四十話 信頼と裏切り

 カイトがミリを追って数分経った頃、セレカティアは脱力した体に鞭を打ち、ようやく四つん這いとなった。ミリに触れられただけで、持っていた体力の全て失った感覚に襲われ、これから走れと言われても、絶対に無理だろう。それどころか、歩こうと踏みだそうとすれば一歩目から崩れ落ちる自信だってある。このような体験が初めてであるため、戸惑いすら抱いている始末だ。

 何もないところで二人が倒れる光景を目にした一般人にとって、異様なものだったはずだ。そのためか、至るところで足を止め、セレカティアへと視線を向けてくる、

「参ったね。人が集まってきた」

 ニールは頭を掻き、困った表情を浮かべる。しかし、そこから表される感情が一切伝わってこず、彼の動作の何もかも嘘だということが、セレカティアにとってとてつもない憤りを覚えさせた。

「ここまで人が居れば、何も出来ないしな……」

 そう言うと、左手を握り締める。

「ご退場願おうか」

 すると、握り締められたと同時に、近くで何かが砕ける音が後方から聞こえてきた。

「まさか……」

 残りの捕縛箱を潰した音。

 華奢な体をしていても、それくらいの事が出来る程度の握力を持っていたようだ。

「僕なりに鍛えてたんだよ。男たるもの、好きな女性に振り向いてほしいからね」

 セレカティアの見る先には、漂う黒い霧がいくつも見受けられた、ニールが破壊した捕縛箱一つだけではなかった。およそ三つの捕縛箱が破壊している。

 残りが二つと思っていた物よりも一つ多い。どうやら、三人から奪った捕縛箱とは他に、複数所有していたのか。

 一人で何人も相手は出来ない。絶望的だ。

靄は人の形を取り始め、男二人と女一人の姿を現した。そして、彼らは何かを訴えるかのように、空に向けて断末魔とも言える奇声を発した。そして、彼らはこちらの様子を窺う一般人達へと近づき、すれ違いざまに触れていく。

 触れられた人から次々と顔を青ざめさせ、その場で膝を着いたり、壁に寄りかかり始める。気分を悪くしたのか、四つん這いで口を覆っている子供もおり、体に与える現象が芳しくないと見て取れた。

「や、やめなさいよ……っ! 苦しんでるじゃない……」

「あぁ、そうだね。だが、知ったことがじゃあない」

 セレカティアの言葉をあしらうように告げるニールは、その場から足早と立ち去る者や動けずに項垂れる者を醒めた目で見据え続ける。

「彼らはミストを汚らわしいものとしか見ていない連中だ。お似合いだよ。そう思わないかい? 特に知りもしないのに見知った奴のものだとしてもね」

「他の人は知らないんだから……仕方ないじゃない……」

 ミストの正体が人間であるということは還し屋以外、知る事は出来ない。その上、一般人がその正体を知ろうものなら厳重な監視がつくことになり、最悪の場合は監獄へと収容されてしまう。

 正体の露見が、世間に対する影響力が絶大であるということが示唆されている以上、下手に知られる訳にはいかないのだ。ミストに関する認知が全て良い方向に傾くとは限らない。それならば、本職としている者のみが知っている方が都合良い。

「それが愚かなんだよ。彼らは知り、後悔するべきだ。自分達が蔑んでいたものは、大切な存在だったという事をね。知ることで、得られるものは大きい。そうだろう?」

「そんなの代償が――」

「大きい、か。そんなことはない。幾人の後悔の事を思えば、アリくらいに小さい」

 何故、彼はそこまでして還し屋とは対になる行動をするのか。ミストである人を救い、秘密を守り続ける。それが、自分達の行う事であり、絶対だ。

「情報の共有とでも言いたいの!? そんな事、許されないわ」

「皆が知る必要があるよ。そして、僕みたいに感動してくれたらそれでいい」

「そんな――っ!!」

「いい加減うるさいよ」

 その言葉と同時に目の前に瞳を憎しみの表情を浮かべ、真っ黒に染めた女性が現れ、僅かに俯いた状態でこちらを見上げる視線を送ってきた。

 今の状態で触れられると、確実に意識を持って行かれてしまう。

 セレカティアは息を呑み、覚悟する。

 しかし、

「待ちな」

 突然、ニールが女性の行動を制止させる。女性は恨めしそうに彼を睨みつけると、その場から姿を消した。

 疑問に思い、彼の方を見ると、こちらに視線を向けていなかった。自分とは反対方向の、ある人物を見つめていた。その人物は行き倒れた人と奇声を発するミストを交互に見回す。

「姐さん……」

 クリスは複雑な面持ちで、ニールを見据える。

 支援者である彼が還し屋とは対となる行為をしているという事が、彼女にとって途轍もない衝撃を与えただろう。今まで信じて疑わなかった存在の裏切りが、彼女達をひどく動揺させた。

「やあ、クリス」

 ニールが笑みを浮かべると、クリスは眉を顰め、低い声で問いかける。

「ニールさん、これはどういうつもりで?」

「見ての通りだよ。情報共有の実施だよ」

「……それで、うちの可愛い弟と妹に出したと」

 クリスは深く息を吐くと、大きく舌打ちをした。

「ふざけんなよ、ニール」

「好きな人に凄まれるって中々傷付くね……」

 口ではそう言っているが、全く傷付いているようには見えなかった。

「私が独立したいって言った時、支援してくれたのはとても嬉しかった。それって、最初からこれが目的だったの?」

 珍しく、クリスの表情が苦し気に歪む。

 ニールがクリスの好意を抱いていたのはずっと前から知っていた。それを彼女は適当にあしらっていたが、その関係が居心地の良いものに見えた。仕事関係以上恋人未満。つまり、良い友人でいたいという、彼女の想いが十分に伝わってきた。

 それが、今。この時点で、儚くも崩れ去ろうとしている。

 ニールは頬を掻き、黙る。

「ニール、何か言っ――」

「そうだよ」

 彼は笑みを浮かべる。

「元々、ミストの正体を知りたいが為に君に近付いた。押せば、教えてくれると思ったしね。だから、支援もした。良い関係になれば、何処かで口を滑らせてくれると思ったけど、鉄則はきちんと守ってダメダメだったよ」

 その言葉に、クリスは顔を俯かせてしまう。突き付けられた事実に、流石の彼女もショックを隠し切れなかったようだ。

 セレカティアは歯を食い縛り、ニールを睨みつける。

「あんた……最低ね」

「何とでも言えばいいよ。ただ、僕のクリスに対する気持ちは嘘じゃない。何年も君を見れば、必然とそうなる。それも事実だ。君にやってきた事に何一つ嘘はない。少し、方向性が違っただけだ」

 目的の方向性。

 その向きが還し屋との対立を生むという事を知っていながらも、彼は実行した。バレれば、彼女との関係が終わってしまうリスクを背負っているのに。想いがそのリスクを軽々と跳ね除けてしまう。言葉だけ聞けば、純恋ではあるが、それは決して許されないことだ。

 人を傷付けてまで行うものではない。

「ニール……」

 クリスは顔を上げ、寂しげな面持ちで告げる。

「残念よ。良い相棒だと思ってたのに」

「あぁ、僕もだよ」

 決別の言葉が交差する。

 その瞬間、クリスがこちらに向けて指を鳴らす。

 一瞬の出来事に、セレカティアは断末魔を聴かないように耳を塞ぐ事も出来ず、耳元でままともに聴いてしまった。

 姿を消していた先程の女性のミストが視界に入っていないところに居たのが、その時に初めて分かった。ただ逃げていたのではなく、自分に触れようと姿を消し、機会をうかがっていた。

「よくわかったね」

「完全に見えない状態で触れる事なんて出来ないからね。それに、この場で潰すならセレカの方を潰すと思ったから」

「流石は所長様だ。けど、一つだけ違うね」

「何ですって?」

「本当に面倒なのは……君だよ」

 ニールがそう告げたとほぼ同じタイミングで、クリスの体が大きく仰け反った。その陰で別のミストが何かを振り上げているのも見える。

 刃物。

 実体のないミストがどうして刃物なんか持てるのかと一瞬、動揺したが、淡く光るその刃物がミストの所有物だったのが分かった。

 クリスが地面に仰向けで倒れ、地面に幾つもの血液が飛び散る。彼女の顔から血を流しており、悪寒が走った。

「姐さんっ!!」

「纏めて還せる還し屋なんてそうそう居ないし、邪魔なんだよね。目を潰せば、それも出来ないよね?」

 確かにそうだ。ミストを還すのには、施術した目で正確な位置を捉え、行動に移す。ミストの姿を捉える事が出来ない以上、適当に還す動作をしても意味を成さないのだ。

「真下に居るとは……思わなかったな……」

 クリスは左目を押さえ、起き上がる。

地面に血の海を作っているところを見ると、傷が思っているよりも酷いようだ。女性の顔から突然、血が噴き出すような怪奇現象を目の当たりにした何人もの通行人から悲鳴が上がる。

「これで、戦力はガクッと下がったね。セレカちゃん一人でどう切り抜けるか見物だ」

 一々腹の立つ発言をしてくるが、彼は正しい。

 一度に何人ものミストを還す芸当は出来ない。その様な事は出来るのはクリスのような天才くらいだ。

「これで――」

 ニールはクリスを指差し、

「おやすみだ」

 指を跳ねさせた。

 クリスの目を狙ったミストが空いた手で、彼女を襲う。

 しかし、

「まだ寝るには早いわ」

 クリスが指を弾く。

 そして、ミストが悲鳴を上げ、消え去る。

 その光景が信じられなかったのか、ニールの表情が大きく歪んだ。余裕な表情からひどく崩れるのはとても醜いものだった。今まで自分の掌の上にあった物が音を立てて瓦解していく事は、プライドも共に瓦解する。

「どうして……目は潰した筈っ」

「いった……確かに目は潰されてる」

 クリスは血だらけの手を振り、舌打ちする。

「ま、それは五年前だけど……」

「五年……前……?」

 五年前とは、彼女が事務所を開いた年だ。

 自分がクリスと出会ったのはもっと前で、事務所を開いた時も一緒に居た。その間五年間、彼女が片目を失う程の重傷を負ったような事はなかった。長期的な休みと言えば、一度だけの一人旅の一週間。

 その時か。

「依頼先でミストの暴走があって片目をね。商売道具の左目だったから、義眼を入れたのよ。視神経までは潰れてなかったから、義眼に直に繋げてる……」

「そんな技術……いや、有り得るか……捕縛箱作れる技術があるくらいだもんね……」

「あぁあ……視界が割れてる……。けど、あと二人かな? それとも、もう少し居る?」

 還し屋としての機能は健在だとしても、人としての機能は著しく低下しているのが目に見えて分かる。今の彼女の状態なら、華奢なニールでも負けてしまう可能性が出てきた。

 それを彼がするのかが分かれ目でもある。好意を抱いている彼女に手を出す程の度胸があるのか。

「女性に暴力を振る程、僕は落ちぶれてない……けど、今回ばかりはそうもいかなくなったね」

「運動音痴の支援者に負けてたら、あの子に馬鹿にされるわ。来るなら来なさいな」

「僕なりにやってみ――おいおい……どこまで……あのクソガキ……っ」

 ニールがある場所を見て、言葉を切ると、忌々しく吐き捨てる。

 セレカティアはニールが睨みつける方へ目を向けた。

 そこには、一人の少年と淡く光る少女が居た。

 少年は深く息を吐き、低い声で告げる。

「覚悟は出来てんだろうな? ニール」

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