本編

第一部 Contact wife

私立京麗高校からの帰り道。放課後の図書室での勉強のひとときを終えて、半ば追い出されるように学校を出たのだ。

自分の影が長く伸びている。

突然私のスマートフォンが振動した。

自分で言うのもなんだが、私は昔から勤勉で友人などという響とは縁がない。となると多方あいつだろうとカバンを探る。

綺麗に整頓してあるカバンの中から、可愛げのない白いカバーのスマホを取り出す。

スマホを開くとそれはあまりにも意外な相手で、とても納得のいく相手であった。

「明山 加奈子…。嫁さんかしら。」

私は日頃から極めて冷静沈着に務めている。冷静さを欠くと人は判断を誤る。

ちょうどこの明山 加奈子のように。

『私は明山 庄司の妻の明山 加奈子。あなたは、咲山 翼さんで間違いないですよね。

単刀直入に申し上げます。あなたは私の夫と不倫してますね。証拠ならあります。夫のスマートフォンからあなたとのLINEのやり取りを抜かせて頂きました。

話し合いましょう。明後日の午前12時あなた達が2人がよく待ち合わせ場所にしている星山Cafeに来てください。もちろん、集合したあとで夫にバレる可能性があるので移動します。』

画像が3枚、私とあいつが写った写真が無造作に並べられていた。

私は久しぶりに胸から何かが込み上げるのがたしかに分かった。

それは、憎悪と異常ととてつもない好奇心が入り交じった感覚。私が欲していたのはこの感覚なのだ。

あいつとの不倫ごっこに乗っかたのも初めはこの好奇心からだった。

今でこそ陳腐な芝居じみた滑稽なものになってしまったが、当時はこのアウトローさに心踊ったものだ。

私は頬に笑みを浮かべながら、加奈子さんにわかりましたとだけ返信した。

私の足取りは鳥のように軽かった。

この刺激のないつまらない世界に一輪の花が咲いたような気分である。

ニヤニヤとした笑みが溢れるように口元を襲い、上手く閉じられない。最高で最低な気分とはこのことであろう。

私はホームセンターに立ち寄った。

高い天井と心做しか薄暗い店内はすいていて、広かった。

電動工具や、ベニヤ板、農業薬品などのコーナーをすり抜け、包丁コーナーに足を踏み入れた。

ギラギラと光る鋒を見つめながら、私は1番鋭く長い刃物を手にした。

ずっしりと重たく、ギラりと鈍く光る包丁は今の私にはあまりにも禍々しいものを感じさせたのである。

私はその包丁を握ったままレジへと向かった。

地面に反射した光が包丁越しに見え隠れしている。灰色のタイルに微かな狂気と、私を常識の外へ連れ出してくれる強い力を見たのだ。

私はその瞬間確信した、私の中に先程から湧き出している殺人衝動を。

あいつの嫁を殺し、私も姿をくらませばいつも呑気なあの面はどれほど歪むだろうか。

重荷になった嫁が殺されたことを喜ぶのか、安心を寄せる場所や家事をしてくれていた嫁の死を痛むのか。

付き合っていた若い彼女が殺人者になったことにおののき恐怖するのか、はたまた嫁を殺した救世主のように崇めるのか。かの女救世主「ジャンヌ・ダルク」のように。

私は店員に少し不審がられながらもその包丁を購入した。本当のことを言えば今すぐ切れ味を試したいし、イメージではなく現物で練習したかったが、今はその気持ちをぐっと乱暴なまでに押さえつけた。

陽は落ちていた。薄暗い帰り道を私はただ歩いていた。

私は加奈子さんの背中に刃を突き立てるのを何度も妄想した。

刃物が刺さる鈍い感触と不意をつかれて大きく見開かれる瞳、流れ出る鮮血。ゆっくりと膝から落ちる彼女からはもはや声も聞こえない。

聞こえるのは酸素を吸い込もうと過呼吸になり、喉の内側で擦られる空気の音。

次第に出血の量が多くなり、顔からも血の気が引いていく。

ピクリとも動かなくなった時、私の興奮は最高潮に達するだろう。

あいつがどんな風に顔を歪めるのか、ただそれが見たいという私の完全なるエゴのために加奈子は命を落とすのである。せめて花でも手向けてやろうか。

そして、あいつの顔を見たら、私は海外逃亡という名の留学を果たす。

私は月を仰ぎみた。いつもより数段明るい月は無機質な電灯のようにも見えた。

私も前までは無機質な電灯に等しかったが、今は違う、何もより熱く輝く炎である。

私の胸は熱く燃え上がっていた。明後日が楽しみである。


家に着くと誰もいない(一人暮らしである)部屋に転がり込んだ。

白い本棚には大量の参考書と小説。何冊あるのか、数えるのもバカバカしくなり正確な冊数も分からない。

黒いカーペットと白いベッドの横に、無印で買った白い照明が置かれている。

この簡素な部屋は実に私らしい空間でこの上なく落ち着くのである。

私は一つに束ねていた髪の毛を解きながら脱衣所へ向かった。

洗濯カゴに服を放り込むと、カゴの中で力なく丸まった。扉を押して浴室へ入る。

私はこの家の中でこの部屋を特に気に入っている。念入りに掃除をしているためカビひとつない真っ白な空間で、無色透明なお湯を体に浴びる。

蒸気がムワッと空間を包むと、私は雲の上にでもいるような心地がする。

蒸気を口いっぱいに吸い込むと体の中にキメの細かい水が入ってきて、肺を満たすような気がする。

その刹那だけ、私の心は安堵の色に染まりきりこの上なく恍惚とさせ、殺意や憎悪や好奇心などに関心がまるでなくなり、どこか別の私になるのである。浴室の私は私であって私でない、どこか暖かな光に包まれたような、見た目通りのおしとやかで可憐な少女になるのである。

そんな時に、私はいつもこの可憐な少女を犯してみたいという感情にとりつかれるのである。

私の右手は頬をつたい、ゆっくりと胸を通過する。その中途で突起の周りをゆるりと二周する。

私の中の少女は徐々に呼吸を荒くし始める。

艶やかな陰毛を通過し、撫で付けるようにクリトリスを触り始める。

やがて、シャワーの水とは異なったいやらしい愛液がコップの水のように溢れ始める。

私の中の少女は下唇を軽く噛み声を抑えようとするが、時折哀しいまでに美しい喘ぎ声が漏れる。

慎重なまでに優しくゆっくりと、洞窟の中へと指先を忍び込ませる。

生暖かく柔らかい壁に包み込まれた中指と薬指はさながら探検隊のようである。

肉の壁を掻き分け一気に奥まで行く。少し、交代し狭い洞窟の上部に触れる。

私の中の少女の体はシャワーから出る水と、自身の体温とでもはや沸騰寸前である。

「ん…!」

少女の裸体は電気を浴びたようにビクついた。床にペシャリと座り込み、頭に温水を浴びた。

次に顔を上げた時に私の中の少女は少女ではなく、大人になっていた。

鏡に映りこんだ顔に少女のようなあどけなさはなく、 鼻筋の通った少しつり上がった大きな目は凛々しさを象徴していた。

「綺麗ね…。」

私はあまりにも無作為にその言葉をこぼした。誰かが私の喉からくじ引きみたいに引き出したみたいに。或いはくじを引いたのは私自身かもしれないし、或いはあの少女やもしれない。

浴室から上がると湯気のたつ体から雫を拭き取り、艶やかな長い黒髪を絞った。

ドライヤー髪を乾かす。

「明山 加奈子…。」

誰か名付けたのだろうか。母か親か?祖父か祖母か?

私はまたあいつの妻のことを考えていた。どんな顔なのか、どんな性格でどんな人格を有しているのか、体格は?髪型や色は?考えれば考えるほど、胸が高鳴る。

しかし、私の中の少女を辱める時の鼓動とはまた違う。不思議だ。

やはりこの感覚は憎悪と異常とスリルから来るものだ。

ドライヤーでなびく髪が波に見える、私はそこから顔を出す美しい人魚だ。

私は退屈さ故に地上にあがり、地上もまた退屈に感じ紛らわす為の少女への陵辱を続けそれだけでは飽き足らず、ついに世にも恐ろしい遊戯を始めたのだ。

私は机に向かいノートに全ての思惑を書いた。

それは、計画といっても差し支えないほど具体的に書き出されている。

日記帳に最初の日付を書き込む時みたいである。

私は柔らかな布団の中に身を投じた。バネが私を心地よく押し返した。

私は電気を消して、布団を肩までかけて少しずつ、カーテンを閉めるように瞼を閉じた。

私は眠りに入るまでの間、ふと殺人というものは遠足と同じなのではないかと考えた。

前日は眠れないほどに興奮し、当日の朝リュックを背負って大手を振って玄関を飛び出し、大いに楽しみ帰り際の寂しさと翌日の虚無。

若しかすると、殺人鬼とやらになる人間はこの虚無に耐えられずにまた、遠足に出かけるのではないか。

私らしくない、馬鹿らしい思想だと鼻で笑ったが、私はまだ心のどこかでこの考えを捨てきっていなかった。

明日は遠足だ。お弁当はどうしようか。タコさんウインナー、入れてくれるかな…。

私の頭の中は段々と収拾がつかなくなる。色々な思案と物語と妄想と虚妄と思い出と捏造が重なって、何枚も写真をコラージュしたみたいである。

少しずつその混沌も闇に沈んでいく。少しずつ。少しずつ。


「明日は遠足だ。楽しみだねお母さん!」


幼い、私の声が、聞こえた、気がした。

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