ch.4 血の色をした夜

 夜が来た。

 北の浜では焚火を囲んで、アムとパチャラが座っている。男性陣はトゥトゥの監視監督のもと南の浜で雑魚寝だ。

 <龍挑みの儀>の前は性欲に流されることも禁止である。

 昼間の一件から、ギュギたちの姿が見えるところで寝るなんてアムは絶対に嫌だった。

 静かな夜で、波の間を跳ね飛ぶ魚の着水音まで聞こえる。

 常夏の世界でも夜は冷えた。アムは夜具布と呼ばれる海藻繊維の一枚布を体に巻き付け暖を取っている。

 空には満天の星がかかっていた。焚火の炎が少しだけその煌めきを減じていても、なお有り余るほどの輝点が散っている。水平線すれすれにある大きな星は海龍の導き星と呼ばれるものだ。一年中沈むことのない星だから夜間航海の良い目印になる。

 その空からアムは目を離して、言った。

「寝ないの」

 さり、さり、という小刀を動かす規則正しい音が夜の闇を刻んでいる。

 アムの問いかけにもその音は止まらず、むしろ邪魔するなという頑なな拒絶を示していた。

 このまま寝ないつもりなんだろうな、とアムは思う。

 パチャラは髪をひとつにまとめ、胡坐を組んで、肩に銛をかけて、今朝がた獲った猛禽の翼を装飾用に加工しているところだ。この世ならざる精霊を思わせる不可思議さで、炎に照らされた彼女はこの深い夜に息づいている。

 そっと横に寄ってみた。

 パチャラは体を微かに緊張させたが、あからさまな拒否はしない。

 アムはメモを取り出した。海風と塩気で不格好になった紙のメモ。

 航海のごとに新しいメモを持ち出しては、見聞きしたあらゆるものを書きつける。それは言語学者としてのかけがえのない財産だ。あと何冊メモを書き溜めれば満足するのかは分からず、永久に満足しないだろうとも思う。

 二十一世紀からほとんど進歩していないボールペンを取り出して、一文を書き加えた。

『<龍挑みの儀>に際する最終夜の過ごし方』

 この星では電子機器が十全に働かないから、アナログな手法に頼らざるを得ない。

 ペンを動かして書き綴っていると、小刀の音が途切れているのに気づいた。

 顔を上げる。

 パチャラと目が合った。

 気まずそうにそっぽを向かれる。

「ええと、これはペンといって、中に墨が入っているの。こっちはメモ。ほら仮面劇の時に台本にするようなのを、余所者風にするとこうなるってわけ」

 アムは問わず語りに言った。

「パチャラも知っての通り、私はあなたたちセムタム族の暮らしに興味がある。それで、見聞きしたものをこうして余所者の言葉に直して書きつけているわけ」

 パチャラの小刀は動かない。

 ということは、まだ聞く態勢だ。

 続ける。

「私はあなたのように物覚えが良くないから、こうして書いておかないと忘れてしまうの。生まれたときからセムタム族の仲間だったわけじゃないしね。今は<龍挑みの儀>についての作法や、経緯を書いてる。誰が、どんな龍に、どうやって挑むのか」

 つい、とパチャラの視線が動いた。

 肩にちょんと顎を乗せるようにしてメモを眺めている。

 汎銀河系共通語のアルファベットを、じっくりと見るのは初めてなのではないだろうか。

「それが字?」

「そう。あなたたちのハウライ文字とはだいぶと違うでしょ。パチャラのことも書いてあるわ。ええと」

 メモをめくって、<参加する人物>の項を見つけた。

 パチャラという文字列を指して言う。

「これがパ・チャ・ラって言葉」

「ふうん」

 少しだけ口角が上がったのをアムは確かに認めた。

 嬉しいと思う。

 このクールビューティのことが、尊敬できる同性という意味でアムは大好きだ。

 一応は成人親でもある。何かしらの、後輩に抱くような愛着もまた感じていた。

「わたしの下にあるそれ、トゥトゥ?」

「え、すごい。良くわかったわね!?」

 パチャラの目が泳ぐ。

 どうリアクションしたらいいのか咄嗟に出てこなかった、という顔をしている。

 口がへの字になって、ぎゅっと結ばれた。もしかしたら頬は赤らんですらいるかもしれない。太陽光のもとで見られなかったのが残念なくらいだった。

「褒めたのよ」

「わかってる」

 顔を肩の間に埋めたパチャラは、もそもそと応える。

 アムは平静を装う努力をしつつ言った。

「どうしてこの文字の並びがトゥトゥだって思ったの?」

「……」

「ええと」

「同じ並びが二回」

 アムは絶句した。

 メモに書きつけてあるのは筆記体だ。ブロック体ではない。しかも、自分で言いたくはないがアムは悪筆である。自分で書いたメモを読み直して読み解けないことがたまにあるほど。

 だから死にかけのミミズが痙攣を起こした字(と、幼いころ教師に厳しく言われたが、残念ながら不治の痙攣である)を一目見て、汎銀河系共通語を一言も知らない知性体が読み解けるとは信じられなかったのだ。

「才能がある。許されるなら助手になって欲しいくらいよパチャラ」

 パチャラは手を上げて、顔の前でひらひらさせる。

 黙れ、というジェスチャー。

 これ以上こちらと話す気は無いというはっきりした意思表示だった。

 アムは、

「そう。分かった。うるさくしてごめんなさい」

 とだけ言って少し体を離す。

 パチャラの緊張を解くために視線をメモに落として、いくつかの発見を書き留めた。儀式の前に入れるボディーペイントについて、ギュギたち男性陣の刺青の考察。トゥトゥが考案したつみれ汁のレシピ……。

 そのうちに、また小刀の音がし始める。

 さり、さり、さり。

 何を作っているのか、それは<龍挑みの儀>にどう関連するのか。その肝心な問いに辿り着けなかったことをアムは悔やんだ。

 <龍挑みの儀>が無事に成功した後に――と思って、昼間のトゥトゥの声が甦る。

(そんな時に楽しくお喋りしてたからって真後ろにいる馬鹿に気づかねえなんてのは駄目だ。

 吐き気が喉までせり上がる。思い出さなければ良かったと、それでまた後悔した。

 しかしこのひりつくような緊張感こそが<龍挑みの儀>の前夜として正しい姿なのだろう。

 文字通り、パチャラたちは龍に挑むのだ。それはセムタムの何十倍もの質量を誇る巨大生物との真っ向からの闘いである。神経が尖らなくては嘘だと思う。

 ギュギは、トゥトゥは、今何を考えているのだろう。それとも早々に寝てしまっただろうか。

 部外者はこれ以上に踏み込まない方が良い、とアムは自分に言い聞かせた。

 極力ペン先の音すら抑えてパチャラの様子をメモ帳に素描する。

 たまにそっと目線を上げてパチャラの様子を伺った。

 二秒以上見ていると、引き絞られた弓矢のような満月色の瞳がアムを睨む。

 だからアムはずっと下を見ていて苦しくなったとき以外は顔を上げないように努めた。

 小刀の音とペンの音が、素朴な協奏曲を奏でている。

「ドクター」

 唐突にパチャラが言った。

 不意を突かれてアムはペンとメモ帳を取り落とす。ばたばたと拾い集めているうちに、パチャラは立ち上がっていた。

 見えざる敵に向かって愛用の銛を構える。穂先には芸術的に鋭いかえしがついていて一度刺されば二度と抜けない。抜こうとすれば己の皮膚をごっそりと持って行かれることになるだろう。

 パチャラの体が沈む。たわんで、それから劇的に伸びる。

 焚火を斬り落とさんばかりの勢いで宙を薙ぎ払った穂先の軌跡に合わせて、猛禽の羽飾りが広がった。

「綺麗――」

 アムは呆けたように言い、それからパチャラがわざわざ見せてくれたのだと思い至る。

「ありがとう、パチャラ」

「何も」

 と言いつつも、嬉しそうにパチャラは銛を反転させた。

 それで、もう片方の羽がふわりと夜に浮かぶ。

 彼女の銛は猛禽の魂を宿したのだ。空を行く者を制した証。明日に向けての気合を込めた一閃。勝つ、とパチャラは宣言したのだった。

 アムは自然と拍手している。

 その手の中にポツリと水滴が落ちた。

「やだ、雨」

 メモを閉じる。雷鳴が響く。

 スコールの前触れだろうか。

 この常夏の星では突然に強い風雨に襲われることがよくあった。

 水がもう一滴落ちてきて、立ち上がったアムの鼻先に当たる。途端に、違和感を覚えた。

 これは雨の匂いではない。

 と、と、ととととと……と水滴が続けざまに落ちてきた。

 アムはその液体の正体に、気づきたくなかったが気づいてしまう。

 金臭い。

 これは血だ。

 何処からか血が。

 何処から降ってきている?

 びょう、と風切り音を立ててパチャラの銛がアムの頭上近くをよぎった。

 穂先が硬い物に当たって高く響き、衝撃にパチャラがたたらを踏んだのと、たたらを踏ませたものがアムの横にどさりと落下したのがほぼ同時のこと。

 焚火に照らされた正体不明の何かは濡れそぼって見えた。

 アムは恐る恐る手を伸ばそうとしたが、パチャラが拾い上げる方が早い。

 それは、手のひらよりも大きかった。パチャラの手からはみ出した部分は鋭利なカーブを描いて内側に向いている。

 空が光った。ほんのコンマ数秒遅れで雷鳴が轟く。その閃光に漂白されて、パチャラが持っているものが何なのかアムにも理解できた。

「パチャラ、それ……爪よね。龍の……」

 パチャラの顔が蒼白に見えるのは稲光のせいばかりでもあるまい。

 手に持った巨大な爪を持ち上げて、フラスコをかざす学生のように目の前で振る。

 爪は無傷でそこに在るわけではないようだった。

 パチャラが手にした爪の付け根側は随分手前から折れて――砕けていた。

 ならば爪の総長はどれほどあるのだろうか。先端だけでパチャラの手のひらからはみ出しているのだ。

 どおん、とまた派手な雷が鳴る。

「赤い」

 パチャラの唇はそう言った。

 確かに、聞き間違えようもなく。

「赤い」

 アムの胸中で、その言葉は不穏な淀みとして渦を巻く。

 明日パチャラたちが闘う予定の龍は、赤い鉤爪がトレードマークの飛龍であると聞いていたからだ。

 それが何故、欠損して天から落ちてこなくてはならないのか。

 ただならぬ気配を感じて、トゥトゥたち男性陣が林の奥から姿を現した。

「ドク、どうしたんだ」

「ねえ見てトゥトゥ。これ――」

 パチャラが手に持った爪を掲げる。誰もが息を飲んだ。

 劇的な効果を増すように、また稲光が天を走る。

 見上げると空は一面の雲の海。それでも雨が一粒も落ちてこないというのは、それが雨雲でなく飛龍雲であるからだろう。

「ともかくすべては夜が明けてからだ」

 トゥトゥは言って口を引き結び、雨雲を睨んだ。

 一行はトゥトゥの指示に従って密林の中に入る。

 固まって夜を過ごすことに決まったが、ギュギの視線を感じてますますアムは寝付かれず、アムの横ではパチャラが三角座りで静かな寝息を立てていた。

「寝ろ」

 と小さくトゥトゥが言ったが、アムは首を振る。

「やれやれ」

 トゥトゥは手近な木にもたれて軽く目を閉じた。

 樹冠の向こうに見える空にはまだ盛んに雷が走っては消えていく。アムはその中に、明日パチャラが挑む龍の姿を思い描いていた。

 緑の鱗、赤い爪、鉤型の嘴。声が大きく、陽気で、この島を中心に縄張りを持っていて、龍でもセムタムでも気が合いそうであれば一日中でも引き留めてお喋りをする。

 そういうことを、アムはアンクレットを編んでいたギュギたちから聞いた。

 勝つことが出来るのだろうか。

 その龍は雷雲の向こうで一体何をしているのだろうか。

 結局一睡もできないまま、朝が来る。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る