第二部 Execute

その日の朝はあまりにも心地よい目覚めだった。

目覚ましよりも早く起きたのは何ヶ月ぶりだろうか。

家を出てカフェに来るまでの記憶は酷く曖昧で、青信号をきちんと渡っていたかさえよく覚えていない。

ただ記憶にあるのは2・3度鳴ったクラクションの音。しかし、それが私に向けられたものなのかどうか検討がつかない。

ひょっとすると私を引き留めようとした音なのかもしれない。或いは、私のいたずらな殺意が冷めないように、アクセントをつけていたのかもしれない。

「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」

バカに明るい店員の声。

「2人。1人待ち合わせ。あとこれ預かっといてくれる?」

私はスーツケースを差し出した。

「はい…。かしこまりました!こちらの席へどうぞ。」

無愛想な私に対しても店員は明るくなれた調子で席へと案内する。スーツケースにはさすがに少し首を傾げていたが。

店員は私を扇動して歩いていく。肩からぶら下がっている黒いカバンの中に、包丁が入っているとも知らずに。

「ご注文が決まり次第…。」

「アイスコーヒー」

「かしこまりました。」

今はくだらないことに時間を費やしている暇はないのだ。

もう一度、昨日ノートに書き留めたことを思い返す。

いや、何度思い出してもなんと精巧で緻密の計算のなされた美しい計画なのだろう。

私は咄嗟に口元が緩んではいないかと唇に触れた。

まず、このカフェを出て少し行くともう人通りはほとんどない。そこでかなこさんを背後から刺す。

死体となった彼女をカバンの中にある黒いゴミ袋に包む。そして都合のいいことにこの近所には有名な無人のゴミ屋敷がある。

そこに加奈子さん死体を隠し、一時的に離れる。

そしたら、あとはここに預けたスーツケースを取りに来て、その中に死体を詰め込み、電車に乗り込み海のある場所まで行く。

あとはスーツケースを開けて死体を突き飛ばすだけである。

その後に残るのは、青く綺麗な海と空と雲だけ。風も私の計画の遂行を祝福し頬を撫でてくれるだろう。

私が計画のイメージトレーニングにくれていると、目の前に人の気配を感じた。

ふと顔をあげると加奈子さんである。

目線を右往左往と泳がし瞬かせながら、唇を軽く噛んでいる。

肩を小さく丸め、両手のひらを膝の上に置いている。

歴然とした私の態度とは対照的に、加奈子さんは病院に連れてこられた子供みたいにびくついている印象を受けた。

私はニヤリと笑ったかもしれない。分からない。表情に出ていなかったように思うが断言はできない。

この人はまるで弱者だ。蛇に睨まれた蛙だ。

ここまで来れた勇気は賞賛に値するが、そこから先をまるで考えていない。

或いは、考えていたのかもしれないが私を目の前にして、この不動の美女を目の前にして足元がすくみ、不倫の理由さえ見出したのかもしれない。

そうだ、私はあのLINEの文面から薄々感じていた。この文は何も考えず乱暴にうった、勢いの文章に過ぎないということに。感情に支配されれば冷静さを欠く、私はたしかにあの文を見てそのような事をいったが、ほとんど的中したと言って差し支えないだろう。

さて、次のセリフはなんだろうか、日を改めてとでも言うのではないかと私は内心焦燥さえ感じていた。

「咲山さん…場所を変えましょうか。」

「はい。」

どうやら、ようやく決心が着いたらしい。しかし、私はこの加奈子さんにいたずらがしたくなった。

「このアイスティーだけ、飲んでいいですか?」

「え、あ、はい。」

明らかな動揺。再び泳ぐ瞳はくすんでいた。

私はわざと時間をかけ、ゆっくり飲んだ。ストローをくるくるとストローで回し唇でストローを挟み吸い込む。

冷たい液体が喉を通過して、どこまでも深くに落ちていく。

その様子は加奈子さんを冷たい海底に落とす私の計画のイメージと一致していた。

少し飲み口を離し、もう少し飲み込み、口を離し窓の外を見る。

加奈子さんがキョロキョロとバツの悪そうにしている。

その繰り返しの末に、私は30分ほどかけて飲み終えた。加奈子さんの顔色は少し悪くなっていた。

「行きましょうか。」

加奈子さんは足早に急かすように私に問いかける。

「ええ、その前にお会計を。」

「そ、そうですね。」

焦りと不安。冷静さを欠くとこれほどまでに無様なのか、私は吹き出しそうになったが平静を保った。


店外へ出ると私は加奈子さんにいい所がありますと言い、彼女を人気のない場所へ誘導を始めた。

途中、散歩中の犬がやたらに私に向かって吠えたが、殺気が滲み出ているだろうか。

私は道案内をしながらやはり自信なさげに歩く加奈子さんに、私はいくつか質問をした。

「加奈子さん。あなたの旦那さんは普段家ではどんな感じなんですか。」

加奈子さんは一瞬驚いて体を強ばらせて再び歩きながら話し出した。

「はぁ、まぁ、主人とは特に何も話すことも無く、普通に暮らしていました。」

普通に…ね。

「旦那さんとはどこで会ったのですか。」

「はぁ、えっと、海に行った時に話しかけられて、付き合うようになって。」

私は少し驚いたが同時にあいつらしいなとも思った。

性格こそ幼く年齢と反比例して成長したような男だが、何故か顔だけは悪くない。

神は二物を与えないが、あいつに関して言えば災いも与えられなかったのだろう。

「ナンパされたんですね。」

「軟派というか…まぁ、そうです。」

顔を恥ずかしそうに下げる。

「私の話もしていいですか。」

「はぁ、まぁ、お願いします。」

「はぁ」とか「まぁ」とか、この人はため息のように気の抜けた喋り方しか出来ないのだろうか。

「私ね、あなたの旦那さんとは援交で知り合ったんです。」

「え…。」

加奈子さんは驚いて立ち止まる。

「そんなに驚かれなくとも、近頃は珍しくもない話ですよ。」

「え、でも、自分の体は大切に…」

言葉を遮るように私はわざと言葉を放つ。

「そんなことどうでもいい。自分の体は自分のものでしょう。違いますか?」

加奈子さんは言い返す言葉が見つからないのか、目を瞬かせながら斜め下に視線を流す。

私たちは再び歩き始めた。

風が吹く度に木々が左右に振れざわざわと音を立てる。枯葉が雪みたいに路面に降り積もる。しかし、すぐに次の風に吹き飛ばされる。

ガードレールが湾曲してずっと先まで延びていて、きっと私の運命のようにどこかで別れている。

風の音、木の葉の音、木々の擦れる音、鳥のさえずり、微かな足音、それ以外には何も聞こえない。

もう少し行くと例のゴミ屋敷に到着する。鼓動が少しずつ速くなり、胸が熱くなる。私は奥歯を噛み締めた、そうしていないと今にも笑いだしてしまいそうだった。

私は靴紐が解けたように装いその場にしゃがんだ。

「加奈子さん、すぐそこですので先に行っててくれますか。」

「はぁ、でも。」

「大丈夫です、すぐ追いつきます。」

「…。分かりました。」

私は鞄をその場に置き気づかれないようにボタンを開けた。

被せていた布を取ると鋭い刃がギロりと光る。私はまるで包丁に睨まれたような気がして息を呑む。

柄の部分を強く強く強く握った。確実に殺す、私は何度もそう心の中で低く唸るように唱えた。

私の手は微かに震えていたが、これは武者震いである。

私は獣のように背中へ向かって一直線に走った。猪のように私はもはや誰にも止められない、誰にも、誰にも。

猪はやがて弾丸になり加奈子さんとの距離をどんどん詰める。

あと30センチのところで加奈子さんが振り返る。

反応出来るわけない、あのいかにも鈍そうな目でこの刃の行方がわかるものか。私は彼女の腹に包丁を突き立てた。

「え!?」

はずだった。

私の体はそのままの勢いで加奈子さんの体の向こう側に来ていた。すれ違っていたのである。

「くっ…!」

私はもう一度加奈子さん目掛けて包丁を向け走るが、往生際が悪く揉み合いになる。

加奈子さんは見た目より腕力が強く私と張り合っていたが、押し切れるはずだと確信している。

私は定期的にジムに通っているし、家事をこなしているだけの主婦に負けるはずがない。

「離しなさい!」

「離せ!!」

包丁を取られそうになりついつい取り乱してしまう。私らしくない。

私は彼女に体重をかけ押し倒した。

途端に加奈子さんはピクリとも動かなくなった。

私は勝利を確信した。私はついにあいつの泣き顔が見れるのだ、醜く歪んだ顔が見えるのだ。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。」

体の下から何か声が聞こえる。小さな声で同じ言葉を何度も反復している。

息が吐かれるほど声が小さくなる。もう一度吸ってまた反復する。

加奈子さんの体が小刻みに震えているのに気づいた。

私は体を起こそうとするが、どうも上手く力が入らず、ごろりと仰向けになってしまった。

「なんだ、生きてたのか。」

私は独り言のようにしか喋れない。加奈子さんが、こちらを怯えた目で見ているガードレールに背中を預けて。

加奈子さんの手に包丁が握られていない。どこに行ったのだろうか。

「あっ。あっ。」

私はようやく気づいた。包丁は私の腹部に見事にくい込んでいた。

その瞬間に痛みがじんわりと込み上げてくる。血が流れ出ているのが見える。きっとこの道路は少しずつだけれどあっという間に赤に染まって、私は1人薔薇の花びらの上に寝そべっているような姿になるだろう。

意識が少しずつ薄れていく。視界が少しずつぼやけて、面白いくらい怯えていた顔も焦点が定まらず見えなくなってくる。

私は。死ぬのだ。齢17にして死ぬのだ。

蛇に睨まれた蛙は睨まれて動けないのではなく、互いにどちらが先に動くかを観察していたのだ。先に動いた私の負けなのだ。

もう、上手く、考えられない。

「お母さん。私ね、また100点とったんだ。」

「お母さん。明日運動会なんだけどね。そっか忙しいもんね。」

「お母さん。ごめんなさい。私また。」

走馬灯が見えている。きっとこれが、走馬灯なのだろう。


空がきれいだな。

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