(15)

 店長が、ぐっと強く口を結んだ。俺は美春を引き合いに出すことにする。


「店長は、私の別れた妻が自殺を試みたことを知ってますよね」

「ああ」

「あいつにとっては社が全てだった。社に自分を残らず注いでいた。でも、あいつはしょせん雇われなんです。あいつがいなくても社は動くし、あいつがいても社は潰れる。仕事にそこまで奉仕する義理はどこにもないはず。前社にいた私と同じで、結局片想いなんですよ」

「うん」

「そこが店長とは全く違う。店長とさのやは完全一体です。最初から両想いなんです。だからこそ、店長は店に関する一切合切を一人で背負わざるを得ない。違います?」

「当たり」


 店長の顔が鬼のような形相に変わる。


「さすがだ、横井さん。よくぞそこまで見てくれた」

「いや、私だけじゃないですよ。みんな心配してます。さのやのこと以上に、店長大丈夫だろうかって。この前店長が半日休まれた時には、ほとんどみんなパニック状態でしたから」


 両拳を強く握りしめた店長の両目から、涙が零れ始めた。


「済まん……」

「今日の相談というのは、そのことでしょう?」

「ああ」


 決意が揺らがないうちにと思ったんだろう。拳で目をごしごし擦った店長が、きっぱり宣言した。


「さのやの……看板を下ろす」


 やっぱりか。


「資金の問題ではなく、店長にとっての将来性の問題。違います?」

「横井さんの指摘通りだ」


 店長が、顔を歪めながら、言葉を探しながら、途切れ途切れに話す。


「俺は……疲れたんだ」

「ええ」

「確かに、親父たちが店を畳もうとした時よりはましになった。もともと無借金でやってたから、いきなりばったりってのはない。でも……」


 弱々しい吐息に混じって、弱音がこぼれ続けた。


「もう限界なんだよ。俺が」

「店長は、自分を削ってしまったんでしょう?」

「そう。さのやがましになった分は、俺の時間で積み上げたと思ってる」

「……」

「ベテランさんの職を確保できた。店も売り上げを伸ばして、場末の食品スーパーとしては健闘してると思う。でも」

「その分、店長のプライベートがまるっきり犠牲になった。そうですよね?」

「ああ。俺は……疲れた」


 両肘をテーブルについて腕の間に頭を突っ込んだ店長は、忌々しそうに髪をぐしゃぐしゃかきむしった。


「このまま。このまま五年、十年と自分を削りながら走れるとは思えない。いや……もうクリスマスまですら保たない。限界だよ」


 でも。俺はふと首を傾げる。さのやの廃業をもう決めているのなら、店長がわざわざ俺に「相談する」必要はないはずだ。店長のご両親と同じように、素直に白旗を上げるだけでいい。店長は、まだ言うべきことを全部言っていないな。


 俺が黙っていたのを気にして、店長が顔を上げた。目が赤くなっている。


「軽蔑したか?」

「まさか。私なら一日も保たないですから。ノリさんも言ってましたよ。さのやは店長がいるから保ってる。俺にはとても無理だって」

「は……は」

「でも」


 今度は、俺の方がぐいっと身を乗り出す。


「店長はまだ全部言ってませんよね? 店長は、相談があると言ったんです。単なるギブアップ宣言なら、私をかます必要はないですよ」

「ふふ。助かる。その通りなんだ」


 ごしごしと腕で目を擦った店長が、一転して満面の笑みを浮かべた。


「横井さんがそこまで見ていてくれたんなら、俺はすごく話がしやすい」

「何か打開策を考えておられるんですか?」

「俺は打開できないし、意味のない延命をするつもりもない」

「……」

「だから、大手の傘下に入って一から作り直す」


 それを聞いた途端、ぱっとビジョンが広がった。


「なるほどっ!」

「それは屈服じゃない。降参じゃない。俺の目をちゃんと先に向けるための手段なんだ。逃げるんじゃなく、きちんと挑みたい。それは、どうしても俺一人の力ではできない」

「そりゃそうですよ。店長は何でも一人で抱え過ぎです」

「まあな」


 照れ笑いした店長が、さっと表情を引き締めた。


「なあ、横井さん」

「はい」

「横井さんは、さっき何でも一人で抱え過ぎだって言ったろ?」

「ええ」

「自分がずっと世話になってきた人に、甘えることが出来るか?」

「あ……」

「そういうことなんだよ。俺は……息苦しくて息苦しくてしょうがなかったんだ。誰かに愚痴をこぼしたい。誰かに弱音を吐きたい。でも、これまで全速力で俺についてきてくれた人に倒れかかったら、いっぺんにだめになっちまうんだよ。総大将は、そこがどうにもならないんだ」

「……そうか」


 店長が、俺と自身を交互に指さす。


「横井さんも俺も、かつては使われだった。使われている分、責任は上に押し付けることができた。それは安全弁だ」

「そうですね」

「でも、トップにだけは逃げ道がないんだ」


 本当に苦しかったんだろう。大きく肩で息をした店長は、溜まっていた鬱憤を吐き切るようにして、小さく身を縮めた。


「ここで。全部リセットしたい。さのやという看板はもう下ろしたい。いいものも悪いものも、それまでのしがらみは全部捨てて、横井さんがうちに来た時と同じようにゼロから組み直したい」

「雇用はどうされるんですか?」

「基本、横滑りだよ。看板が変わるだけで、中身は変わらない。ただ」


 ああ、そうか。やっと店長の意図が読めた。


「店長だけでなく、全員にリセットをかけてほしいということですね」

「そう」


 縮めていた上体を伸ばして、店長が大きな咳払いをする。


「これまでずっと無借金でやってきたうちにとって、今までにない厳しいチャレンジであり、大きなリスクを背負うことになる。そのリスクを一緒に背負ってくれる人しか残したくないんだ」

「それは店長直々に説明されるんですか?」

「もちろんだよ」


 即座に言い切る店長。大将としての責任には、職員を守るだけでなく、泣いて馬謖を斬ることも含まれる。そういう覚悟がくっきり見えた。


「で、横井さんに相談ていうのは、これからの人事のこと。横井さんがうちを辞めるということでなければ、人関係の部分を全部任せたい。俺の裁量から切り離したいんだ」


 !!

 それは……びっくりなんてもんじゃなかった。


「俺が……いや私が、ですかっ」

「そう」


 店長の目は真剣そのものだ。


「雇用や勤務管理のことだけじゃない。職員、パート、アルバイトを含め、みんなをどう育てるか。いずれベテランさんはいなくなるんだ。その人たちの能力とノウハウをきちんと繋いでいかないと、店の名前を変えたところで結局アウトだよ」

「そうだ。確かにそうだ」

「これまで店を支えてくれたベテランさんには頼めないんだ。全員がぬしになってしまっているからね」

「なるほどなあ……」

「横井さんは一番最後にうちの職員になったから、誰ともしがらみがない。それに、誰よりも人の心を動かすのがうまい。田村さんを見てるとわかるよ。いい感じに育ってきた。横井さんには俺にはない適性がある。そこで線を引いて、ポジションをわけたいんだ」

「私に……できるんですかね」


 正直びびっていた。だが、店長はからっと笑った。


「はははっ! できるかどうか、ポインセチアに聞いてみたら?」


◇ ◇ ◇


 ものすごく長時間店長と話し込んだように感じたが、おでん屋を出た時にはまだ十時前だった。店長は、明日職員全員の前でさのやの終焉を告げるらしい。だがそれはさのやの終わりであって、俺たちの終わりではないんだ。


 二人で腹蔵なくいろいろな話をぶちまけ合って、決意を確かめ合って。酒のせいでもおでんのせいでもなく、体が芯から熱くなった。その熱が冷めないうちにと、美春が世話になっている施設に向かった。


◇ ◇ ◇


 消灯直前だったが、美春の様子を知りたいとだけ伝えて短時間の面会を認めてもらった。職員さんに支えられるようにしてよろよろと歩いてきた美春に、小さく呼びかける。


「どうだ? 少し落ち着いたか?」

「……」


 目がすっかり光を失い、腐っている。まあ昨日の今日だ。俺だって立ち直るまでにはずいぶんと時間がかかったからな。黙ったままの美春に、明日のことを告げてすぐ帰ることにする。


「俺の勤め先」

「……うん」

「明日、店長から閉店の話が出る」

「……」

「これで。三人揃って失職ってことさ。おまえだけじゃないよ。みんなあがいてるんだ。たった今もな」


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