(13)

 大変心苦しかったんだが、警察署の担当の人に無理を言って、数日間だけ署もしくは一時預かり施設で美春を看てもらえないかと頼み込んだ。

 今の美春の精神状態だと、俺らが目を離した途端に何こそしでかすかわからない。その上、俺も千秋も今は書き入れ時で、仕事にかける時間をどうしても削れない。あいつに密着ケアする時間がどうしても取れないんだ。先々家族として能うる限りのサポートをするにしても、今は誰かに美春のケアを手伝ってもらわないと全員共倒れになってしまう。


 あいつに頼れる親兄弟、親しい友人がいるのなら、俺らより心理的距離が近い人に看てもらうのが一番いいんだ。あいつもその方が気楽だろう。だがあいつは一人娘で、父親はすでに他界している。守旧派の老母とは若い頃からずっと折り合いが悪く、実質絶縁状態だ。

 そして、癖の強いあいつの友人はほとんどが職場の同僚だろう。彼らもまた失職後の身の振り方を決める必要に迫られているはず。美春の絶望に寄り添える精神的余裕など誰も持ち合わせていないと思う。もし有事にあってタッグを組めるような濃い友人がいるなら、自殺なんか絶対に考えないよ。

 職を失った喪失感に加えて孤立の重圧がずっしりのしかかったら、早晩潰れてしまう。それに……。


「俺も千秋も、人ごとじゃないんだよな」


 一家揃って、まだ不安定な生活状況が続いている。先の見通しが立たない者同士で支えるとか支えられるとか言うこと自体が、どうしようもなくナンセンスなんだ。


 俺たちの窮状を察してくれた署の担当の人は、DV被害者や家出人を一時保護する施設を斡旋してくれた。美春の希死念慮が著しいことを心配してくれたんだろう。ただ、ほんの数日しか置いてもらえない。その数日の間に、少し落ち着いてくれるといいんだが。


◇ ◇ ◇


 嵐のような夜をなんとか乗り切り、翌朝よれよれになって店に出たら、田村さんが心配してくれた。


「主任。何かあったんですか? すごくお疲れのようですけど……」


 隠し事はしたくなかった。


「心配していた通りのことになっちゃってね」

「え?」

「元妻が自殺をはかったんです」


 田村さんが真っ青になってしゃがみ込んだ。田村さん自身に同じ経験があるから、フラッシュバックしたんだろう。


「薬物やガス系じゃなくて、飛び込み自殺を企図してたみたいで。様子がおかしいと通報されて、未遂に終わったんです。ただ……昨日は錯乱状態でね」


 よろよろと立ち上がった田村さんが、顔を伏せる。


「大変……でしたね」

「まだしばらくは目を離せません。でも、私や娘は付き添えないんですよ。彼女からすれば、私らはもう枠外にある存在なので」

「……」

「今は、一時保護施設で看てもらってるんですけどね。店長にも事情を話しておかないとなあ。何か緊急事態が起きた時には、どうしても持ち場を離れないとならないから」

「そうですか」


 田村さんの表情には、かすかに不満が浮かんでいた。もう別れた相手になぜ手を貸すの? わたしは誰からも何もしてもらえなかったのに。そういう反発。

 ああ、わかるよ。でも、今回のは男女の恋情とは全く別個の話。目の前の行き倒れを見過ごせるか否かというレベルなんだが……さすがにそこまで説明する気は起きなかった。店長への事情説明を口実に話を切り上げる。


「店長のところに行ってきます。何かあったら呼んでください」

「はい」


 田村さんは、釈然としないという表情でヤードに向かった。肩越しに田村さんを見て思わず苦笑する。


「不満を表情に出せるっていうのは、どん底を抜けたからなんだよね」


◇ ◇ ◇


 俺にどんな事情があろうと、仕事は仕事だ。クリスマス前の繁忙はレベルアップし、悩みだの心配だの、そういう人間らしいマイナス感情をだだあっと押し流してしまう。気持ちが強制的に仕事モードに切り替わる。それがいいのか悪いのかは……正直言ってよくわからない。

 仕事が引けてから千秋と一緒に保護施設に行き、短時間だが美春と話をした。美春は口を利きたくなかったかもしれないが、面会そのものは拒絶しなかった。自分が孤立無援であることは自覚せざるを得なかったんだろう。


「笑いに来たの?」


 第一声がそれだった。真顔でそれを切り返す。


「笑ってる暇なんかないよ。俺も千秋も崖っぷちだ」

「え?」

「転職して二年。俺は今の仕事が水に合ってる。でも、店が……」

「危ないの?」

「おまえと同じさ」

「……」

「千秋は就職先に二回振られてる。今、失職中なんだよ」

「そう」

「まず自分の足元を固めないと、何も言えないし何もできない。追い詰められてるのはおまえだけじゃないんだ」


 それだけ言い残して、すぐ帰ることにする。警察に呼ばれた時と違って、千秋は終始無言だった。実の母親に、同情も慰めも励ましも何一つ届かない虚しさ。千秋は何を言っていいかわからなかったんじゃなく、何も言いたくなかったんだろう。


◇ ◇ ◇


 そして。店長が「相談がある」と言った23日がとうとう来てしまった。美春のことでばたばたしていて店長の切り出す話がどれほど深刻かを考えたくなかったが、いい話であるはずはない。腹を据える必要があるだろう。

 いつもなら遅くまで残って残務を片付けている店長が、予告通りにさっと上がった。それから俺に目配せをした。小さく頷き、ノリさんに上がりを告げる。


「済みません。今日も早上がりします」

「奥さん……あ、元奥さんか。大変だね」

「少し落ち着いたみたいですけど、しばらくは……」

「そうだね」

「じゃあ、お先ですー」

「お疲れさま」


 店長と待ち合わせた先は、小さなおでん屋さんだった。遅くまで店を開けていて、気兼ねなく話ができると聞かされた。店長のご両親も仕事が引けてから度々そこで遅い夕食をとっていたらしいから、佐野家御用達ということなんだろう。店の数少ないボックス席に向かい合わせで座ってすぐ、店長が俺に謝った。


「横井さん。済まんね。大変な時に」

「いいえ。私にとっては、どちらも同じくらいに大事ですから」

「そう言ってもらえると助かる」


 店長は、注文を取りに来た初老のおやっさんに「適当に見つくろって」と言ってはにかむような笑顔を見せた。滅多に笑わない店長にしては珍しい。ここでは裃を脱げるんだろう。


こうちゃんも、連れて来るならきれいな女の子を連れてきなよ。こんなくたびれたおじさん連れてこないでさ」


 俺をきょろっと見たおやっさんが、容赦なく店長と俺をいじる。


「わははっ。そうなんだけどさ。俺の今の恋人は、間違いなく横井さんだからね」

「おいおいおいおい」


 おやっさんが慌てて退散した。思わず吹き出しそうになる。


「おやっさん、絶対誤解しましたよ」

「いや、あながち冗談でもないんだ」

「えっ?」


 思わずのけぞった俺に向かって、店長がぐいっと上体を乗り出した。


「正直、うちの店は横井さんがいるからなんとか回ってる。気付いてるのは俺だけだろうけど」

「は? ど、どういう……」

「あとのベテランさんは、全員親父たちの代から働いてる。みんな仕事ができるし、プライドも高い。俺は……外様なんだ」

「あ、そうか」

「横井さんが来てくれてから、外様の俺が使える手札が増えてるんだ。本当に助かる」


 店長が、俺に向かって深々と頭を下げた。


「いやあ、くたびれ切った使い古しの私を雇ってくれただけで、ありがたいことですよ。実力が足りなくて、申し訳ないです」

「そんなことはないさ」


 食べながら話そうかと言って、店長がテーブル中央のおでん鍋の蓋を取った。そのタイミングを見計らって、おやっさんがどっさりおでんだねを放り込んでいく。

 おいしそうな匂いと熱々の湯気。俺が夢にまで見た、うまい飯を食いながら熱燗で一杯の世界だ。ただし……話の中身はおでんにつける辛子よりも世知辛くなるかもしれない。


「まず。ちょっと愚痴を聞いてくれないか」

「もちろんです。店長は、ベテランさんに愚痴をこぼせないでしょう? みんな年上だし、店長より勤務歴の長い人ばかりだから……」

「ははは。やっぱり横井さんはわかってくれるな。そうなんだ」


 ふうっ。店長のでかい吐息が、おでん鍋から立ち上る湯気を俺に吹き寄せた。


「俺には……敵はいない。でも、味方もいないんだよ。一人もね」

「ええ。わかります」


 かすかに笑った店長が、これまでの苦闘を訥々とつとつと話し始めた。


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