成宮鳴海は考える

棗颯介

二十パーセントの『L』

「ねぇねぇ、言葉と世界の関係って面白いと思わない?」


 新校舎の増築に伴い空き部屋となった旧理科準備室。元々置いてあった実験用具の年季の入った独特の香りが鼻につく麗らかな放課後に、俺の目の前で分厚い本を捲っていた成宮鳴海なるみやなるみが不意にそう言った。


「何が」


 それなりに楽しく読んでいるエラリー・クイーンの推理小説から一ミリも視線を移すことなくぶっきらぼうな声で返事だけすると、成宮鳴海は声を聞いただけでも分かるくらい得意気に続けた。


「言葉を英語に直すとWORDでしょ。世界を英語に直すとWORLD。言葉に『L』を足すと世界になる。なんだか面白いと思わない?」

「いや別に」

「英単語五文字の『世界』について、そのうち四文字、つまり八十パーセントは『言葉』、残り一文字の二十パーセントは『L』になるわけだよ。この『L』って何なのかな?巽くんは何だと思う?」


 やれやれと心の中で溜め息を吐きながら、作中の探偵による密室殺人のトリックの解説を途中で打ち切って本を閉じる。

 そこで漸く顔を上げると、目の前にいた成宮鳴海は声色から容易に連想できたのと寸分違わぬしたり顔をしていた。


 俺がこの二人しかいない文芸部に入部したのは、うちの高校が文武両道などという今の世の中では古臭すぎて学生の反感を買うこと山の如しな校風を掲げていたせいだ。学生はアルバイト禁止、必ず部活動に所属しなければならない。進学校なのに部活に強制入部させるというのは些か非効率ではなかろうか。現にここ数年我が校の偏差値は緩やかに下降していると聞いているし、部活動で野球部が甲子園に出場したとか卒業生がプロの世界で活躍しているなどという話も聞いたことがない。

 この俺、巽辰也たつみたつやが文芸部に渋々入部した理由は一番楽そうな部活だったから、ただその一点に尽きる。元々部活というものに対して情熱もなく、そんな俺が他の生徒なら大なり小なりしている仮入部だとか同じ部活に入ろうとしている同級生のリサーチを怠っていたのはまったくもってミスだった。

 目の前にいる見た目だけは可憐な少女、成宮鳴海と同じ部に所属すると分かっていたなら、多少身体に鞭を打つことになったとしてもバスケ部かハンドボール部にでも入っていたことだろう。これでも運動神経は良い方だ。

 成宮鳴海。思わず声に出してみたくなるほどフルネームの語感が恐ろしく良い彼女は、学年でも有名な変人だった。名は体を表すというが、変な名前の人間は中身も変なのだということを俺はこの高校に入って初めて知った。容姿は端麗、成績も悪くない。だが感性や興味を示す対象がどうしようもなく周りとずれているのだ。普通の女子高生ならアイドルだとかお洒落だとかスイーツだとか恋だとかそういうものに興味を示すのが一般的だろう。だが成宮鳴海は違う。一般的ではなく、一言で言えば哲学的だ。冒頭の世界の構成要素がなんたらだとか人間が生きる目的だとか、中学生が新書か聖書でも読んで影響されたようなことばかり口にする。そんな女子高生が周りと打ち解けるはずもなく。休み時間になるといつも彼女は教室で一人難しそうな本の世界にダイヴしている。

 面倒が嫌でやることがなさそうな文芸部に入部した俺がなぜこの文芸部室になったばかりの旧理科準備室で成宮鳴海と二人で読書に興じているのかというと、来月行われる文化祭で文芸部から冊子を出せとのお達しが出たから。他の幽霊部員の先輩達よろしくエスケープしたいところだったが、不幸にもこの文芸部の顧問は俺と成宮鳴海の担任教師だ。さすがに担任が顧問を務めているクラスの部員が指示を無視するわけにもいかず。俺たち二人以外に集まっている部員はいない。この文芸部の全部員は把握していないが、一つだけ断言できることがあるとすれば、同学年の部員は俺たち二人だけだということだ。成宮鳴海が所属している部活に入部しようとする物好きは、俺たちの学年にはきっといない。俺のように迂闊でなければ。


「『L』ねぇ、Loveとか?」

「恐ろしく安直すぎる回答だよ巽くん」


 それは悪ぅござんした。英語の成績はあまり良くないものでね。


「じゃあ成宮さんは何だと思うの?」

「そうだねぇ、Loopなんてどうかな?言葉が連なることで世界に成るみたいな」

「Loopって“連なる”なんて意味あったっけ?」

「無いけど、ループするっていう意味ならLoopを当てはめることに矛盾はないと思うよ」

「じゃあLoopってことで」


 俺はそう言って早々に会話を打ち切り、エラリー・クイーンの推理に戻ろうと本の表紙を捲る。しかし、成宮鳴海という女は一度アクセルを踏むと壁に激突するまで止まらない。


「しかしだよ巽くん。世界ってそもそもなんなんだろうね」

「俺たちが住んでいる場所」

「確かにそう定義することもできる。というかそっちの考え方の方が一般的だろうね。でも今回の話でいうところの世界っていうものの構成要素は八十パーセントが言葉、言語なわけだよ。人類が住んでいる場所の八十パーセントが言葉って考えると、住む場所っていう捉え方は微妙に違うと私は思うな。土や水や木を構成する要素のうち言葉が占める割合はどう考えても八割もないよ」

「世界の構成要素の八割が言葉っていうのは成宮さんの考えでしょう。しかも英単語にこじつけただけの。日本語で表記したときは普通に『言葉』と『世界』で何の関連性もそこには見出だせない」

「まあそうなんだけどね、でもそこは私が提唱する世界の八十パーセントは言葉であるという仮説を前提として考えてもらいたいかな」


 どうして俺が成宮鳴海が提説する世界構築論について考えなければならないかまったくもって理解できない。そもそも。


「成宮さん、俺達は文化祭で出す冊子を書くためのアイディア探しでこうして読書に励んでるわけですよね」

「そうだよ」


 四文字。ようやく彼女の短い発言を聞けた気がする。


「だとしたらここで世界の成り立ち云々について成宮さんと議論する意味が俺には見出だせない」

「何言ってるのかな、大いに意味はあるよ」

「どんな?」

「世界の成り立ちを学術的に考証するというテーマで冊子を書くことができるじゃない」

「それって文芸部の出す内容として適当って言えるのかな」

「まあいいんじゃないかな、そもそも文芸って一言で言っても具体的に文芸ってなんなのか意味がフワッとしてるし。言葉について扱ってるなら多分文芸の守備範囲内だと思うよ、形にするのも結局文章だしね」


 あ、と何かに気付いたように短く息を吐いた成宮鳴海は徐にパイプ椅子から立ち上がり、おそらく元は理科準備室の備品だったのであろうホワイトボードに何かを描き始めた。


「そもそもさ、世界っていうものを表現するために絶対的に必要なものは言葉なわけだよ」


 成宮鳴海は水性黒マジックでボードに『世界』と書いた。妙に達筆な字だ。


「こうして世界って書くために必要なものは文字、言葉なわけでしょ?そう考えると言葉は世界の支配下にあるんじゃなくて、むしろ世界が言葉の支配下にあるんじゃないかなって思うよ」


 『世界 ⊂ 言葉』と続けて書いた成宮鳴海は興奮気味に同意を求めるかのような視線で俺を見る。やめろそんな目で見るな。さっきまで頭の中で予想していたクイーンの推理が忘却の海に漂流することになってしまう。

 変人とはいえ可憐な少女に熱心に話しかけられて無下にできない俺は相当な初心かお人好しだろう。推理を完全にクイーンに委ねることにした俺は成宮鳴海がなるべく好みそうな返答を返してやった。


「例えるなら、人体を構成する要素の六十パーセントは水分であり明らかに『人間 ⊃ 水分』であるが、逆に言えば水分無くして人間は生存できない、みたいなこと?」

「それはかなり言い得て妙だよ巽くん。つまり逆説的には言葉がなければ世界という概念は存在できない。なかなか面白い話だと思わない?さぁ、そこでもう一つの疑問が浮かんでくるわけさ。最初の話に戻るけど、この世界は八十パーセントの言葉と二十パーセントの『L』でできているという仮説を真とするなら、二十パーセントの『L』もまた言葉と同様に“『L』がなければ世界は存在できない”という解が導き出されるんじゃないかと私は思うわけさ」


 それは屁理屈とか論理の飛躍とか詭弁とかそういう類の何かなんじゃないだろうか。


「えっと、冒頭の議論では『L』が指すものはループの『L』だという結論になったんだっけ」

「そう。でもループ無くして世界は存在できないっていうのは文章の意味として成立しないよね。いや、言葉を重ねることで世界になるという意味では成立するのかもしれないけどさ」


 つまり、成宮鳴海の中の論理では『L』=『Loop』の解は成立しないということらしい。どうやらここからさらに『L』の正体について闊達な議論が予想されます。旧理科準備室付近の全校生徒は速やかに下校してください。


「『L』がLoopじゃないなら何なのかな?Learn(学ぶ)とか?言葉を使うには学びが必要っていう意味で。いやそれともLanguage(言語)?二重の意味になっちゃうけど。あるいはLabor(労働)?でもそうなると学生は労働してないしなぁ」

「そもそも『L』を何かの単語だとする解釈が間違っているという可能性はないのかな」

「というと?」

「例えば『L』を文字ではなく図形として捉えてみるのはどうだろう」

「図形?『L』を図形で………時計の針に直すと三時だね。でもどう解釈したら三時が世界を形作るっていうの?」

「あくまで一例。何かの頭文字っていう固定観念を捨ててみるのもいいんじゃないって話だ」

「なるほどね、固定観念かぁ。そういえば今まで英単語の頭文字って考えていたけれど別に単語で縛る必要もなかったね。文章の頭文字とか」

「文章だと割と何でもありになっちゃいそうだけど?」

「それがいいんじゃない。考察の幅が広がるし」


 そのままブツブツと何やら独り言を呟きながら目を瞑る成宮鳴海に、俺はこの放課後何度目になるか分からない溜息をつく。どうしてそんな小難しいことばかり考えるんだこの女は。というか、世界がどういう成り立ちでできているかを知ったとしてそれでどうなる?俺達はこの世界に生きてせいぜいマシな人生を送れるように努力するだけだ。深く考える理由がわからん。

 そもそも、成宮鳴海が提説する二十パーセントの『L』について正解がどこにある?この世界には数え上げればキリがないほどの人・物・概念に満ち溢れているわけで。砂漠どころか銀河系から米粒を探すような不毛な行為だぞきっと。


「あのさ成宮さん」

「……え?なに?」


 顔をあげた成宮鳴海の顔は思わず胸がときめきそうになるほど美しい。本当に黙っていればただの美少女なのに。


「この議論に意味はあるのかな」

「さっきも言ったでしょう。この議論の結果を文芸部の冊子のテーマにできるって」

「だけど二十パーセントの『L』について正解を持っている人間はおそらくこの世界のどこにもいないわけさ。そんなことについて俺たち二人が延々頭を悩ませるくらいなら、エラリー・クイーンの小説の読書感想文でも書いた方がずっと建設的だと俺は思うよ」

「かもね。でもさ、面白いじゃない」

「面白いって何が」

「誰も正解を持っていないことについて考えること」

「どうして?」

「自分なりの答えを導き出せたとき、もしかしたら自分はこの世界で唯一正解を持っているかもしれない人間になれるでしょ?もしかしたら自分の出した答えがその他大勢にとっての正解であり真実になるかもしれない。そう考えると、正解がないことについて考えるっていうのはきっと無駄ではないと思うな」


 やはり、この成宮鳴海という少女は価値観が同世代とずれている。ちっぽけな人間一人が本気で世界を動かせるとでも思っているのだろうか。その可能性を否定するつもりはないが、一人の人間が世界を動かすには相応の社会性や財力や権力が必要だろう。世の中の総理大臣や大統領のように。


「成宮さん」

「え?」

「この世界は人間が生きていく上で気にしなくてもいい些細なことに溢れていると俺は思うわけ。今俺達が興じているこの議論がまさにそれだ。そういう意味では文芸部の活動も俺にとっては些細なことで本当なら無視したいことこの上ないんだけどね。成宮さんの思想を否定はしないけれど、自分がとてつもなく利口じゃない生き方をしてるっていうことを多少は自覚した方がいいと思うよ」


 あえて“馬鹿”ではなく“利口じゃない”という表現をしたのは俺なりの気遣いだ。この手の輩は下手に刺激するとどんな行動に出るか分かったものじゃない。目の前の華奢な少女が自分をどうこうできるとも思っていないが、この狭い文芸部室で二人きりの状況では何かあった時に困るだろう。

 俺の言葉が身に染みたのか、成宮鳴海は顔を俯いて沈黙する。

 なんとも気まずい静寂が文芸部室を支配し、居心地の悪さを払拭すべく再度エラリー・クイーンの推理に戻ろうとした時。


「そうか、分かったよ巽くん!」

「な、なにが?」


 不意に大きな声が文芸部室に響き渡り、思わず手に持っていた本を床に落としそうになった。


「二十パーセントの『L』の正体は、些細なことだったんだよ」

「え、あぁ、うん、些細なことだと思うよ」

「些細なこと、つまり英語に直すとこうなるわけさ!」


 成宮鳴海は再びパイプ椅子から立ち上がり、先程とは異なるやや書きなぐりの字でホワイトボードに何やら英文を書き始めた。


 『the Little things(些細なこと)』


「すごいよ巽くん!私こんなに感動したの久しぶり!」

「いや、あのさ」

「この世界には些細なことが溢れている。でもその些細なことこそが世界を形成する重要な要素。なるほど、すごく良いよ!うん、すごく良い!この世界は八十パーセントの『言葉』と二十パーセントの『些細なこと』でできている。なんて素晴らしい解答なんだろう!!」


 どうしよう、何やら一人で盛り上がっていらっしゃる。


「巽くんはすごいね、巽くんがいなかったら私だけじゃきっとこの正解にはたどり着けなかったと思う。君が同じ文芸部員で本当に良かった!」

「そりゃあ、どうも」

「よし、これで文化祭の冊子で書く内容は決まったね!“この世界は八十パーセントの『言葉』と二十パーセントの『些細なこと』でできている”。なんてキャッチーな論文だろう!」


 まぁ、少なくともこの文芸部室という狭い世界においては確かに八十パーセントの『言葉』と二十パーセントの『些細なこと』しか存在しないのかもしれない。俺からしてみればこの文芸部室に存在するもの百パーセントすべてが完全に『些細なこと』なのだが。


「よし、そうと決まったらさっそく作文用紙準備しないと!あ、いや、いっそのこと部活の経費でノートパソコンでも買ってもらおうかな。今後の活動を考えたらその方が都合いいだろうし。あ、もちろん論文は私と巽くんの二人の連名で書くから安心してね!」

「は、連名?」

「うん、だってこれは私と巽くんの二人で考えて出した結論だもん。二人の名前きちんと書かないと」

「ちょ、ちょっと待った!」


 冗談じゃない。変人で有名な成宮鳴海と並びで名前を書かれたりなんてしたら周りからどんな目で見られるかわかったもんじゃない。ただでさえ彼女と同じ部活に所属しているというだけでイエローカードなのに。


「えっと、まだ文化祭まで時間はあるしさ、もう少し書く内容について吟味してみるのもいいんじゃないかな?他にもいろいろ本とか読めばもっと面白いアイディア浮かぶかもしれないし」

「そっかぁ、それもそうだね。じゃあ巽くん、明日の放課後も部室に集合ね!約束だよ!」

「え、あ、うん」


 何やら一方的に約束させられてしまった。

 だが可憐な少女と再会の約束をするというのは、少しだけ心がざわついた。変人ではあるが、妙に憎みきれないところがあるのは容姿もそうだが悪意がないからだろうか。

 まぁ、見方を変えれば彼女がいれば俺が冊子を書かなくても彼女が書いてくれる公算が大だということだ。せめて文化祭が終わるまでは媚を売っておくのも悪くないだろう。


 浮かれながらパイプ椅子に座りなおした成宮鳴海が手に取った分厚い本。先程まで気に留めていなかったが、その表紙に『英和辞典』の四文字を捉えた俺は、やはり彼女とはあまり関わらない方がいいのかもしれないと認識を改めた。

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