(4)

 窓辺に置いてあるひょろんとしたポインセチアを見つめる。これは、二年前に田村さんと同じ失敗をやらかした俺が店から持ち帰ったものだ。


「あの時はショックだったな……」


 俺は生花コーナーを甘く見ていた。俺が働き始める前もそこはパートさん用の持ち場で、古参スタッフは誰も手を出さない。商品の数も知れているし世話にも大して手間はかからないのに、なぜ? 敬遠される理由がわからなかった。でも、実は全売り場の中で生花コーナーが一番厄介だったんだ。

 うっかり鉢花から意識を離してしまった俺は……大失敗した。入荷したポインセチアの小鉢に毎日機械的な水やりをして、見事に全滅させてしまったんだ。忘れもしない、二年前のクリスマス前だった。平身低頭で店長に謝り倒した俺を見て、店長が苦笑いした。


「横井さんもやっぱりやらかしたかー。俺も最初にやっちゃったんだよね」


 店長は、売り物にならなくなった小さな鉢植えを撤去しながらぽつりと言った。それでも、花はどうしても置きたいんだと。


◇ ◇ ◇


「ん?」


 ポインセチアを見ながら二年前のことを回想していたら、携帯が鳴動して我に返った。ああ、千秋か。


「もしもし」

「あ、パパ?」


 美春によく似た落ち着き払った声と話し方で、思わず苦笑する。千秋はからっとした性格だが美春のような我の強さはなく、よく気が回るので周囲からの覚えは総じていい。ただ……俺はその長所を手放しで喜べない。親がいつもぎすぎすしていると、子供は無意識のうちに調整役を果たそうとするんだろう。気を遣う性格にしてしまったのは俺たちのせいだと思う。

 そうさ。俺たち夫婦の乾き切った関係がもとで千秋が崩れなかったのは、単なる幸運に過ぎない。少なくとも俺は、千秋を立派に育て上げましたなどとは口が裂けても言えない。


 千秋は短大を出て携帯ショップに就職したものの、そこをほんの数ヶ月で辞め、今は短大時代の友人と一緒にリサイクルショップの店員をしている。千秋には、俺や美春のような特定の業種に頑なにしがみつく狭苦しさがない。多分、仕事絡みでほぞを噛むようなことにはならないだろう。そこだけは、俺や美春に似なくて本当によかったと思う。


「どうした?」

「いや、全然音沙汰がないからさ。元気でいるのかなーと思って」


 珍しいこともあるもんだ。いつもは、俺からかけてもけんもほろろなのに。


「貧乏暇なしだよ。スーパーは、クリスマスから年末年始にかけて稼ぎ時だからね」

「それなんだけど」

「うん?」

「なんでまた、スーパーで働こうと思ったわけ?」


 ふむ。千秋にはさのやで働いているという事実しか伝えていなかったからな。


「たまたまさ。前のところを辞めた日に見切り品の弁当を買いに行って、店員募集してたから雇ってもらった。それだけ」

「ふうん。てっきりプログラミング関係のところを探すのかと思ったのに」

「そっち系はもういいわ。老眼たかってきたし」

「ぎゃははははっ!」


 電話の向こうで、千秋が爆笑している。


「そっかあ。パパもだいぶこなれてきたね。二年前はゾンビだったけど」

「……そうだな」


 実質離婚状態というのと本当の離婚とはわけが違う。他人のふりをして生活することは苦にならないが、完全に他人同士に戻るには考えなければならないことが山のようにあったんだ。

 いくら形だけとはいえ、夫婦や家庭というのは社会的に強固に作られている頑丈な籠だ。その籠を解体するためにはどうしても力技がいる。金銭や権利関係の分割しかり、娘との関係をどうするかもしかり。

 夫婦や家庭という籠からの解放だけを求めていた美春は、それまでの生活に一切の執着を示さなかった代わりに、考えなければならない諸々のことも全て放棄した。その負担は俺にだけ押し寄せた。

 その上、嬉々として仕事に没頭するようになった美春と違って俺は職を失った。千秋の独立とも重なった。新しい仕事にすぐ就けた幸運より、全てが崩壊して独りになったダメージの方がずっと大きかったんだ。我ながらよく乗り切れたと思う。ポインセチアさまさまだ。


「でさあ」

「うん?」

「クリスマスはどうすんの?」

「仕事だよ。さっき言っただろ? 稼ぎ時だから」

「夜遅くまで?」

「いや、イブも翌日も営業時間の延長はなし。いつも通りだから午後10時前には家にいる」

「じゃあ……そっち行っていい?」


 どういう風の吹き回しだ? 家を出てから一度も帰って来なかったのに。


「かまわんが、何かあったのか?」

「いやあ……」


 珍しく歯切れが悪いな。


「ノッコがさあ、カレシ作っちゃって。ノッコと二人でクリスマスにどっか行こうと思ってたのに、ぱあ」

「ううむ。それは災難だなあ」

「人ごとのように言わないでよう」

「人ごとだろ。おまえもがんばってカレシ作れよ」

「めんどくさ」


 放り出すような口調の裏には、俺や美春への怨嗟がたっぷり詰まっているんだろう。仮面夫婦という虚構の醜さを散々わたしの目の前で見せつけておいてさあ、いけしゃあしゃあとよう言うわ。そんなトーン。

 確かにその通りなんだが、親は親、子は子だ。それぞれの価値観に基づいて人生を歩き始めた以上、今さら俺や美春に過去の行状の責任を取れと言われても困る。いや、取れれば取るよ。美春はどうだったか知らないが、少なくとも俺は娘に十分な手当てができていなかったと思うし、それに対する後悔はたんまりある。だが、償う手段がないんだ。携帯を耳から離し、傍に小さな溜息を置く。それからもう一度構え直した。


「ところで」

「なに?」

「美春からは何か連絡が来てるか?」

「ううん。ママは相変わらず」

「そうか……」


 美春の乾いた態度は、俺に対してだけでなく、娘の千秋にもずっと向けられ続けていた。干渉しない代わりにケアもしない。自分のことは自分でやりなさい。それは、千秋の誕生から先一貫して変わっていない。

 千秋にとっては俺たち夫婦が、仕事にしか興味のない男親二人のように見えていたのかもしれないなと思う。


「パパのところには連絡してこないの?」

「来るわけないだろ。アクセスなんか一回もないよ」

「パパからは?」

「書類のことがあって最初何回かかけたが、片がついてからは着禁さ」

「うっわ。徹底してるー」

「それが、あいつだ」

「ねえ、パパ」

「うん?」


 千秋が慎重に探りを入れてきた。


「ママの。どこがよかったったわけ?」


 まあな。結果だけから見れば、相互にハズレをつかんだとしか思えないだろう。俺たちはそれで済むが、間に挟まった千秋にとってはしゃれや冗談では済まされない。乾いているように見える態度の裏には、底なしの不信感が渦巻いているのかもしれない。


「結婚するまでは、どこかがよかったんだよ。お互いにね」

「……」

「ただ俺だけでなく、あいつも失敗したと思ってるだろ」

「本当は合わない相手を選んじゃったってこと?」

「違う。互いのズレを補正する努力をしなかったこと。補正するためのエネルギーを、夫婦揃って仕事に向けちまったことだ。美春は仕事に新天地を求め、俺は仕事に逃げ込んだ。俺らは仕事にしがみついちゃったんだ」

「ふうん……」


 手元にあるクリスマスセールのちらしに目を落とす。印刷されているポインセチアが、やけに赤く見える。鮮やかなホーリーカラーというより、後悔を燃やし続けている炎のように……見える。


「先に破綻したのは俺だ。しがみついていた仕事から追い出されたからな」

「ママは?」

「後で反動が来るだろ」

「反動ねえ」


 千秋にはぴんと来ないらしい。


「仕事は人を活かす手段だよ。仕事に自我を溶かされちまったら、なんの意味もない」

「ママがそうなるっていうの?」

「さあな。それは俺にはわからん。ただ、危ないなとは思ってる。仕事ができる期間は有限だからさ」

「それ、ママには?」

「言わないし、言っても俺の言うことなんか絶対に聞かんだろ。もしあいつに会う機会があったら、それとなく探っといてくれ。危機は必ず来る」

「危機?」

「そう」


 丁寧に説明しておこうか。


「どんなに今仕事との相性がよくても、そのバランスは簡単に変わってしまうんだよ」

「具体的には?」

「身体を壊してみろ。それだけでアウトだ」

「あ……」

「上司が自分を認めない。会社の業績が傾く。業務内容が大幅に変更される。風向きが変わるきっかけなんか山のようにあって、それは必ずしも自力で調整できないのさ」

「ママも、それはわかってるんじゃないの?」

「だといいけどな」


 俺とぎくしゃくしだした頃から、あいつは学生時代の友人の伝手で雑誌社の編集部に潜り込んだ。そこが大手で今もがんがん雑誌を売り上げているなら、そらあ安泰だろう。

 だが、出版系はどこでも雑誌や本の売り上げ減少に悩んでいる。紙ベースの雑誌編集から、ウエブコンテンツでの展開へと徐々に舵を切り始めているんだ。当然、編集部員に求められるスキルも変わる。とうとうお払い箱になっちまった俺のような事態が、あいつに起こらないとは限らない。


 しばらく沈黙の間があって。娘がもう一度俺に探りを入れた。


「ねえ、パパ。パパの働いてるスーパーって、見に行ってもいいの?」

「かまわんよ。小汚い場末のスーパーだけどな」

「ふうん。でも、ずっと続いてるよね」

「そうだな。俺からやめるつもりはない」

「どして?」

「楽しいからさ」

「働くのが?」

「うーん、ちょっと違うかな」


 俺は、さのやの店内を思い浮かべる。古くて雑然とした雰囲気。年寄りが多い買い物客。ちゃちなポップ。鮮魚や惣菜のコーナーから漂う生ものや油の匂い……。心を浮き立たせるものなんかほとんど思いつかない。それでも。俺は、店内で商品が動いていくのをずっとリアルに見ている。そして、商品の動きを「俺が」変えられる。


 無味乾燥な数列と文字列がどこでどのように本領を発揮するのか。使用目的がはっきりしていながらも、俺は社でのプログラミング作業にカタルシスを覚えたことがなかった。それは俺自身を切り取ってディスプレイに貼り付けるだけの自虐的な作業で、俺には何も残してくれなかった。

 さのやは違う。俺のアタマの中から出て行ったものは、売り上げという形で常に実る。豊作になるか不作に終わるかはともかく、ちゃんと結実するんだ。


「言葉で説明するのは難しいなあ。まあ、見ればわかるよ」


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