殺に至る可能性が高いってことだよね。巽くんはどう?そういうくだらない理由、持ってる?」

「とりあえず、巽辰也はこの文芸部の活動のために生きているわけではないということだけ明言させてもらうよ」

「ひどいな、私は結構楽しいんだけど」


 その日の議論は、“二十パーセントの『L』”の時と比べれば多少は穏便というか、白熱することなく締めくくることができた。文化祭の冊子に掲載する内容に付け加えておくと成宮鳴海に言われたときは冷や汗をかきながらうまく言い包める羽目になったが。


 ここから話す内容は後日談だ。

 まず結論だけ述べよう。文芸部に新入部員が加入した。“人間は何のために生きるのか”というテーマについて成宮鳴海と論じた翌日の放課後、文芸部室で昨日ストップしていた祟りが起きた村の連続殺人事件の推理に没頭していた俺は既視感のある呼び声で現実に引き戻された。


「巽くん!」

「なに成宮さん――って」


 文芸部室のドアを勢いよく開けた成宮鳴海の背後には、やや顔を俯けた背の低い少女の姿があった。口を開きさえすれば闊達な印象しかない成宮鳴海とは対照的に、なんとなく物静かでドライな印象を与える少女だった。


「今日から文芸部に新しい部員が増えたよ」

「えっと、後ろにいるの鶴見鶴子さんだよね」

「そう、顧問から言われたの。部費でノートパソコンを買ってあげた代わりにこの子を文芸部に入れてあげてって」


 そう言う成宮鳴海の脇には届いたばかりと思われるノートパソコンを入れた段ボールが抱えられていた。顧問の意図は明らかに部内で人間関係を拗らせて自殺を図った鶴見鶴子を別の部に避難させることだろう。このお堅い校風の高校では原則部活の無所属は許されていない。どこかに所属しなければならないのなら一番緩いこの部活とでも考えたのだろうが、ここには既に成宮鳴海という校内でも有名な変人という爆弾があるわけで。そんなところに放り込まれたら今度は違う意味で自殺しかねないぞ。あるいは俺と成宮鳴海が二人で活動していることを気にした顧問の粋な配慮なのかもしれないが、それにしたってつい最近自殺未遂を起こした生徒を寄越すというのはなんというか、違う意味で配慮が足りていないと思うのは俺だけだろうか。

 そういえば、冒頭で述べた俺が鶴見鶴子のフルネームを覚えていた理由だが、なんてことはない。たまたま、今読んでいた横溝正史の作中に鶴子という登場人物が登場していたからすぐに覚えられたというだけだ。察しの良い方ならお気付きだったかと思うが。

 成宮鳴海の背後に立っていた鶴見鶴子は徐に前に歩み出ると、機械的な動きで俺に向かって一礼した。

 

「……鶴見鶴子です、よろしく」

「巽辰也です、よろしく?」


 鶴見鶴子の口から発せられた声からは、どうしようもなく暖かみというものが感じられなかった。何があったか詳しくは知らないが一度死を選んだのだからまだ立ち直れてはいないのだろう。

 一体、鶴見鶴子は何を思って自死を選んだのだろう。友人関係の縺れなんて世の中のどこにでもあることだろうに。友人の一人や二人を失ったところでそれがどうだというのだろう。すぐそばにいる成宮鳴海という少女には友人が一人もいないというのに。

 だが、死を選ばせるだけの“尊くもくだらないもの”を持っていたというのは、少し羨むべきことなのかもしれない。彼女にとっては、それこそが自分の生きる理由だったのだろう。

 ともあれ、文芸部に訳ありな少女が新たに加わった。

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