(3)

 さのやの閉店は午後八時だが、翌日の準備があるから結局家に帰り着くのは十時近くになる。暗いアプローチを突っ切り、手にした鍵で玄関ドアの鍵穴をまさぐる。夜が更けるほど、師走の寒気が容赦無く身体の熱を奪っていく。


「ううー、冷え込むなあ」


 タイマー予約でエアコンを入れてリビングを温めてあるから室内は寒くないはずなのに、体感的には外と変わらないほど寒々しい。誰もいない家に帰って明かりを点ける虚しさに、二年経っても慣れないんだ。家に帰ったところで、がさがさ飯を食って、風呂に入って、あとは寝るだけ。家ってのはこんなに味気ないものだったかなあと思いながら、ソファーに疲れた体を放り出す。


「ふうっ……」


 エアコンの作動音しか聞こえない、しんと静まった室内。照明がやたらに眩しく感じて目をつぶった途端、意識が二年前に連れ戻された。


◇ ◇ ◇


 金融関係のソフトウエア開発を請け負う大手IT企業に二十年以上勤めたが、どんどん窓際に押し出され、最後はその席からすら滑り落ちた。スーパーの店員に転職するなんざ、考えてもいなかった。


 社にいた時には、追いやられていったポジションでの仕事がどんなにつまらない内容でも、ノルマだけは鬼のようにきつかった。朝から晩まで馬車馬のように働かされ、大した額ではない報酬で横面を張られるようにして手を動かし続けた。

 俺は、どんなに冷遇されても最後までやり遂げるつもりでいたよ。その社にずっと憧れていて、努力して入社を勝ち取ったのだから。そこでの仕事が、俺の天職だと思い込んでいたから。


 劣悪待遇に対する忍耐の糸がぷつんと切れたのは、仕事から来るストレスよりも美春みはるとの離婚で家庭が空中分解してしまったことが原因だったかもしれない。

 ごく普通の恋愛結婚だったはずが、一人娘千秋ちあきの誕生後に夫婦仲がぎくしゃくし始め、結婚三年目には家庭内別居の状態になった。千秋の養育義務を果たすためだけに渋々同居を続けてきたようなもので、まさに仮面夫婦。

 もちろん、そんな関係になっちまうことは望んでいなかったよ。でも会社からの理不尽な圧力に耐え続けていた俺は、家でまで自分を窮屈に折り畳むつもりはなかったんだ。


 互いに仕事優先で忙しく立ち回っている間に千秋が成長し、千秋の就職、独立を機にやっと正式離婚となって、美春は嬉々として家を出て行った。それが……二年前。ずっと前から実質的な離婚状態だったし、それが紙切れで確定したという事実しかないはずだった。

 だが。美春が家を放り出し、千秋が独立すると、それほど広くない家が広大な砂漠のように感じられた。俺以外の気配がない家は、まるで俺を飲み込んで離さない幽霊屋敷のようだったんだ。


 家庭が崩壊したあとの俺は働く目的も意義も見失い、途方に暮れた。何のために、こんなに自虐的な仕事を延々と続けているんだろう。一日の大半が冷酷な進行管理表と無味乾燥な文字の羅列に支配され、その中には俺の気配も居場所もこれっぽっちもない。それでも機械のように必死に指を動かし、頭から文字を吐き出していかないと、立っていられる場所すら失ってしまう。もう……限界だった。


 俺を絞り上げられるだけ絞って、いつ辞めると言い出すかを手ぐすね引いて待っていた社は、俺の出した辞表を待ってましたとばかりに受け取り、長い間ご苦労さんの一言すらかけてくれなかった。


 追い出されるようにして社屋を出た俺は、気持ちの整理がつかず、すっかり日が落ちるまで近くの公園のベンチでたそがれていた。気落ちしていても腹は減る。ぐうぐう鳴る腹に急かされて仕方なく公園を出たものの、人波には揉まれたくなかった。雑踏に踏み潰されるように感じたからだ。人気の少ない裏通りに入り、薄暗い道をとぼとぼ歩いていたら、漂う揚げ油の匂いが俺の足をとめた。


「こんなところにスーパーがあったのか」


 その店は、俺が普段利用していたデパ地下の食品売り場とはまるで違っていた。見るからに古臭くて小汚い場末のスーパー。人の出入りがなければ廃屋だと思ったかもしれない。それがさのやだったんだ。

 まあ、いい。惣菜を作っているなら弁当くらい買えるだろう。時間が遅いから値引きシールのついたものがあるかもしれない。そう思ってふらふらと店に入った。

 

 さのやの店内も外観同様に場末感満載だったが、予想に反して人の気配がずっと濃かった。年配客が多いものの、遅い時間にもかかわらず客が結構入っている。鮮魚や精肉のコーナーでは、店員と客とが威勢よく値引き交渉を繰り広げていた。そして……陳列されている商品がどれも新しい。見かけによらず、この店では商品がちゃんと動いているということがわかった。

 役立たずとして社から追われた俺は、さのやで「役立たずなんてものは世の中に一つもない」と元気付けられたように感じたんだ。


 空の買い物かごを下げたままなんとはなしに店内を歩いていたら、猛烈にぶすくれていた若い男性店員と鉢合わせた。


「おっと、あぶない!」

「ああ、すいません」


 なんで客の俺が謝らないとならないんだと思いながらも、俺の口からはすらすらと謝罪の言葉が出てしまう。


「あー、いやいや。いらっしゃいませ」


 挨拶とは裏腹の無遠慮な視線で俺をじろりと見た店員は、ぼそっと吐き捨てた。


「ねえ。あなたみたいにこの時間まで根詰めてがんばってる人もいるのにさ。根性なしが多くて困るわ」

「どなたか辞められたんですか?」

「そう。まあた求人をかけんとならん。かなわんわ」


 改めて彼の容貌を確かめた。あらさーだろうか。がっしりした体格のこわもてで、全身からやる気オーラが吹き出していた。胸に付けられたネームプレートを見てぎょっとする。店員じゃなくて、店長だったのか!

 態度だけを見れば、人を人とも思わない前社のパワハラ上司にそっくりだった。だが、いかにもせっかちな店長は、次の瞬間もう別の売り場の在庫状況をすさまじい勢いでチェックし始めた。その目の中にはすでに俺が入っていない。


「やり手だなあ」


 命令だけを残し、全てが文字と数字に換算されてしまう前の職場。上司の脳裏では、俺の存在まですでに数値換算されていたんだろう。だがこのスーパーの店長は、見るからに、どこまでも、人間臭かったんだ。遠く離れていてもぷんぷん匂ってくるほどに。その匂いを嗅ぎ取った俺は、なぜか心からほっとしていた。


 俺は、買い物かごを手にしたまま店長に話しかけた。


「あの……」


◇ ◇ ◇


 店長は、雇ってくれないかと申し出た俺を見て全力で驚いていたが、前任者が辞めたあとを俺が埋めれば求人の手間が省けると割り切ったたんだろう。あっさりオーケーが出た。長く続くとは思っていなかっただろうけどね。俺は俺で、全く違う仕事をこなせるかどうか見当がつかなかった。

 せっかちを絵に描いたような店長が、仕事を手取り足取り教えてくれるはずがない。古参のパートさんや店員さんに段取りを聞きまくりながら、ざばざばと業務をこなす日々が始まった。


 仕事の段取りや扱い商品の把握、品出しと陳列の方法、納品対応や金の扱い。古参のスタッフは俺にとても親切に接してくれた。店長の両親と一緒に長く働いてきた、家族のようなスタッフ。結束は堅いのに、新入りの俺を排斥する狭量な人が誰もいない。それがすごく不思議だった。だがベテランスタッフとの雑談を通して、彼らが親切にしてくれる理由がそれとなく知れた。さのやは……危機に直面していたんだ。


 五年前、店長の両親は時流に合わなくなってしまったさのやをもう畳むつもりだったらしい。常に自転車操業の状態で、朝から晩までずっと働きづめの生活が堪えるトシになったと。経営者の息子である今の店長が店を継ぐと言わなければ、もう閉店していたんだ。

 是が非でも職場を守り抜かなければならない。つまらない意地や狭い仲間意識にこだわると、すぐに終わりが来てしまう。二代目をみんなで支えなければ。だからこその『親切』だった。


 そして。長く働いてきたスタッフは、親切であると同時にプライドが鬼のように高かった。外様で新参の俺は、彼らのテリトリーの中には踏み込めない。俺が関われた売り場は店長が直に扱っている分に限られていたんだが……。にも関わらず、仕事は肉体的にめちゃめちゃハードだった。俺は、店長の化け物みたいな体力と行動力を改めて思い知らされることになった。


◇ ◇ ◇


 無我夢中で駆け回っている時期が過ぎ、仕事の負荷に体が慣れてくると、店員の仕事が楽しく感じられるようになっていた。なぜだろう? 自分でも不思議だった。でも、その理由がふと思い浮かんだ。

 俺は、動かされてるんじゃなく動かしている。雇われの立場だから、俺の裁量で何かが出来るわけじゃないよ。でも手にしているものが勝手に動くんじゃなく、品出しして棚に並べる俺がそいつを動かしているんだ。動かした結果は売り上げや利益という数字に換算されるんだろう。でも、俺が数字に引っ張られているわけじゃなく、俺の動かした結果が数字に形を与えているという納得感や満足感があった。だから、すごくわくわくしたんだ。


 こいつもどうせ腰掛けだと最初冷ややかだった店長は、音を上げずに働く俺を見て安心したんだろう。作業の手伝いだけではなく、売り場の一部を俺に持たせてくれるようになった。ベテラン店員さんがいる手前、ほんの一部だけだったけどね。それが、入り口近くの小さな生花コーナーだった。

 投げ込み用のバケツが三つ。鉢花を並べる台が少し。面積として一畳もないところに、ごちゃごちゃと切り花や小さな鉢植えを並べる。仕入れ値が安いから利益率はいいものの、商品点数とさばけ方を考えれば全体売り上げにはほとんど貢献しない。だが正面入り口の側っていうのは店のイメージを大きく左右するスペースで、そこを花で明るくすれば集客にプラスに働く。店長から「手を抜かないでくれ」と何度も念を押されていた。

 でも。店長が俺に花を扱わせた本当の意図は、別のところにあったんだ。俺はそれを、さのやで迎えた最初のクリスマスシーズンに思い知った。


 やらかしてしまった大失敗によって、ね。


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