(12)

「23日……イブイブに、か」


 あと数日でクリスマス本番。さのやの店内は活気に溢れて……というより殺気立っている。もちろん、神経が一番とんがっているのは店長だ。大事な稼ぎ時に余計なことをがたがた言うな! そうやって俺たちをむしろ牽制しそうな店長が、あえてクリスマス直前に相談、か。クリスマスを越せないくらいに事態が切迫しているということなんだろうか。

 でも。金の管理に携わっているノリさんは、資金がショートするような兆候はないと言った。たった数日で、店の経営が急激に傾く事態が起こるとは思えないんだけどな。うーん……。


 店長の言う『相談』の中身がどうしようもなく気になって、仕事が全く手に付かない。スタッフ全員がてきぱき仕事をこなしている中、俺一人だけがどうしようもなく空回りしていたかもしれない。

 それでもどうやらこうやら一日乗り切り、すっきりしないまま上がろうとしたんだが。店の通用口を出てすぐ、千秋からひどく取り乱した電話がかかってきた。


「パ、パパっ!」

「どうした?」

「ママが……」


 ざあっと血の気が引いた。俺はずっと危惧していたんだ。あいつは……目の前に突きつけられた絶望を乗り越えられないんじゃないだろうか、と。


 世の中には、失職をどうしても割り切ることができない人種がいっぱいいる。例えば芸術家がそうだ。ピアニストが指を失う。落語家が失語症に陥る。画家が失明する。自分の表現手段を失ってしまうことは、彼らにとって死に等しい。

 いや、芸術家でなくたって同じさ。自分の能力を仕事に余すところなく注ぎ込んでいた人が職を失うことは、彼らにとって耐え難い喪失だ。失職イコール自身の喪失、世界の喪失になってしまう。

 俺だって、自分の全てを注ぎ込む覚悟があったからこそ社に全力でしがみつき続けた。俺と違って自我を社業と一体化させていた美春は、社の消失と同時に自身も消失したように感じるんじゃないだろうか……。俺がずっと抱き続けていた危惧は、もう確信に近かったんだ。


「何があったっ!」

「警察から電話があったの。線路に座り込んでたって」


 生きてるってことか。よかった……。列車に飛び込もうと思ったんだろうか。その前に誰かが気づいて通報してくれたんだな。


「今もまだ錯乱状態みたい。死なせてくれって」


 ふうっ。思わずでかい溜息をつく。その半分は安堵。半分は……これから先に対する不安だ。


「美春は警察署にいるんだろ?」

「うん、まだ目が離せないから迎えにきて欲しいって言ってる。動ける?」

「もちろんだ。おまえのアパートに連れていけるか?」

「そっちには?」

「俺への反発があるなら、ここに来るのは絶対に嫌だって言うだろ」

「そっか……」

「まあ、いい。あとのことはともかく、今は興奮状態をなんとかする方が先だ」

「そうだね」

「すぐ出る。どこの警察署か教えてくれ」


 千秋から警察署の場所と電話番号を聞き出し、薄暗い路地を全力で走った。


「くそっ! もうすぐクリスマスだっていうのに、なんてこった!」


◇ ◇ ◇


 警察署に着いた俺と千秋は、パイプ椅子がいくつか並んでいるだけの小さな部屋に案内された。椅子に座らず膝を抱いて床にうずくまっていた美春は、頬骨が目立つほどやつれ、ぼろぼろになっていた。千々に乱れた髪。真っ赤に泣き腫らした目。あちこちに土と赤錆の汚れがついたスーツ。傲慢に思えるほど全身から放出されていた美春の熱意は、わずかな肉体すら温めることができず、俺の足元に小さく冷え固まっている。

 離婚が成立して家を出る時の「厄介ごとがやっと片付いた」という晴れ晴れした表情は、どこにも残っていない。肉体が列車に砕かれていなくても、精神がすでに轢死しているようにすら見えた。


 俺は……無言のまま立ち尽くした。ざまあみろとも大変だったなとも言えない。そこには、紛れもなく二年前の俺がいたからだ。


 倒産の危機が顕在化したのは昨日今日のことではないはず。美春は、どうにかして最悪の事態を回避しようと最後の最後まで走り回っていたんだろう。だがどれほど手を尽くしても、収益確保の見込みがない社はいずれ消えていく。それは一人一人の踏ん張りという形ではカバーできない。倒産を回避するためのあがきは、瀕死の重病人に施す延命措置となんら変わらない。

 そして。沈み始めた船からは乗員が続々脱出し始める。他社に自分を売り込む実力とガッツのある社員から順に、傾いた船に見切りをつけて辞めていく。人材流出は、人件費を削減できるメリット以上に、売れる雑誌が作れないデメリットを大きくしてしまう。スタッフの技能や創作性に依存する商売では、人が減ると同時に沈没が加速してしまうんだ。

 人が減るデメリットはそれだけじゃない。奈落に落ち込んでいく間、それまで当たり前のようにいつもあった人と人との有機的な繋がりがなすすべなく崩壊していく。考えたこともなかった孤立に容赦無く蝕まれてしまう。だからこその、このやつれようだろう。

 

 美春は。地に堕ちてしまうことを、何もかも失ってしまうことを、どうしても認めたくなかったんだろう。自分の全てを注ぎ込んで輝かせていたはずの理想像が、跡形もなく消え去ってしまう。後に残るのは、全てを吐き出して抜け殻になった自分だけ。そんなの、あり? 打ちひしがれている美春に、世間の人々は冷たく言い放つんだ。敗者は退場するしかないのさ。それが現実だよ、と。

 そんな現実は絶対に認めたくない。一刻も早く汚い現実から遠ざかりたい。美春の自殺企図は、決して発作的な衝動などではないと思う。まだ死神が真横にいて、美春の手を引こうとしているんだ。怖くて怖くてしょうがない。


 美春に歩み寄って隣にしゃがんだ千秋が、一生懸命に母親を慰め始めた。少し離れたところからそれを横目で見ながら、大きな溜息を何度もぶちかます。


「はあああっ……」

「奥さんもご主人も、大変ですね」


 美春についていてくれた中年の婦警さんが、そう言って小さく息をついた。


「元、妻ですけどね」

「あら」

「私はあいつから絶縁されているので、本来ここには顔を出せないんですよ」

「じゃあ……どうして?」

「娘にあいつの世話を全部押し付けるのはかわいそうです。娘も失職したばかりなので」

「う……わ」


 婦警さんが、俺と千秋を見比べて絶句した。


「私もそうでね。二十年勤めた会社を二年前にクビになって、今はスーパーの店員をやってるんですけど。そのスーパーも雲行きが怪しいんですよ」

「……」


 赤の他人に言っても仕方ないと思いながらも、ぼやきがこぼれ出る。


「誰のせいなんですかね。私たちは怠けているわけじゃない。毎日必死に働いてますよ。それなのに仕事が取り上げられていく。おまえなんか要らないと言われて」

「そんな……」

「働き蜂、ワーカホリックって言われますけど、好きでもない仕事に精を出すことなんか出来ないです。私たちは仕事が好きで、仕事する自分が好きで、だからこそ汗水たらしてせっせと働いてるんです」

「ええ」

「でも夫婦の関係と同じで、なかなかバランスが……ね」


 俺から目を離し、美春と千秋をじっと見つめていた婦警さんがぽつりと言った。


「それでも。わたしはほっとします。娘さんもあなたも、彼女のことを真剣に案じておられますから。それは……決して当たり前じゃないんです」

「そうなんですか?」

「ええ。わたしたちは、身内でありながらもそうしない人、できない人をたくさん見てきたんです。もちろん、それぞれに込み入った事情があることはわかりますけど……それでもね。人としてどうかなと思うことが本当に多いんです」


 婦警さんに、ぽんと背を叩かれた。


「大丈夫。あなたたちがついている限り、彼女は必ず立ち直りますよ」


 うん。そう言ってもらえてよかった。少しだけ心が軽くなった。見上げた蛍光灯の光が滲み、ぼわっと膨らんだ。


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